第17話 「初陣」(2)

 今はキアという名を使っている異国イオの王子ハデスは、母国から何か月もかけねば至らないこのタラの地で、傭兵団に交じって戦陣にあった。

 まるで、大地が震動しているかのようでうであった。

 おそらく、双方合わせて五百人もいないであろう戦場である。しかしそれらが、互いに敵意とおそろしく暴力的な衝動を内包してにらみ合い対峙した時、大地はまるで彼らの鼓動に共鳴したかのように、激しく震えた。

 大地だけではない、空気はひりつき、金気くさいように感じる。

 たった五百人程度のいくさでこれだ。英雄譚で語られるような、十万規模の騎士兵士の真正面からの大いくさなど、一体どれほどの迫力なのであろうかと、ハデスは怖気をふるった。

 傍らにはネロスがいる――いや、ネロスの傍らにハデスが従っていると云う方が正しい。立場上、今のハデスはネロスの従者である。

 ハデスはその屈強な身体に簡素な軽甲冑をまとい、戦棍を手にしている。一方のハデスは、ネロスがどこかで調達してきた中古の甲冑を、とりあえず一式身につけ、ひとまわり小ぶりな戦棍を持っている。あんたに刃のついた得物持たせたら、危なくて仕方ないな……とぶつぶつ云って、慣れるまでとりあえずこれでも持っておけと、渡されたものである。

 数日前ネロスが読んだとおり、その日両者申し合わせたように、戦陣の展開をはじめた。

 周りは思い思いの甲冑と武器で身を固めた傭兵たちが、息を潜めて待機している。連中は経験豊富である。多くの者は、戦闘前にいらぬ昂ぶりは見てとれないが、おそらく経験が少ない者だろう、幾人かは青い顔をして縮こまっている。それでもおそらく、この中で自分が一番怯えているだろうと、ハデスは思った。震えながらきょろきょろと見渡すと、向こうの方に初日にからんできたシートンが、頭半分抜き出ているのが眼に入った。ネロス同様。落ち着きはらった様子だ。

 そのとき、静かな緊張感を切り裂くように大気が震えた。攻めの合図だ。つづいて角笛が兵士を鼓舞するように、高らかに鳴り響く。

 誰かが喚いたわけではない、しかしハデスには兵士たちの昂揚が、耳に痛いほど響き渡ったように感じた。

 思わず、戦棍を取り落とした。拾おうとした指が震え、また取り落とす。恐怖で歯の根が合わなかった。口の中が乾きあがっていた。

 ぐい――と陣そのものがまるでひとつの生き物のようにうねって、前進を開始した。

 心の準備ができていないうちに、はじまってしまった。いや、ずっと前から覚悟してきたはずなのに、そんなもの、実際動き出してしまえば、みじんものこらず砕け散っていた。

 胃の腑が口から吐き出てしまいそうな恐怖だった。信じがたいことだが、今から自分は、殺し合いをする、ひとりの兵士として。

 信じられない。

 この五百人にもおよぶ兵士、傭兵たちが気が狂ったかのように殺し合いをする、死ぬかもしれないのだ!

 逃げだしたい!

 今のハデスの心を占めているのは、その一事のみだった。奴隷の身分でもいい、イオにもどれなくてもいい、この何百人もの殺し合いの渦の中から、今はひたすら逃げだしたかった。

 陣全体がうねりはじめたのに、ハデスの脚は凍りついたように動かなかった。そんなハデスを、後方の傭兵たちは相手にもせず追いぬいていく。

 どんと、背中を強く叩かれた。かたわらのネロスだった。

「さぁ、稼ぎどきだぞ」

 そう云ったネロスの眼が、鋭く値踏みをするように自分を見ているのを感じた。

 ハデスは我に返った。

 なぜ自分はここにいる?イオにもどるためであろう。そしてネロスは自分を送り届けるため、いくさ働きをしようとしている。

 考えてみよ。

 ネロスは自分のために命をかけているのではないのか?

 見捨てても誰も文句を云うはずはない、それでもこの男は自分の傍らにいる。

 すべては、ハデスがイオへ帰還するためだ。自分のためであろう。

 その自分が、逃げだしたいなどと、よくそのようなことを云えたものだ――恥を知れ、ハデスよ。

 脚の震えが、小さくなった。

「……い、いくぞ……ネロス……」

 しぼり出した声はかすれ、歯が鳴る音といっしょになり、とうていネロスに届かなかったかもしれないが、たくましい傭兵は、わずかに口角を上げた。

「頼もしいじゃないか。大将首でも挙げて、特別に手当てにありつこうぜ。背中を任せたから、しっかりついてこいよ」


 両陣の兵士が加速した。

 双方合わせて五百人程度の規模である。ネロスに云わせれば、小競り合いだ――とのことだが、両軍が衝突した衝撃は、ハデスにはすさまじものに感じられた。

 どよめきと雄たけびが、耳を聾さんばかりに響く。傭兵たちが配置されている部隊の先陣では、すでに斬り合いがはじまっている。双方の軍が入り乱れ、たちまち線が面となっていく。

「来るぞ」

 ネロスが注意をうながす。それだけでネロスの心の臓は破裂しそうだった。

 斬り合いの面が、ふたりの直前まで迫った。眼前の男が、向こうの傭兵に斬り倒された。血しぶきががハデスの視界を朱に染めた。我知らず、ハデスは絶叫していた。

 その瞬間、敵方の傭兵が雷に打ち倒されたかのように崩れ落ちた。ネロスが手にしていた戦棍が、甲冑をまとった傭兵の肩を打ち据え、たったの一撃で昏倒させたのだ。

「五歩下がれ」

 ネロスの指示に、ハデスがよろめきながら後ずさる。棍を持つ手が震えているのが自覚できる。剣が突き入れられるのを棍でさばきながら、ネロスも数歩下がる。白刃の旋回――かわすと同時に、ネロスの棍が相手のすねを打ち払う。下がれと云った意味がわかった。さばくための、充分な間合いがほしかったのだ。

 いつの間にか、周辺が斬り合いの場になっていた。

 ハデスの眼の前に、ひとりの傭兵が片膝をついた。腹を深々と刺され、両手から得物は失われており、身体全体で息を荒くしていた。絶命寸前なのは、すぐにわかった。

 その傭兵と眼が合った。冑の下には、追いつめられた獣の眼があった。

 最後の力を振りしぼって、喚きながら殴りかかってきた。顔面に衝撃があり、鼻の奥が金気くさくなった。とても動けそうにない傭兵のなぐる力とは思えなかった。数歩たたらを踏む。鼻からどろりとしたものが流れ、殴られた場所が火をつけられたように熱くなった。その熱が、ハデスの意識を一瞬で真っ赤に塗りつぶした。腹の奥から抑えがたいものがあふれ出し、手にした棍を思いきり叩きつけた。かばおうとした左腕ごと、傭兵の身体が倒れ伏した。

 無防備になった傭兵を殴る。何度も何度も棍を叩きつけ、はっと手が止まった。傭兵はもう動いていない。

 絶命していた。

 伏したまま動かない傭兵の顔が、あらぬ方向を見上げていた。さっき合った獣じみた眼が、もはや光を失っていた。

 自分が殺した……その事実が、不意にハデスの脚下の地面をうねらせた。

 殺してしまった……

 トーブズ農園では、マートルが射殺されたところを眼前で見たし、奴隷仲間たちの屍にも遭遇した。しかしその何十倍もの規模の、圧倒されそうな殺気に満ちたこの場で、自分が生まれた初めて人に命を奪った事実は、まるで違う。

 突然、腹の中から異様なものがこみあげ、我慢することもできず、その場で嘔吐した。胃の腑がひきつる。膝を折り、激しくえづきながら、涙と鼻水も止まらなかった。腹の中から熱いものが流れ出ていく。力もいっしょに流れ出ていく。

 その頭上で、剣戟の金切り音がした。動かないハデスを狙った槍の一突きを、戦棍が撃ち払ったのだ。

 ハデスの腕が強くつかまれ、立ち上がらされた。

「いくさ場でのんびり休憩するやつがいるかよ」ネロスが叫ぶ。「童貞を捨てたな、おめでとう……まったく、なんてぇ面してんだ?」

 嘔吐したものと鼻血と涙と鼻水で、ハデスの顔はものすごいことになっていた。

 敵方の傭兵が斬りつけてくるのを、ハデスをかばいつつ半身になってかわし、叩き伏せる。

「破瓜したばかりの乙女でもあるまい、ふらふらするな、しっかり立ってくれよ」

「……げ、下品な……」

「口きけりゃ上等だ、下がるぞ」

「……え?」

「危なかったら、逃げるんだよ、意地はってると死ぬぞ」

 そう云いつつ、ネロスはハデスの腕を引きつつ後退する。


 その日のひと当ては、夕刻を迎える前に自然と終わった。ネロス曰く、あれは様子見だったようである。まだ互いを探りあってる段階だと、こともなげに云っていた。

 この日、ネロスは悠々と手を抜いた。ホントの演武会でビルドの”美髯公“クロイドンと仕合ったことや、トーブズ農園でカーペルを殺害した男たちを一瞬で斬り倒した手際にくらべたら、余裕があるように感じた。棍を合わせたのもほんの数人であり、最初に云ったくせに特に首級を挙げようともしなかった。よく見ていたら、無理に前に出ようとしていなかった。当然大きな手柄もたてようもない。

 理由がわかっている。自分だとハデスは思った。自分を護りながら戦っているのだから、自然とそのようにせざるをえない。つまり、自分は足手まといなのだ。

 自分が吐きだしたものと、どこでかぶったかわからない返り血で汚れぬいて、野営地にもどり天幕に転がり込んだ瞬間、今までないほどの悪寒に近い震えがハデスを襲った。天幕を閉めきり、誰もいないそこで、ハデスは長いこと身体を縮こまらせ、震えるままに嗚咽をもらしつづけていた。

 おそらくネロスは、知っていて天幕に入ってこなかったのだろう。

 ……ようやく正常にもどったのは、もう天幕の外が昏くなってからだった。

 気がついたら、外がにぎやかだ。おそるおそるのぞくと、焚火を数人の男たちが囲んで酒を呑みかわしていた。ネロスと何人かのなじみだ。

「おぉ、眼が覚めたか、顔洗うてこいよ」

 ハデスの気配を感じたのか、ネロスが手にした酒杯を振りながら云う。

「初陣の従者君か?よう生き延びたもんじゃ、お祝いにおごっちゃるでぇ」

 ベルヒデスが声をかけ、一同が愉快そうに笑う。別にそう云われたからではないが、もはや何で汚れているのかさえもわからない身体の気持ち悪さは、我慢できない。血と反吐の匂いが染みついてもいる。よろよろと天幕から抜けだし、水桶が置かれている天幕の方へ歩いていく。

 脚下の草原は、しっとりとやわらかい。タラの春は短い。この陣にやってきてからまだ数日だが、草原が急に色濃くなったように感じる。すぐに長い夏が来るのだろう。

 傭兵たちの野営地では、あちこちで男たちが焚火を囲んでいた。殺伐とした空気と喧噪は名状しがたいものがある。その傭兵たちの群れをさけるように進む。昏い平原に、いくつもの焚火が点々と広がり、果てがないように思われる。

 水浴などはできないが、手桶で頭から水をかぶり汚れを手でこすり落とすと、ずいぶんと気分がよくなった。何か喰わないと明日ももたないなと思うが、腹の中は胃の腑の代わりに石でもつまったように動かない。

 天幕にもどる。男たちに酒杯を押しつけられ、強い酒を注がれた。ちょっとためらったが、やけくそのようにひと息に乾す。きつい酒精が舌をさし、のどを通り、胃の腑へ流れこむ。それだけで倒れそうになるのを、脚をふんばると、次に身体の内側から火がついたような感覚が沸きあがった。

 傭兵連中がどっとはやしたてる。ほら喰いなよと、こんがり焼かれた肉の串が差し出される。酒を口にしたハデスの胃は、急に目覚めたらしい。よく焼けた肉の匂いにたまらず、かぶりついていた。連中のうちの誰かが、帰陣の際に、死んだ馬の脚を斬り落として持って帰ったらしい。やることが大胆だ。

 自然に涙が流れた。震えて嗚咽しながら、それでもかぶりつく。腹の中に喰いものを入れることだけが、今の自分にとって救いのように思われた。

「それだけ喰えりゃ充分じゃ、見かけによらずええ度胸じゃないか?おれの初めては、何ものどをとおらんかったんじゃ」

 傭兵仲間のひとり、コープスが楽しそうに云う 一同がどっと笑いたてる。傭兵連中のばか笑いを聞き流しながら、ハデスは黙々と口を動かす。

 酒もほどほどに一同は解散し、ふたりも狭い天幕にもぐりこんだ。肩が触れ合うほどの狭さだ。

 疲労と満腹とかすかな酔いがあったが、眼は覚めて眠ることができなかった。外ではまだ宵っ張りの連中の騒ぎ声が聞こえる。

 今日はどうだったか――?などと、ネロスは特に訊ねなかった。この男はいつもそうだ。状況は説明するが、無駄なことは口にしない。

 訊ねたいことは山ほどあった。身体も心もを圧し潰しされてしないそうないくさ場の恐ろしさ、今日の自分のみっともないさま、まるで役に立たないこと、生き延びるためにどうすればよいのか。だが言葉になったのは、まったく別のことがらだった。

「夜は……いいのか?」

「うん?」

 こちらもまだ眠っていなかったのか、ネロスは訊ね返す。

「夜襲、とか……」

「あぁ、夜警が出ている。そのうち順番は回ってくるだろう。それにあんまり心配しなくていいと思うぞ」

「……どうして?」

「統制がとれないから、へたに夜襲なんてできやしないよ。特に雇われ兵どもは、夜襲は好まない」

「トーブズ農園は夜襲されたぞ」

「陣立てをしている軍を攻めるのは難しい。だが、いくさのことも知らない百姓どもをぶった斬るのに、何の危険もない。それに略奪という余禄がある」

「ネロス、お前も略奪したことがあるのか?」

 あの夜、襲ってきたバランカスの雇われ兵たちの略奪のさまを憶いだして、ハデスは不快を覚えた。

「略奪は正当にみとめられた権利だ、そのような旨味がなければ、雇われ兵は動かない」

 当たり前のように云うネロスに、釈然としなかった。その一方で、これがいくさだ、何かを得るための殺し合い、争いだと割り切っている自分がいた。

 その相反した感覚、そして今日眼前で展開されていた大量の人同士の凄惨な殺し合い、生まれた初めて自分の手で断ち切った命に対するとまどい、そういったものがうまく整理できず、ないまぜとなり、混沌となりいつか意識は黒く塗りつぶされていった。

 ハデスの初陣のその夜であった。


(つづく)

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