応援コメント

10月 武田くん(仮名)のこと」への応援コメント


  • 編集済

    こういう感じなんだかわかるなぁと思いながら読ませていただきました。
    大人になるとそれぞれ別々の道に行くので同級生と会うなんて本当に何年かに一度、もしくは数十年ぶりに会ったなんてこともこれから先あるわけで。

    でも例えば二十年ぶりくらいに会うのに、自分の中では昔の学生の頃のイメージのまま会うわけですよ。
    それくらい青春時代の仲間というのは人生においても特別で大切な記憶なのだなぁと実感しますね。

    私の場合で恐縮ですが、

    異性の友達は同性の友達とは違って
    “友情”に“信頼”とか“尊重”とか“尊敬”とか“愛情”みたいな気持ちが少なからずありますから、恋愛とは違ってもやはり特別な記憶にはなりますね。

    そんな“昔”の気分をほんのり思い出し少しセンチメンタルに酔いしれました。
    (*´ω`*)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    大人になるとなんかいろいろ寂しいなあ、と思います。もちろん新しい出会いも知らなかった世界もあるんですが、時間は決して戻らないですしね……。


  • 編集済

    狸も昔は歩ってました。
    子供の頃に聞いた昔話だと、「んでよ、ほだな真っ白なゆぎみぢばよ、どごまでもどごまでも歩っでぐどよ、みぢばださ、丸っこいたぬぎが――」みたいな。

    今回のエッセイは、そのまま私小説の草稿のようで、滋味が豊かでした。

    ラストの電話のくだりを、思わず怪奇幻想系に発展させたくなったりするのは、ひねこびた狸の悪癖です。すみません。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

     考えてみると、私小説というものを書いたことがないんですよね。

     でも、文章にしてしまうとどうしても鉋をかけたみたいになってしまい、このエッセイでもどこか嘘のような気がしています。小説にするという選択はこの件に関しては考えられませんでした。

     もし小説にするなら原形をとどめないくらい形をかえていただろうと思います。電話の着信ではなく発信を題材にした怪奇幻想譚なら読んでみたいかも。


  • 編集済

    わたしも「歩いて」を「あるって」と発音する地方から、見知らぬ人だらけの街に出てきた人間ですので、その心細さと、親しくなってくれた近しい人の存在の有り難さは身に染みてわかるような気がします。



    せめて電話くらい、故人に繋がればいいのに、と、よく考えます。

    電話の向こうのあの人は、あのときのままの時間にいるので、向こうから電話をもらうことはできない。向こうからかけたら、あのときの自分に繋がってしまうから。

    電話の向こうのあの人はあの時にいるので、話はいつも、いつかの繰り返しになる。あの人にとって自分はあのときの年齢のままなので、こちらがもうよく覚えてないことや、とっくに通りすぎてしまったことを、まるで昨日話したみたいに覚えており、こちらは逆に、遠い過去に聞いた話を思い出せないので、「この間話したばかりなのにもう忘れたのか」と怪訝がられたりするかもしれません。電話の向こうのあの人の声に、こちらの胸が詰まってしまい、心配をかけてしまうかもしれません。
    でもやっぱり、そんな風に、時々でいいからあの人と話せたらいいのになあ、と思います。かえって悲しいかもしれないし、時々、友人から奇妙な着信を受けとることになるかもしれないけれど。

    故人の番号が知らない誰かの番号になるまで、本当に電話をかけていたので、そんなことを考えてしまいました。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。
     もうずいぶん経ちましたから、記憶も薄れて変形しているだろうし、それを確かめる術もありません。ここに書いた内容にも間違いや混同があるだろうと思います。もう感情もぼんやりとしているのですが、なにかしみじみと、存在することの悲しみを思います。
     電話で故人と話したい、とは、実はわたしはあまり思いません。いつかどこかでみんないっしょになるのだし、それはそう遠くないような気もします。