第42話 命の音

 蓮さんはまた私の向かいに席を移してお代わりのお茶とお茶請けをご馳走してくれた。

「そう言えば里奈さん、佳歩さんから聞いたんですが、里奈さんも職業柄ピアノをお弾きになることがあるそうですね」

 急にそう訊ねられて、私は飲んでいたお茶を喉骨に引っ掛けるほど狼狽した。

「えっと……弾くには弾くんですけど、子供たちのちょっとした入場行進とか歌の伴奏をするだけですよ。難しいのは全然弾けないんです」

 蓮さんは構わず微笑んで、

「よかったら連弾しませんか?」

 と言った。

「でも私、連弾なんて……」

「きらきらぼしなんてどうですか? メロディだけでいいですから」

「それくらいなら……大丈夫かな……。でも、緊張します」

「遊びでやるだけですから、どうか気を楽に」

 蓮さんはそう言うとピアノのある部屋まで案内してくれた。私が立ち入ったことのない西棟の二階の部屋だった。広くがらんとした部屋の中、突き上げ棒で屋根を開いた黒いグランドピアノが、片翼を広げる彫像のように厳めしく窓辺に佇んでいた。蓮さんは慣れた足取りでピアノに歩み寄り、そっと椅子を引いた。

「里奈さん、どうぞ座ってください」

 私は神聖な場所にでも行くように、足音を立てずにピアノに近付いた。年季の入ったもののようだけれど、艶々して傷一つなかった。私は蓮さんに促されるまま椅子に座り、鍵盤を見下ろした。確かに私も小さいころピアノを習っていて今でも仕事で弾くことはあるけれど、こんなに立派なピアノの前に座ることは滅多になかった。

「どうぞ、弾いてみてください」

 蓮さんそう言われ、恐る恐る鍵盤を押す。重い手応えの後に、ぴん、と、跳ねるような一音が響いた。ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。そこまで弾いて、私は頷いた。

「どうにかいけそうです」

「では、やりましょう。ゆっくりでいいですから」

 蓮さんは私のすぐ横に立って、鍵盤に指を添えた。体中が鉛になってしまったような極度の緊張で、私は指以外の部分が何も動かなかった。もどかしくゆっくりと、ド、ドと弾き始めると、蓮さんは私の緊張に寄り添いながら、私の弾いた音を真綿で包むように、柔らかな、母性と言うのが正しいのかどうかは分からないけれど、そんな、優しく見守るような音を紡いでくれた。ソ、ソ、ファ、ファ、ミ、ミ、レ。何の個性もない叩くような乱暴な音が、蓮さんの両手から生まれる音に翼をもらって、拙くも、どうにかこうにか昇華していく。ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド。最後まで弾き終わると、私はもう生きた心地がしなかった。

「蓮さん、凄い……。上手ですね。私、緊張しっぱなしで、自分が何を弾いたのかも分からないくらいです」

 蓮さんは私の傍らに立ってにっこりと笑っている。

「お付き合いいただいてありがとうございます。この連弾は子供のころ大好きだったもので、体に染み込むほど弾き倒しました。子供向けの童謡ではあるんですが、忘れがたい一曲です」

 私は失った感覚を取り戻すように懸命に手を揉んだ。

「手が石になっちゃったみたい。全然上手に動かないや」

 私が笑うと、蓮さんも笑った。

「この連弾なら拓真君やアリスちゃんにもできそうですね」

「そうですね。二人が喜んでくれるならやりたいですね」

「何て言ったらいいのか分からないけれど……このピアノからは命の音がします。蓮さんの命の音が」

「私の命の音、ですか……」

 蓮さんはレンズの奥で寂しげな瞳を光らせた。

「そんな風に言われたのは初めてです。命の音、ですか……」

 蓮さんはしばらく鍵盤を見下ろすと、いつも通り人懐こく笑って、

「ありがとう、里奈さん。何だか私も孤独が癒えていきました」

 そう言いながら、輝く鍵盤に蓋をした。

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