第33話 香り

 私の家から裕次郎の家までは歩いて三分も掛からない。近い距離にありながら、私たちの家はどちらも普段使わない通りの奥にあるので、母同士は仲が良くてお裾分けもし合うほどだけれど、私は滅多に裕次郎の家には行かなかったし、中にまでお邪魔するのは今日が初めてだった。

 ほとんど黒に近いダークグレーのロングワンピースを着て、慣れないストッキングを履き、中途半端な長さの髪はどう頑張っても綺麗に結えなかったのでヘアクリームをほんの少し塗り付けてほつれのないように念入りにとかし、足にはローヒールの黒いパンプス。そんな出で立ちで、私は裕次郎の家を見上げた。

 薄ピンクの煉瓦調の塀の中に、やはり煉瓦調のセピア色の家と、向かって左側には芝生の前庭があって、片隅には赤い薔薇の花が、色水を垂らしたように鮮やかに咲いている。向かって右側には、車が三台ほど停められそうな広々としたガレージがあった。裕次郎の家の外装を見ることすら久し振りなのだけれど、いつ見てもミニチュアの世界から飛び出してきたようなお洒落な家だった。

 私は息を呑んで灰色のアプローチを進み、一段高くなっているポーチに上がって、扉の左側で厳めしく黒光りしているインターホンをぐっと押した。

 名付けがたい妙な静寂が狭い玄関ポーチに溢れていき、思わず手土産のお菓子が入った紙袋の紐をぎゅっと握る。やがて中から人の足音がして、「はぁい。少々お待ちくださいね」と、裕次郎のお母さんの声が聞こえた。この柔らかい声を聞くものずいぶん久し振りだ。昔の記憶とちっとも変わらない。がちゃりと鍵が開き、扉がゆっくりと開き、「いらっしゃい、里奈ちゃん」と、笑顔を湛えた裕次郎のお母さんが出迎えてくれた。

 その瞬間、家の中の空気がふっと鼻腔をくすぐり、私は無意識のうちに熱い懐かしさに捕らわれ、挨拶をするのも忘れて呆然と立ち尽くした。すぐにはっとして、「お久しぶりです。今日はありがとうございます」と、咄嗟に頭を下げて挨拶をする。

 裕次郎のお母さんは何も気にせず、

「里奈ちゃんったら、本当に大人っぽくなって。素敵なお嬢さんになったわね。さぁ、上がってちょうだい」

 と言って、私を招いてくれた。

「お邪魔します」

 私は緊張しながら靴を脱いで廊下に上がった。

 これは――この家の香りは、中学時代毎日のように接した少年時代の裕次郎の香りだった。裕次郎の家なのだから裕次郎の匂いがするのは当たり前なのだけれど、ここ最近実家とは距離を置いていたようで、再会後の裕次郎からこの香りを感じることはなかった。あくまで中学生だったころ、この家に住んでいたときの香りだ。いなくなってしまったはずの裕次郎が目に見えない粒子になって、そこかしこに漂っているように思えた。

 スリッパを借り、裕次郎のお母さんの後に付いて廊下を歩く間、私はここがどこなのか分からなくなるくらい頭がぼんやりして上の空だった。肩にも頬にも裕次郎を感じるようで切なかった。

 広いリビングに通してもらうと、日差しの差す大きな窓から、薔薇の咲く芝生の庭がレースカーテン越しに見えた。

「里奈ちゃん、こっちにどうぞ」

 リビングの奥に六畳の和室があり、招かれるままそっと覗いてみると、部屋の片隅に、写真や花、お菓子や遺品で埋め尽くされた小さな仏壇があった。

 裕次郎のお母さんに続いて、私もスリッパを脱ぎ、和室に入る。

「どうぞ、手を合わせてあげてね」

 そう言われ、私は仏壇の前に置かれた緋色の仏前座布団に正座をし、目を閉じて両手を合わせた。

 こうして改めて裕次郎がいなくなった事実に向き合うと、どうしこんなことになったのか、別の道はなかったのか、どうしてもこの人を救うことはできなかったのか、色々な後悔がよぎっていった。

 裕次郎のお母さんは、長すぎる私の合掌に、いつまでも付き合ってくれた。

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