第55話 平家の落人村にて…その④

昼食を取った俺たちが、本家伴久旅館の部屋でくつろいでいると、

暫くして俺たちの部屋を誰かがノックした。出てみると天音である。

「白雪お姉さま達が来られた故、女部屋に来ると良いぞ」

天音の言葉を聞いた俺たちは、早速連立って女部屋へと向かった。

女部屋に入ると、そこには雪音に鈴音先生、

それから俺たちの知らないふたりの女性が座っていた。

ひと目で八百比丘尼とわかる容貌…。色白で小柄、美しい黒髪…

手編みの白く厚いセーターが良く似合う美少女である。

如月姉妹や鈴音先生とはまた違う…どこか高貴な雰囲気があり…。

おそらく平家にゆかりがあるのだろう…俺は見た瞬間そう思った。


「みなさんに紹介致します。こちら私の正面右が白雪、左がその娘の初雪…。

ふたりはかつて平家一門に属しており、かれらが落ち延びる時、

共に下向してここに定住したのです。この村では昔から姫神様と慕われ、

村の神社の祭事や冠婚葬祭で神事を執り行って来ました。

この村の生き証人であり、歴史の語部です。

今日は特に私からお願いして、みなさんにその話をして貰う事にしました」


鈴音先生の紹介が終わると、白雪さんが美しい声で話始めた。

「初めてお目にかかります。白雪と申します。

遠路はるばるこの湯西川においで頂き、心より感謝致します。

今日は鈴音様のたっての願いとの由、湯西川、

旧栗山村の歴史とその生活をお話したいと思います…。


この村は文治元年(西暦1185年)に平家の一族、

平清盛公の家人であった平家貞公の嫡男である平貞能(さだよし)公が、

家臣と共に縁戚の宇都宮朝綱(ともつな)公を頼り、

関東へ下ったのが始まりです。

平貞能公は平家が都落ちする時に同道せず、一門と別れて関東に移動しました。

これは万が一に備え、平家一門の血筋を残す為です。

ですので壇ノ浦の合戦も含めた、源氏との戦いには参加しておりません。

源頼朝公から許可を頂いた上で宇都宮朝綱公の傘下となった事は、

鎌倉幕府の公式記録である吾妻鏡に記載がある通りです。

平家の政権そのものは打倒しても、その一門を根絶やしにする考えは、

頼朝公にはなかったのです。


最初は日光の肥沃な土地で暮らしていたのですが、その後時代が下るにつれ、

勝利者側の源氏…特に執権となった北条一族の強い圧力を受けた事から、

われら一族はこの湯西川の地に逃げる様に落ち延びる事となりました。

ここに来られる道中の道を皆さまご覧になって、おわかりかと思いますが、

この湯西川の地は奥深い山と谷に挟まれ、

来訪するには非常に険しい峠を越えて来る必要があります。

特に冬場は深い雪に覆われる為、外界との出入りがなくなります。

故に外部の侵入者からは守られ、長く平和な時代が続きました。


湯西川は標高が高く、河岸段丘から川底が低く、為に水利の便が悪く、

又春が遅く冬が早く来るので、お米の栽培がとても難しい土地でした。

神事に用いる米を作る為の田は僅かにありましたが、

非常に早生の種を播いても収穫は殆どなかったのです。 

ですので食糧は全て畑作に頼っていました。


畑作では主に「ヒエ」の栽培を行いましたので、主食は稗飯ですね…。

人家の周りは一面に稗畑で、秋の収穫には稗を刈り取って「ハデサオ」に掛け

て乾燥させ、雪の降る前に家の中に背負いこんで穂だけを切り取って、

大きな「スゴ」に入れ、蔵の中で重ねて貯蔵しました。


「ヒエ」は穂のそのままだと長期の保存が利きます。

脱穀する時は天気の好い日に蔵から出し、庭一面に「ムシロ」を敷き、

天日で乾燥して「グルリ棒」で脱穀し、各集落ごとにある水車で精米しましたね。


この水車を「クルマ」と呼び、三日一回りで

「クルマ番帳」で回り順に精米しました。当地の精米は蒸さないで

白撞きで水を打ちながら精米したので、真っ白な粘気のある稗飯になります。 

稗粥などは粘気があってとても美味しかった。 

稗、といえば今では小鳥の餌を連想するでしょうけれど、

当地では、何より大事な食糧だったのです。


その他、粟、大豆、麦、ジャガ芋、トウモロコシ、

南瓜等の雑穀、野菜類も栽培しました。大豆は麦畑の株間に

【ズックシ棒】で一粒づつ手作業で、穴をあけその中

へ豆を入れて植えたものです。播くのでなくて「豆植え」と言いました。


この【ズックシ棒】は、良く選別された固い木の枝で作りましたね。 

大豆は村の重要な作物であり、米が出来ない当地では、年貢は全て

大豆で納めていました。 あと、これらの痩地にはソバも

作る事が出来たので、石臼で曳いてソバ粉を作り、

ソバを打って食べました。皆さんは昼食で食べられたそうですね…」


白雪さんの話を聞いてわかるのは、今の俺たちの食事とはかけ離れた、

非常に質素な食生活であったと言う事だ…。


「お酒は非常な貴重品でしたが、会津との間で交流があったので、

村の女が会津まで行ってお酒を仕入れていました。

飲めるのは村の祭事か、冠婚葬祭の時ぐらいですが…。


その後この村は、天正18年(西暦1590年)豊臣秀吉の北条征伐の折、

見せしめで焼かれました。八百比丘尼一族の情報網で、

事前にこの事を知った私は、村人を逃したのですが、

一部逃げ切れなかった者が犠牲になった他、家屋の多くが燃やされた為、

それから5年程は本当に地獄の苦しみでした…。


ただ、お付き合いのあった周りの村々の人々は非常に親切で、

貧しい中からでも必死に私達を援助してくれたのが救いでした。

私達の難儀を知った遠い会津の酒問屋が、無償で酒樽を送って

くれた時には、村人一同涙を流して感謝したものです。

その時私は、その感謝の想いを綴った手紙を書き、

その酒樽を持って来てくれた手代さんにことづけました。


今の通信の発達した、物の溢れたこの時代…

もう直筆の手紙などは殆ど書かれなくなって久しいと思います。

もの凄く便利になったのは良いことかも知れませんが、

私は何かとても大切なものが失われたのではないかと思うのです。


この村は何百年もの間、外界から殆ど閉ざされていました。

人の行き来は近隣の村々と時々あるくらいです。

閉じた空間では、隣人と長く長く一緒に暮らしていく事になります。

気に入らないからお付き合いをしないとか…簡単にそんな事を

していたら、この厳しい環境で生きながらえる事など出来ません。

ですから、皆お互いに気を使い、お互いを気にかけ、

必要な時、困った時には協力し、嬉しい時には共に祝い、

悲しい時には一緒に悲しみ、常に笑顔をもって暮らしたのです。


今は誰とでも簡単に出会える反面、簡単に別れられます。

それはそれで良い事なのかもしれませんが、

古い時代のこの村にあった、人と人の間の深い深いお付き合い…

それはもはや経験出来ない様に思います。


昔は遠い友人から手紙が来た時など、

それこそ穴が開くほど幾度も幾度も読み返して、

その度笑顔になったものです。

昔は紙が大変貴重で高価なものでしたので、手紙を書く時などは

何度も何度も下書きをし、それこそ魂を込めて、

一字、一字、丁寧に書いたのですよ。

出した手紙がいつ届くかわからないし、返事がいつくるかもわかりません。

それが故にたった一文字の文字がとても重いものでした。

深く重い想いを乗せた手紙には、無限の夢があったのです。


今の時代、言葉はまるで塵の様に軽く、

すぐにどこかに飛んで行って消えてしまいます。

深く熱い想いが伝わる手紙というものの価値に、

皆さんはもう一度想いをはせて欲しいと私は思います。


それから当地に残る多くの古い品…特に着物や化粧道具、硯などは、

代々親からその子供へと大切に受け継がれたものです。

親からその子、そして孫、ひ孫へ…。

みんな同じ着物を着て嫁ぎ、化粧をし、硯で手紙を書きました。

そしてその事を常に誇りとしてきたのです。


物を大切にすること…人を大切にすること…。

この大事さを、失ってから知る様では駄目なのですよ…。

神が与えたこの豊かな温泉の流れと共に、

これからもこの湯西川の村は存在していく事でしょう。

この湯西川の歴史ある素晴らしい温泉に浸かりながら、

俗世界を離れて心を開放し、

諸々の迷いや悩みから目覚める事を私は望んでやみません…」


その⑤に続く…。

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