第58話 未来を繋ぐ青
定期的に訪れる病院は、もうすっかり慣れた。最近では自分のコンディションから、血液検査の数値を予測できるまでになってしまった。今回は少し数値が低いかもしれない。
体調は非常に良いのだけれど、月経がひと月とんでしまったし立ち眩みが少し増えた。
管制の仕事に慣れてきたのと引き換えに、少し疲れが溜まってきたのかもしれない。
「沖田さん。体調はいかがですか」
男性医官は検査結果のデータを見て、私の方に体を向けた。この医官のポーカーフェイスは破れない。結果がどうであれ、表情を崩すことはない。
「悪くは、ないと思います。ただ、立ち眩みがあるので疲労が溜まってきたのかなと」
「なるほど。そうですね、以前より数値が下がっていますからね。うーん、どうしようかな。薬は僕も変えたくないんですよ。今のは副作用もないようだしね」
「はい」
いつになく医官は考え込む。とても珍しい事だった。それがほんの少し私の不安を煽る。
「あの……私、なにかマズいのですか?」
「いえ、その。私だけでは判断できない事になっているのではと、思いまして」
「はぁ……」
毎回、血液検査と尿検査も行っている。この後、婦人科も受診する。婦人科では将来の妊娠を見据えて、ホルモンバランスと子宮も定期的に診てもらっていた。
「この後、婦人科でしたよね?」
「はい」
「その結果次第で考えましょう」
「は、はい」
私は医官の言いたい事を理解できないまま、診察室を出た。
(どうしよう。お薬が今より強くなったら……やだなぁ)
「沖田天衣さん、処置室にお入り下さい」
「はい」
慣れたとはいえ、婦人科はやはり緊張する。これがあるから千斗星の付き添いを頑なに拒んでいる。体重測定、血圧測定、尿検査、それに内診があるから。
幸い、女性医官なので耐えられている感じだ。
「ふぅ……」
知られないよう、息を吐いてリラックスを試みる。ほんの少し我慢すれば終わる。時間を要しない診察ではある。
「はい。では隣の診察室へ移動して下さい」
看護官もいつも通り淡々としているし、きっと今回も問題はないはず。そう言い聞かせて診察室に入った。
「沖田さん」
「はい」
「七週ですね」
「……えっと?」
女性医官が私の顔を見て「妊娠七週目に入った頃だと思います」とハッキリとした声で言った。
全く予想していない言葉に頭が反応しない。私は頭の中でもう一度その言葉を反復させて、やっと理解させる。
「私、妊娠しているんですか?」
「ええ。喜んでもいいかしら」
「喜ぶ……あっ、赤ちゃん⁉︎」
私は思わず自分の腹に手をやった。なんの変化も見られない、いつも通りの私のお腹なのに。
「おめでとうございますって、言っていいのよね?」
「はい! 嬉しいです」
そう私が言うと、医官はにこりと優しく笑ってく」た。
「あなたの場合、色々と覚悟をしないといけないかもしれません。一緒に頑張りましょう」
「いろいろと。はいっ。よろしくお願いします」
病院からの帰り道はいつもと違って、世界が輝いて見えた。私のお腹には千斗星との大切な大切な命が宿っている。嬉しいけれど、怖いという気持ちが隣り合わせだ。
『できるだけ食事から鉄分をとって、服用中の薬は軽いものに変えましょう。葉酸は今からでも遅くありません。サプリメントを出しましょう。それから……』
出産時、万が一に備えて輸血ができるようにしましょうと言われた。普通分娩を望むのか、帝王切開で産むのかは私の選択に任せると医師は言う。どちらにしても、出血は避けられない。それよりも、私自身が耐えられるかが心配なのだとも言われた。
『まだ、初期の初期です。これから急激に体調の変化が起きます。ご主人とよく話されて、二週間後にもう一度来てください』
二週間後は千斗星が帰ってくる。そのとき私は、説明しきれるだろうか。訓練期間中は心配をかけたくないから絶対に言えない。
ご主人とよく話されて、と言う言葉に何が隠されているのかは分かる。
でも、私にその選択はない。
(あなたの事、絶対に守ってみせるから)
◆
―― 北西太平洋沖。
「発射!」
シュッ………ドドドドドーッ
『着弾、命中!』
俺は初めてFー2戦闘機から対艦ミサイル発射した。日本ではシミュレーションでしか体験した事がない。二発搭載し、指揮官の命令で一発を発射。
驚くほど機体が軽くなる。指一本で小さな島は簡単に吹き飛んでしまう程の破壊力だ。F-2は海上自衛隊とも連携して戦う戦闘機だ。外国の艦船に対し上空から攻撃ができる。
対してF-15は対空であるため、その手のミサイルは搭載できない。
(F-2は対空、対艦どっちもイケる優秀なやつだな)
『Japan VIPPER Zero One,back to the base』
「Roger」
当然ながら指示は英語だ。
(天衣の心臓を脅かした
「沖田! 行くぞっ」
「ラジャー」
八神さんと二機編隊で同時に離陸。機首をほぼ90度に上げ上昇した。先に離陸したフランカーと同じ高度まで上がる。
そして、俺たちは無線からドッグファイト開始の合図を待った。
『Ready……Go!』
「よし沖田! いいか二機とも落すぞ。相手は多分こっちのケツひとつしか狙ってこない」
「了解。どっちが先にアイツらをロックオンするか」
「ははっ、なに言っている。俺に決まっているだろ」
「鬼のアグレッサー部隊にだって、負けませんよ」
「言ってくれるよ。行くぞっ!」
管制からの合図で高度18000メートルでのドッグファイトが始まった。敵機の一方をロックオンしたら終了だ。攻防戦になると仲間を逃がすために、どうしても片方がウイングマンの役割となってしまう。
俺と八神さんはそれを許すまいと、それぞれ一機づつ追いかける事にした。
(フランカーに空自のイーグルが負けるはずない!俺達の腕は世界一だ。たとえ戦争を経験していなくても、実弾を撃ったことがなくても!)
―― ゴゴゴゴゴー
気流が乱れ、操縦桿を握る手が揺れた。
持っていかなれないように両手で握った。前を行くフランカーが、あの時のアイツなのかは分らない。相手はロックされまいと激しく上下に揺さぶりをかけてきた。
「沖田! あんまり近いと、オーバーシュートかけられるぞ」
「分かっています。八神さんこそケツ獲られないでくださいよ!」
確かにこのまま近距離をキープしていると、相手が急減速かければ必然と追い越しせざる得ない。でも、その前にロックオンすればいいんだ!
(くっそ、手強いな……)
相手は躊躇うことなく雲の中にも突っ込んで行く。搭載しているレーダーはそうとう優秀だと聞いた事がある。それでも!
―― ピーピーピーピー
(なにっ! くそ、ヤられたか)
フランカーの尾翼が至近距離まで近づいた。衝突を警告するアラームが鳴り響いた。相手の機体が急激に速度を落としたのだ。このまま追い越しすれば間違いなくケツを獲られ、逆にロックオンされる。
(追い越し以外に、手はないのか! 負けたくない!)
―― ねえ、スプリットSってどんな技?
(天衣っ?)
天衣の声が聞こえた気がした。スプリットS、水平から背面飛行になり、下向きに
(その後、再びケツを取り直せば! よし、それしかない!)
「沖田!」
「オーバーシュートして来ます!」
「ああっ⁉︎」
―― シューッン
白の機体の上を追い越す瞬間、機体を180度回転し、ヤツと背中合わせになった。ヤツは天蓋を見上げている。俺は逆さのままヤツに顔に向けてわざと歯を見せてやった。
表情は見えないが、一瞬ヤツが固まったように思えた。
追い越しが終わり下方向にループ。空の青と海の青が天蓋いっぱいに広がる。この微妙に変化するさまが俺はたまらなく好きだ。
この青を天衣にも見せてやりたかった。
すると、天衣の笑う顔がシールドに浮かんだ。
機体は水平に戻った。減速したアイツが加速する前にもう一度ケツを突きにいく。
(アフターバーナー全開っ!)
―― ピーピーピーピピピピピッ……カチッ。ピーンッ!
「ロックオン!!」
「ロックオン!!」
俺と八神さんの声が重なった。
◇◇◇
ドアを開けると、夜間勤務が明けたばかりの天衣が笑顔で迎えてくれた。「おかえり」の言葉が胸にしみていく。ああ、俺は帰ってきたんだと、当たり前のことを脳で呟く。
「ただいま」
「千斗星、どうだった?」
天衣は少し不安げに俺の顔を見上げて、訓練の事を聞いてきた。ずっと俺の事を考えていたのか? 心配してくれていたのか?
「アイツらさ、やっぱり強いよ」
「うん」
「実際、中東に出撃した事があるんだってさ」
「そっか。彼らは軍隊、だもんね」
天衣の表情が一瞬昏くなる。でも、次の瞬間には瞳の奥がキラキラと光りだす。
「でも、勝ったんだよね!」
本当に、敵わないよ。
俺は天衣の腰を引き寄せて、すかさず首元に顔を埋めた。スンと息を吸えば、天衣の匂いがする。
朝、シャワーを浴びたんだろう。我が家の、俺達の匂いがした。
「ちょっと、擽ったいよ」
「んー。天衣の匂い落ち着く」
「なによっ。変態!」
「うるせぇ」
首筋に唇を押し当てると天衣は肩を揺らし、ひゅっと息を吸った。もう何年も経ったんだぞ。相変わらず慣れないんだな。
「千斗星ってば! 答え合わせして」
「しかたないな。その通りだ、ご名答。ロックオン、してやった」
「本当に? 良かった! 良かったぁー」
天衣は興奮して俺の首に腕を絡めて抱きついた。それが嬉しくて可愛くて、直ぐにその唇を奪ってやった。天衣はいつだって俺の味方でいてくれる。どんな時もじっと我慢して待っていてくれる。
「千斗星っ、あのね」
「なに?」
「話があるの」
「え、話?」
ソファーに座ると、あらたまった天衣がゆっくりと言葉を発した。
俺は耳を疑った。
でも、天衣の目を見れば分かる。嘘なんかじゃない、事実だよと。
最初は歓びが溢れてきたのに、話を聞き進めると直ぐにそれは掻き消された。
「そんなリスクを天衣には負わせられない! 俺は天衣さえいればいいんだ。ずっと、二人きりで、いいんだよ」
二度と愛するものを失いたくないんだ。頼むから分かってくれ。万が一、天衣に何かあったら俺はっ……!
「守りたいの。千斗星がくれた大切な命を……守りたい」
「天衣っ」
天衣は俺の手を、まだ膨らみのないお腹にそっと持って行った。
「空と貴方と、この子を諦めない。千斗星は空と私とこの子を守ってくれるでしょう?」
天衣の決心は天地が覆っても変わらない。それは俺が一番よく知っている。
俺はただ、黙って天衣の体を抱きしめる事しかできなかった。
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