10月 長方形の小宇宙
旅行のときはたいていホテルに泊まりますけど、旅館も好きです。
まず部屋に案内されると大きな座卓の上にお茶とお菓子が用意してありますよね。あれを見るとうれしくなって、なにはともあれまず一杯お茶をいれていただいてしまいます。梅昆布茶とか普段は飲まないものでも、旅館の部屋ではなぜだかすごくおいしい。
そしてお菓子ですね。その土地の名産だったりして、ときどきすごくおいしいものに出会えたりします。あとで買って帰るために商品名を覚えておかなきゃいけませんね。
荷物をおいてぶらっと周囲を散策するのもいいですが、ちょっと時間が遅かったらもう浴衣と羽織に着替えてしまいましょう。普段和装に縁がないものだからまともに着るのも難しくて、座椅子に座れば裾が乱れるし、畳に寝転べば前がはだけてしまうのですが、まあいいでしょう。ここは自分の空間です。誰にだらしなく思われるわけでもありません。それとも、だらしなく思われても構わない相手しかいないか。
テレビでは地方局のキャスターが知らない場所のニュースを伝え、天気予報には見たことのない地図が映り、そんなところも旅情を感じたりしますよね。
旅館の苦手な点は仲居さんが部屋に入ってこられて気を使っちゃうことです。部屋で食事をするのもいいし、布団で寝るのもいいんですけど、その点ではホテルのほうが気楽かなあ。
旅館で一番好きなのは、あそこです。あの、窓際の、椅子とテーブルが置いてある空間。たいてい障子の外側なので、縁側に当たる場所ですね。みなさんも好きでしょう? 小さい冷蔵庫が置いてあったりしてね。
◆
旅先では、早く目が覚めることが多いです。
馴染みのない香りのする布団の中でふと目を覚ますと、窓の外はまだ暗く、太平洋の水平線を、あるいは日本アルプスの稜線を、薄い紫色と茜色がかすかに縁取っているだけだったりします。
旅の仲間の目を覚まさないように、わたしは静かに布団を抜け出し、飲み物を片手にその縁側の椅子に腰を下ろします。
障子を立てて個室にして、ガラス窓からの冷気を浴衣の裾から脚にひんやりと感じながら、少しずつ空に広がってゆく光を、夜が溶け去ってゆく様を、数秒でも目を離すとすっかり色と形を変えてしまう雲を、わたしはそこから見つめ続けます。
静かです。わたしがじっとしていると、何ひとつ動きも変化も無いような気がする。だけど風景は確実に明るさを増してゆき、神秘的な色は薄れてゆく。
でもそんな時間がどうやって終わるのか、忙しい、たのしい、あるいは淋しい旅の時間にそこからどうつながるのか、そのつなぎ目を不思議とちっとも覚えていないのです。
◆
あの時間に、終わりなんて無かったのかも知れません。
障子とガラス戸の間の長方形の小宇宙で、あの時や、あの時や、あの時の浴衣と羽織のわたしは、今も紫色の空を見つめているんじゃないのかな。
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