第9章 弔い

第32話 母

 毎日のようにアーバンブラウンのラパンで妃本立ひもとたちに通っていながら、私は実家には帰らなかった。妃本立には同級生も知り合いもたくさんいるけれど、ほとんど車での移動だから誰にも会わないし、家族にも気付かれていないようなので、わざわざ『妃本立に帰るからね』なんて連絡をしたこともない。裕次郎が生きていたころは月に二、三度しか通わなかったからそれでよかったけれど、さすがに今のように毎日通い続けていたら、いつか誰かに気付かれて、家族にもいらぬ心配を掛けてしまうかもしれない。母にくらいは事情を話しておこうと、実家に向かった。

 今回は裕次郎のお母さんに挨拶に行く用事もある。母経由で連絡を取ってもらって、明日、挨拶に行けることになった。裕次郎の葬儀は家族葬で行われ、弔問も香典も一切受け付けていなかった。葬儀後、我が家からは母が代表して挨拶に行ってくれたのだけれど、母によると、学生時代の同級生も何人か挨拶に行ったらしかった。

 久し振りに実家に帰ると二つ下の妹が廊下にいて、「あっ、お姉ちゃんお帰り」とスマホを触りながら私を出迎えた。専門学校生になってすっかり垢抜け、付け睫やメイクで瞳を大きく見せ、耳の下から胸の辺りまで金髪を緩く巻いている。

「ただいま。それ、私のパーカーじゃない?」

 妹が着ている草色のパーカーを指差すと、「うん、借りてるよ」と妹は軽く言った。「何ならあげるよ」と言うと、「ありがと。使わせてもらう」と、いつも通り気安い返事が返ってくる。

「お帰りなさい、里奈」

 料理でもしてたのか、手を拭きながら母も出てきた。

「今日は泊まっていくの?」

 そう訊かれたので私は頷いて、

「一晩お世話になります」

 と、おどけて仰々しく頭を下げた。母は笑った。

 妹はスマホを弄りながら二階の自室へ上がっていき、私は母と一緒に居間に入った。父は仕事でいない。

 私は食器棚からグラスを出して、冷蔵庫に入っていた麦茶を飲んだ。母は昼食の準備中だったようで、いなりあげに酢飯を詰めている。

 妃本立の子供の間では――少なくとも私の同級生の間では、朝永屋敷は幽霊屋敷として恐れられていたけれど、母のように地域の中で子育てをしてきた大人たちにとって、あの屋敷はどのように見えていたのだろう。佳歩さんは蓮さんの学校行事に参加していたというし、私より四つ歳上の柊吾さんは幽霊屋敷の噂すら知らなかった。私が思っていた以上に朝永屋敷は地域に溶け込んでいて、周囲の大人たちは案外何も思っていないのではないか、そんな気もしてきた。

「私ね、最近朝永さんのお屋敷によく行くんだ」

 正直にそう打ち明けると、母は気の抜けるような柔らかい声で「あら、そうなの?」と笑った。

「朝永のお屋敷って、中学校の近くにある、あの大きなお屋敷よね」

「そうよ。お屋敷の人とちょっと仲良くなって、それで、よく行くようになったの」

「まぁ、そうなの? あんな大きなお屋敷の方と仲良くなるなんて、里奈ったら凄いわねぇ」

 母はどこかの貴婦人のように上品に笑った。

「私の車、この辺でちょくちょく見掛けるかもしれないけど、あんまり驚かないでね」

「はいはい、驚いたりなんかしないわよ。でも、たまには家にも帰っていらっしゃいね」

 母は周りの人をみんな肯定して穏やかに見守る人だけれど、こんなに邪心なく微笑まれると、些細な嘘や誤魔化しにも深い罪悪感が生まれる。もっと早く話しておけばよかったかな、と思いながら私は「はい」と返事をした。

 「そう言えば」と、母は話を変えた。

「裕次郎君のお母さん、明日楽しみにしてるって言ってたわよ。きちんと手を合わせていらっしゃいね」

「うん。色々と手伝ってくれてありがとう、お母さん」

 母はいなりを握りながらにっこりと笑った。

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