第39話 あれもこれも諦めきれない!
医師から処方される薬は免疫抑制剤。
これがいったいどんなものなのか、説明を聞いただけでやっかいだと思ってしまった。でも今は、それを服用するしか方法がない。
医師が言うには適切な免疫状態を維持するため、体内での薬の量を一定にしておかなければならないとのこと。決められた時間に決められた量の薬を服用することで、一定の血中濃度を保つことができる。時間がずれたり飲み忘れたりすると、血中濃度が不安定になり定常状態を取り戻すのに時間がかかる。それに、薬の効果を得ることができなくなるそうだ。
私はそれを聞いてとても不安になった。
シフト制の勤務でそれが可能なのだろうかと。また、最も不安を煽ったのは副作用の事だった。
「副作用が出ない人は珍しいくらいで、必ずなにかしらの症状が現れます。血圧異常や血糖値異常、胃腸の機能が弱ったり、吐き気を感じたりが主な症状です。あとは気力の減退。もちろん人によって違いますし、軽くすむ場合もあります」
「そんな状態では通常勤務は難しいと思うのですが......」
「最低慣れるまで一年は様子を見た方がいいでしょう。できるならば、休職をおすすめします」
想像以上に大変な治療だった。
仕事から離れるなんてあり得ないよ。やっと合格したのに。それに現場から離れたら、戻れなくなりそうで怖い。
「治るんですか? その薬をのんだら」
「治すというよりは、症状を抑えるといった感じです」
「他に方法はないんですよね」
「そうですね。あとは脾臓の摘出くらいでしょうか」
「脾臓の摘出ですか?」
「摘出してみなければわかりませんが、症状が軽くなる可能性があります。香川さんの症状ですと、もう鉄剤だけではどうにもなりません。どちらの方法をとっても、完治する保証はないのです」
免疫抑制剤を服用するか、脾臓を摘出するか。私にとって究極の選択だった。どちらにしても、すぐの職場復帰は無理という事は理解した。
「じっくり考えてください。将来、結婚して妊娠を望むのであれば、服用に関しても慎重にならなければなりませんし」
「えっ!」
医師の言葉は今の私にはとても痛かった。まさに結婚を前提に動いているところだったから。
(千斗星との赤ちゃん)
また、出口の見えないトンネルに迷い込んでしまった。
どうしたらいいのだろう。千斗星に何と言えばいいのかな。いきなり「赤ちゃん欲しい?」なんて聞けないよ。
何かを得るためには、何かを捨てなければならないという事なのかな。
全部、諦めたくないのに……。
◇
その日の夕方、私服姿の暁さんと副官の佐原さんが病院に現れた。退院の手続きとその後の身の置き方を相談するためだ。
あれから千斗星とは病気のことで会話をしていない。彼は私を元気づけようと、基地の話や訓練内容を面白おかしく語ってくれる。だから余計に、このことを言えなかった。
「治療方法は決まったかな?」
「それが」
「空幕長、私は医務室へ行ってきますので」
「ああ、頼む」
空気を察した佐原さんは病室を出て行った。
デキる副官さんだなと思った。
暁さんは私に視線を合わせるようにベッド脇の椅子に座った。
「実は、まだ治療法で悩んでいます。免疫抑制剤を服用するか、手術するか。どちらも病気を治すものではありませんが、症状は抑えられるのではないかと言われました」
「では。どんなふうに迷っているのか、教えて貰えるかな」
「はい。どちらを選んでも最低一年の休職をした方がよいという事。免疫抑制剤は服用時間が厳しいのと副作用があります。それから、手術は体にメスを入れなければならないという事です」
「なるほど。先ず治療は必須なわけだから、休職はした方がいいだろう。それから治療法だけど、できるだけ天衣さんの負担にならない方がいいな。女性だから体は傷つけない方が賢明じゃないか。服用で様子を見てはどうだろう」
暁さんは、冷静に意見を下さった。服用で様子を見て駄目ならその時考える。私は自分が我慢すればいいのなら頑張れる。でも、服用で将来の妊娠に影響が出たらと思うと怖い。
「過酷な任務を強いられる千斗星さんを、支えるどころか足手まといに……なりっ、ました」
「天衣さん」
泣いたってどうにもならない。なのに涙は全然止まってくれなかった。自分の体のことを簡単に考えていた。ちょっと調子が良いからって、我がまま言って小牧に異動させてもらった。試験に合格して、私は千斗星と日本の空を護るんだって、浮かれていた。
「男はね、好きな女のためなら何だってできるんだよ。彼女のためにって、思えば思うほど力が湧いてくるものだ。女だってそうだろう? 好きな男のためなら火の中だって飛び込んでいくよね」
「……」
「千斗星は君が傍にいてくれるだけで、幸せだと言うはずだ。もし天衣さんが千斗星の立場だったらどうだ。ある日、コックピットに座れなくなったあの子を見て、君は情けないやつと思うのかな」
「思いませんっ。千斗星がどんな姿になっても、私の気持ちは変わりません!」
私がそう言うと、暁さんは微笑んだ。
「そういう事だよ」と優しく言ってくれた。その言葉で、すっと胸の仕えが下りた気がした。
私が全てを失っても、千斗星は変わらず私を愛してくれる。
とてもシンプルな答えだった。
「なんとなく答えが出せそうです。ありがとうございます」
「それなら良かった。まあ、どちらにしてもアレだな。早く籍だけでも入れたほうがいい。その方がお互い安心するだろう。治療も何なら私の自宅から通えばいい」
「自宅からっ……ええっ!」
「あ、いやっ。家政婦を住込み契約に変えればいい。それなら問題ないだろう。あー、いや、天衣さんが嫌ならこの話は」
「ふふっ……」
もちろん下心が有るなんて思ってはいない。だけど、そう思われたのではと焦って取り繕うとする暁さんが可愛く思えてしまった。
だって、千斗星にはない部分だから。
「両親と千斗星さんと話してから決めますね。ありがとうございます」
「そ、そうだな。すまなかった」
暁さんはもう一度、父親をしたいのかもしれない。大事な時期をすれ違いで過ごしてしまった。だから、今度は過ちを犯したくないと思っているのかもしれない。
千斗星と私のために。
その晩、私は一つの決断をした。
それを千斗星はなんと言うか分からない。でも、あらゆる可能性にかけたかったし、やっぱり諦められなかったから。
「千斗星? 私ね……」
「はっ⁉︎ 天衣、おまえ何言って!」
「もう一回、我がままを通します。ごめんなさい」
「なんだよっ。なんだってよりによって、くそっ!」
「ごめんね」
千斗星はものすごく不機嫌になったけれど、最後は「天衣のためになるなら、我慢する」と嫌々ながら受け入れてくれた。
私は千斗星のお嫁さんになりたいの。
――
そして時は。流れた.....☆.。.:*・°☆.。
――
「天衣」
「千斗星おかっ……」
千斗星は部屋に入った瞬間、後ろ手でドアに鍵をかけ私を壁に押し付けた。勤務から戻ってすぐの千斗星はモスグリーンのパイロットスーツのままだ。
おかえりも言う暇もなく、千斗星からキスをされた。
(着替えもせずに基地を出るなんてっ。私は逃げたりしないよ)
「まって。ねぇ、ちとせっ」
「待てるかよ。今日までどんだけ待ったと思ってるんだよ。せっかく嫁さん貰ったのに、ずっと独りだったんだからさ。これくらい許されるだろ?」
「ズルイ。それ言われたら、なにも言い返せない」
「怒らないでくれよ。やっと近くになったんだぞ? 本当に嬉しいんだ」
「うん……いっぱい待たせて、ごめんね」
私が謝ると、千斗星は私のお腹に手を当てた。
「痛みは?」
「へいき。もうぜんぜん痛くないよ」
「天衣。俺のところに戻って来てくれて、ありがとう」
千斗星の長い指が、私の頬をそっと撫でる。
「うん、よった。よかったよぅ……」
それ以上は言えなかった。
千斗星のありがとうで涙腺が崩壊したから。
あの日、決断してから二年という月日を要してしまった。私は脾臓を摘出する方法を選んだのだ。
千斗星のお嫁さんになること、いつか会えるかもしれない赤ちゃん。そして要撃管制の仕事も、全部諦めたくなかったから。
二年間、義父である暁航空幕僚長のもとでお世話になり、体調の良い時は佐原さんに着いて副官の仕事を手伝わせてもらった。
最後の半年は再び小牧に戻り、管制塔で研修を重ねた。
「やっぱり、沖縄って遠いね」
「よりによって一番忙しい所にやられるとはな」
「でも、千斗星と一緒なら私はどこでもよかった」
「ああ、俺も」
レーザーサイトのある基地と千斗星のアラート待機場は離れている。休みもなかなか合わないし、週末婚のような生活になってしまう。
けれど、それでも充分。
それぞれに経験を積み成長を遂げた私たちは、ここ沖縄で日本の領土を護る戦いに挑むのだ。
沖田千斗星一等空尉 沖縄県那覇基地 配属。
沖田天衣三等空尉 沖縄県与座岳 第五十六警戒群配属。
これからが私たちにとって、本当の戦いが始まるのだ。
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