第70話 あなたの空に小さな一歩

 それから暫くして、沖縄県那覇基地から葛城かける二尉が松島基地へやってきた。

 私はまだお会いしていないけれど、千斗星から聞いた限りではブルーインパルスのムードメーカーになりそうだと言っていた。

 顔つきは柔らかくて気遣いのできる優しい方のようで、女性キーパーさんからの評判もいいらしい。一年目の彼はまだ展示デビューはないけれど、その人気具合からアナウンスでデビューさせるんだと、千斗星が張り切っていた。

 確かに、人当たりがよいなら航空祭でのアナウンスは適任だと思う。その辺りが彼と千斗星の違うところだなとあらためて思う。


「星羽さん、お姉さんになりましたね」

「そうですか? まだまだ甘えん坊ですけど」

「いいえ、しっかしりておいでですよ」

「佐原さんのお陰です」


 今日は関東の自宅に空飛ぶおじいちゃんことタカヒトじいじが遊びに来ている。そこになぜか佐原さんも一緒だった。防衛大学校の校長先生になったお義父さんは、佐原さんをもう秘書のように使うことはできないはずなんだけど。


「佐原さん、お忙しいのでしょ? 幕僚監部って激務だと聞きますけど」

「いえいえ。こうして天衣さんや星羽さんに会えれば、忙しさなんて大したことありません。それに私は間もなく退官しますから」


 なんというか、これを聞くとお義父さんは面白くないみたいでご機嫌斜めになる。なぜならお義父さんは航空幕僚長の任期を終えたら、余生を楽しむ気満々だった。けれど、本人曰く佐原さんの罠にかかり校長にされられ、62歳までめいっぱい働かされるはめになったと口を尖られていた。罠にはめたご本人は一足先に定年退官を迎えるものだから更に面白くないのだ。


「納得いかないな。なぜ君が先に」

「校長。あなたの知識と経験をキッチリ未来の自衛官幹部たちにお授けください。使命ですよ、使命」

「まったく君ときたら。ま、それであの二人の定年も引き延ばしてやったからな。よしとするか」

「その件に関しましては、私は関係ありませんからね。そうそう、暁校長? 例のお話を」


 あの二人って、確実にあのお二方だよね。

 職権と言うものを乱用したらしいけれど、その件は私も知らないふりをしている。


「ああそうだった。星羽に気を取られて忘れるところだったよ。天衣ちゃん、ちょっといいかな」

「私、ですか?」


 突然の話の流れに驚いたけれど、お義父さんが真面目な顔で「そうだよ」と言うので姿勢を正した。星羽は佐原さんが相手をしてくださっている。


「体調はいいと医官から聞いたよ。自分でもそう思えるかな」

「はい。定期検診でもここ数年ずっと一般的な数値です」

「それはよかった。それでね、次のステップをしてはどうかなという提案だ。今いる入間で低圧訓練を受けてみないかと思ってね」

「低圧訓練って、私が受けるんですか?」

「そうだよ。要撃管制の幹部として経験しておくべきだと思ってね。君はまだ二尉だ。佐官クラスにならねば自ら指揮は取れんよ。君が本当に空を護りたいのならば、ね」


 昔は要撃管制官も戦闘機の後部に乗って偵察した時代があったと聞く。今は殆どの要撃機が一人乗りのため、同乗するという事はなくなった。

 けれど特技を問わず低圧訓練を受けるものはいる。それに取材などでアナウンサーやカメラマンが戦闘機に乗るために、低圧訓練を受けたりもする。簡単に言えば正当な理由があれば誰でも受けられるし、健康な成人であれば大抵がクリアするものだった。


「私が、低圧訓練……」

「そんなに深刻に考えなくていい。別に戦闘機に乗れとかパイロットになれと言っているわけではない。何事も経験が大事なんだよ。君の命令で飛び立つ彼らがパイロット、どんな状況下で戦っているか。それを少しでも感じられれば。そう、思わないか」


 いつでも温和な表情でいるお義父さんが今はとても真剣で、私に向ける視線は部下に判断を迫る時と同じだった。

 この瞳を知っている。休職を決めたとき、手術をすると言ったとき、全て私に決断を委ねてくれたけれど決して間違った方向には行かせない。少しでも軌道を逸脱すればどんな手段を使ってでも引き戻す。これまで多くの過酷な試練を乗り越えてきた戦う男の眼だ。

 まだ、千斗星にはない本物を知っている眼。


「少しだけお時間をください」

「ああ大丈夫だ。でも、一人で決めるんだよ? これは君の中にある問題だ。パイロットには関係ない」

「はい」


 千斗星には相談すべき内容ではないと、言われた気がした。



 ◇



 一ヶ月後、私は防衛医科大学校で定期検診を受けた。手術をしてからずっと私を担当してくれた医官には感謝している。淡々と事実を述べられて落ち込んだ事もあったけれど、その的確な濁さない言葉のお陰で今の私があると思っている。


「今回の結果からも不安になるような数値は見られませんでした。薬もここ三年変えていませんね。大変良い結果といえます」

「ありがとうございます」

「さて、その低圧訓練のことですが」

「はい」


 この、一拍おかれて話されるのには毎回ドキドキする。医官はなんと言うのだろうか。


「構いませんよ」

「はい⁉︎」

「その低圧訓練をして、戦闘機に乗るのも問題ありません。ただ、5G以上の重力加速は感心しませんが」

「わ、私は、パイロットではないので実務で乗ることはありませんから」

「そうですか。であれば全く問題ありません。今のあなたの体は正常です」

「ありがとうございます!」


 医官の正常ですの言葉に涙が出そうになった。ここまで来るのに随分と遠回りをしてきたけれど、ようやく胸を張って健康ですと言える。

 今まで自分にはできない事があると、どこかで後ろめたい気持ちを持ったまま後輩たちに指示を出してきた。それももう思わなくていい。これでやっと、一人前の要撃管制官になれるかもしれない。

 お義父さんはこの事を言っていたのかもしれない。上司や後輩たちと、堂々と胸を張って空を護るために尽くせると。


「低圧訓練、受けます!」

「はいどうぞ」


 相変わらず医官の淡々とした返事には笑ってしまった。私は頭を下げて診察室を出た。


 会計までの間に、私ははやる気持ちを抑えながらスマホをタップした。


「天衣です。お義父さん、私、低圧訓練を受けてみます」

『うん。いいと思うよ』


 いつもの優しい言葉でそう返してくれた。千斗星にはいつ言おうか、今度はそんな悩みが湧き上がった。取りあえずは隊長に訓練の申し込みをお願いしよう。きっと反対はしないはず。


(隊長は私に大きな借りがあるんだし)



 それから僅か半月後、私はドキドキしながら低圧訓練の日を迎えた。これのために体調管理にはいつも以上に気を使った。私はモスグリーンのフライトスーツを着て、耐Gスーツを装着した。

 今になってパイロットになる! と周囲を騒がせていた頃の記憶が蘇る。あの日の私は今の自分を見てなんて言うだろうか。

 

 入念な講義のあとに実訓練に入った。陸海空問わずパイロットの卵たちはここで訓練を行う。低圧訓練装置を備える基地は4箇所あるけれど、ここ入間基地が一番大きく、一度に14人が受けることができ、さまざまな設定が自動制御で行えるそうだ。

 私たちは低酸素の中での計算問題や射出訓練ベイルアウトなど、戦闘機パイロットが行う一通りのことを体験させてもらった。

 途中、耳抜きが上手くできなくて意識が遠のきそうにもなった。まさかこんなに過酷で苦しいとは想像していなかった。低酸素の状態では考えることができないし、酸素が戻ってきても上手く吸うこともできない。当然、回復にも時間がかかった。私が気絶してなるものかと耐えようとしたら、教官から我慢は絶対にしてはならないと言われた。

 この訓練に痩せ我慢は禁物なのだ。

 コックピットの中は何が起こるか分からない。そんな中でもパイロットは冷静に判断し処置を行わなければならない。自分が出す侵犯処置を彼らはこんな息もできぬほどの空間で行っている。私は鬼のような命令を彼らに下していたのだ。


「このあと24時間は激しい運動は控えてくださいね。お疲れ様でした」


 結果、私は戦闘機への搭乗を許可すると合格証明をいただいた。


「許可が、下りた……。私、乗れるんだ。戦闘機に、乗れるんだ」


 私は誰にどの様にこの事を伝えたらいいのか分からず、しばらく証書を穴が開くほど見つめていた。

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