6月 災害、500円、膝の温もり

 人づきあいが苦手で気が弱いのは、昔も今も相変わらずなのですが、そうは言っても社会人です。出張先で営業的なことをしたり、営業に来られた方とお話したり、なんてことは、必要に迫られてできるようになりました。

 でも昔はそうじゃありませんでした。


   ◆


 学生の時のことです。

 わたしは電車に乗っていました。

 昼下りでした。どこへ向かっていたのかな。たぶん学校の帰りだったと思います。

 車内はがらがらで、多くの席は空いていました。


 なのに、わたしよりずっと年上の男が来て、二人がけの席の窓側に座っていたわたしの隣に座ったのです。

 あまり、身なりのきれいな人じゃありませんでした。


   ◆


 しばらくして、その人が話しかけてきました。

 何の話だったか、覚えていないけれど、特に中身の無い世間話だったと思います。

 人嫌いのわたしは、嫌だなあ、怖いなあと思いながら、仕方なく話の相手をしました。


 そのうち話題は、そのしばらく前に2つ隣の県で起こった災害についての話になりました。


 それはとても大きな自然災害で、大勢の人が亡くなり、さらに大勢の人が生活の基盤を失いました。連日ニュースになっていたし、わたしも被災した地域の一部を目にしたことがありました。


 自分はその災害によって仕事を失ったのだ、という意味のことを(実際には、もっと粗野できつい方言で)男は言いました。

 金が無いのだ、と男は言います。

 金がないのだ。

 この電車の料金を払う金も、無いのだ。

 少しでいいから、貸してもらえないか。

 金が無いのだ。

 自分はあの災害のせいで、仕事がないのだ。

 仕事を探すのにも、金が要る。

 貸してもらえないか。

 金を。

 貸してくれ。

 

 いつの間にか男は、片手をわたしの膝の上に置いて……というより、片手でわたしのももをがっちりとつかむようにしていました。


「放せよおっさん、てめえにやる金なんかねえよ」


 と言うのが正解だったのかもしれませんね。でもそんなことは言えませんでした。


「あの、お金は、少ししかないんです……」


 かまわない、と男は言いました。

 少しでもいい。いくらでもかまわない。

 いくらでも。


 暑い季節だったのか、体温のせいか、男の手が、布越しに気味が悪いほど熱かったのを覚えています。


 いくらでもかまわない。

 災害に遭ったのだ。

 仕事がないのだ。

 金が無いのだ。

 金が要るのだ。

 貸してくれないか。


 今思えば、その災害で失業した人が、わたしの地元で電車に乗ってるというのも、少し変な話でした。

 仕事を探したいのなら、近くに別の都会もあるのです。なにもこんな田舎で、昼間に電車に乗ってる必要なんて無いはずです。

 被災したというのは、嘘だったのだと思います。

 

 金が要るのだ。

 金が。

 少しでいい。

 貸してくれ。

 貸してくれ。

 金を。


「これしかないんです」

 と嘘を言って、たしか500円渡したのだったと思います。

 わたしは腹を立てていましたが、それを表現することはできませんでした。500円を受け取って、男は静かになりました。でも片手はそのまま、わたしの膝の上にありました。


   ◆


 それから10分かそこらで電車は駅に着き、たしかわたしは「すみません。降りますから」とか言って下車したのだったと思います。


 すまないな、という意味のことを男は言ったと思います。

 借りておくよ。

 すまないな。


 もちろん返す術などありません。

 わたしは膝に残った湿り気と温もりに強い嫌悪を感じながらホームに降り立ち、そして何年か経って、今このエッセイを、同じホームのベンチで書いています。


   ◆


 思い出すたびに不快になる記憶です。でも自分が間違っていた、正しくなかった、という気もするのです。

 しかしどうすればよかったのでしょう。どこで何を間違ったのでしょう。今ならどうするべきなのでしょう。

 いまだにはっきりとは分からないままです。

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