第105話 教養授業24限目。鈴音先生、ニーチェを語る…その②

水曜日の3限目の授業が終わった。短い休憩時間の後、

4限目開始のチャイムが鳴ってまもなく、教室に鈴音先生が入って来た。

「起立!」「礼!」

今日も鈴音先生の優しい声が響く。

今週の教養授業の始まりだ。


「以前の教養授業でニーチェ哲学の概要に関して語りましたが、

今日はもう少し踏み込んで、ツァラトゥストラの中に出て来る、

ルサンチマンについて語りたいと思います。

このルサンチマンとは、ニーチェの作った概念のひとつで、

日本語では【内燃的な復讐】とか【奴隷道徳】、【自己欺瞞】、

【恨み】などと訳されていますが、これでは少々分かりにくいので、

もう少し分かり易く解説したいと思います。


ニーチェは道徳と呼ばれているものにはふたつあると語っています。

ひとつは貴族道徳。これは単純に言うと、貴族という優秀な存在を肯定し、

それ以外の劣った存在を否定する…。生まれによる単純な優劣の概念。

もうひとつが奴隷道徳。これは弱者が強い者、貴族的存在を悪とし、

その対極にある自分達を善とする概念…というものです。

より具体的に説明すると、奴隷道徳…ルサンチマン的思考とは、

例えば、


『貧乏で苦しい、平民の私がいる。

私はお金持ちの貴族にはなれない。

でもお金持ちの貴族の世界は物欲やしきたりに追われ、

ギスギスしていて心が貧しくなる。

だから本当に貧しいのは私じゃなくて、お金持ちの貴族の方なんだ!

なので心の貧しいお金持ちの貴族族のために、

心の裕福な私がお祈りしてあげましょう』


こんな感じでしょうか?

この様な無意識的な価値の変換がルサンチマンであるという事です。

自己欺瞞の一種と言って良いでしょう。

実際には自分がお金持ちになる事が本当の解決策なのですが、

そうは出来ない為に無理くりこういう理屈を作って、

心の安寧を作り出している…という訳です。


これをいじめで当てはめて考えると、

『いじめられて可哀相な私がいる。

でも現実の私は弱く、反撃の行動が起こせない。

でも人をいじめる人は、心の病んだ不幸な人だ。

だから本当に可哀相なのは、私じゃなくていじめっこの方なんだ!

なので可哀相ないじめっこが幸せになれるよう、

私がお祈りしてあげましょう』…こんな感じですかね。


実際の根本的な解決策は、いじめを行っている相手を実力で

やっつけて、撃退する事ですが、それが出来ない為に、

自分の心の中で自己欺瞞を行い、お祈りしてあげよう~みたいな、

上から目線になって、心の安寧を保っている訳ですね。


『戦争によって私の周りの人たちが多く殺された、

だから私は医者になって多くの人の命を救う』と考えて医者になったとしたら、

その原動力もルサンチマンと言えるでしょう。

だって、根本的な解決策は戦争を防ぐ事ですから、

それなら医者より政治家を目指すべきです。


この様に、ルサンチマンは一種の自己欺瞞であり、

故に奴隷の道徳であるとニーチェは言う訳です。

では、このルサンチマン…自己欺瞞の、何が問題なのでしょうか?


それは第一に想像上の解決であるため、現実的解決にはなりえない事。

いじめがあれば、実際に自分が強くなったり、先生に相談したりと、

具体的なアクションを起こさなければ、問題は解決しません。

想像上の安易な解決は、自分の中だけでの自己欺瞞的なものに終り、

現実は何も変わりません。


第二にそれが無意識のうちに形成されたものであるため、意識的な制御がきかず、

非常に病的で駆り立てられるような衝動が、心の中に起こる事です。

これでは客観的な思考力が奪われ、空回りする非建設的で破壊的な行動に

繋がる可能性があります。

あらゆる善意に対して、【偽善】と叫ばなければ気がすまぬ人、

すべての人間に優しくせねば不安になる人、

些細なし好や趣味、性向や性差の発露にすら過剰な糾弾で応じる人、等々。

昨今のSNS等で起きる問題の多くは、ルサンチマンによるものだと言えます。


禅などの東洋思想では、中庸という考え方を大事にしますが、

ルサンチマン…自己欺瞞による想念というものは、これとは相いれません。

キリスト教における清貧の思想…これこそルサンチマン…奴隷道徳であり、

これによって支配者に従順な奴隷が数多く作られた…

これがニーチェの考え方です。

だって、豊かな事の何が悪いというのでしょう。

清貧が豊かな事に対して優れている根拠はなんでしょう?


日本で公務員の過労死が話題になった時、

「民間企業はこんなもんじゃない!公務員で過労死するとか、

あり得ないでしょ?」みたいな理屈を言う人がいましたが、

これもルサンチマン的思考です。

何故ならこの意見はまったく建設的ではない。

実際には如何に適正な労働環境にするかが重要なのであって、

この意見は、民間=大変、公務員=楽という変な固定観念を

発露しているだけですね。無意識に公務員を羨ましく思っている…

恨んでいると言って良いでしょう。


なので、何かしら自分の生に不全感、漠然とした不幸を感じている人は、

一度自分の行いを冷静に振り返ってみましょう。

そうすると、多くの場合、自分の行為の根に「恨み」があることに

気付くからです。


ルサンチマン…自己欺瞞は人を動かす強い原動力になります。

しかし、その利点とは別に、色々な問題を引き起こすのも事実です。

恨みによる強烈なバイアス…心的偏見、認知の歪みは、

客観的な解法を考える事をせず、無自覚なまま問題を放置するからです。


ルサンチマンの問題を解決するには、

端的に恨みを持たないということが重要になります。

より分かりやすく言うと、真っ直ぐに生きるということです。

ニーチェの言う、超人、その最終形態である、幼子…。

すなわち全てを肯定し、想像力に身を任せ、思うがままに戯れる…。

何物にも縛られず、子どものように軽やかに歌い踊り、

この地上での生の喜びを日々感じながら、

自分の意志をなにより大事にする生き方…と言えば良いでしょうか?


その方法として最も重要なのは、

そもそも恨みを持つような状況を作らないことです。

自分の心に正直になり、殴られたら我慢せず殴り返し、

ノーと言いたい時はノーと言い、欲しいものがあれば欲する。

弱者であることがルサンチマンを生じさせる以上、

強者であることが必然的に求められるのです。

勿論その主軸となるのは精神的な強さのことであり、

いくら身体が強く財力を持っていても、メンタルが弱ければ弱者のままです。


一方で、もし自分の力では手に負えない圧倒的な力…

すなわち不慮の事故や天災などで恨みを持つような状況が出来てしまったなら、

それは運命として受け容れ、超然としていられる度量も必要になります。

その超人的な度量のための理論的な基礎付けとして、

ニーチェは「永劫回帰」の思想を語っているのですね。

私は私の人生から決して逃れられない、この代替不可能な生、

この世界でしか生きられない事に心底気付いた時、

人は自分の運命の全てを肯定する事が出来る、

超然と受け容れられる心構えと覚悟ができる…

とニーチェは言っているのです。


恨みと後悔は同根のものであり、

後悔とは自分自信に対して向いた恨みのことです。

恨まず、悔やまず、真っ直ぐに生きる時、人はルサンチマンの鎖から解放され、

ようやく澄んだ空気の中で生きることができるのでしょう。

これがニーチェの言う、真の意味での【超人】、

という存在なのかもしれません」


ここで授業終了を告げるチャイムが鳴った。

「起立!」「礼!」

鈴音先生が春風の様に教室を出て行くと、

俺(大橋)のすぐ傍に座っている、国際堕落研究会の

坂口安吾が、頬杖を付きながらゆっくりと呟いた。


「うむ。ニーチェの思想は、坂口安吾の著作、『堕落論』に相通じるものがある。

人は世が作ったからくり、しがらみ、そして自らが作った同じもの

から自由になり、内なる自己と対話せねばならない。

その為には…人は正しく堕ちる道を堕ちきる事が必要なのだ。

堕ちる道を堕ちきる事によって、自分自身を発見し、救わなければならない…」


俺は彼のセリフに、

改めて坂口安吾の堕落論を読んでみようかと思うのだった…。




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