第10話 「演武会にて」(2)

 クロイドンの漆黒の美髯が乱雲のごとくに流れ飛ぶ。振るわれる太刀の圧力はまるで雷であった。一方のネロスは巌にも似て強靭で、剣配は灼熱の流星のごとくであった。

 観衆が眼をむく間に数合、息をのむ間にまた数合、両雄の太刀は火花を散らして交わる。太刀風が、客席にまで到達しかねない。

 その場にいた者たちの中で、実はもっとも驚愕していたのはあるいはハデスであったかもしれない。“膂力百人力”と謳われ“千兵に比する”と賞賛された“美髯公”とあのネロスが互角に大刀を交えている――それは信じがたいことであった。館の下女を誘惑し、不遜でふざけたことばかり云っていた従者と、かのクロイドンと互角に太刀を交える剣士が同一の人物であろうとは、想像すらできない。

 間合いが切れた。

「きりがないな……」

 太刀をひと振りし、クロイドンが初めて口を開いた。しかし相手のネロスにしか聞こえぬ程度におさえている。

「ハデス殿下の従者と云ったな。お主ほどの者が野に埋もれていたとはな」

 クロイドンの偽りのない賞賛に、ネロスは苦笑に近い笑みをうかべた。まず間違いなく、クロイドンはこれまで剣を交えた中でずばぬけて強い。その芳醇さ、峻厳さは、匂いたつほどであった。ネロスの野獣のような五感を刺激するその芳香に、斬りむすぶ中で一種の感動さえ覚えていた。

 クロイドンが再度構える。ネロスの背中を怖気がはいあがった。

 今度は太刀が頭上にあった。それだけで幾倍もの容量が“美髯公”の巨躯におしこめられ、眼前に突如、山脈が出現したかのようだった。

 客席では唯一ビルドの天幕でウォルスが表情を険しくし、やるつもりかとひとりごちた。

 じり……と指一本分の間合いだけ、両者の間合いが揺れた。クロイドンの身体が前進する。それに気圧されるように、ネロスが下がる。

 また少し、また少しと……クロイドンの圧力が、ネロスの身体を演武場の壁際へと少しずつ追いつめていく。それは眼では追えないほどの、ほんのわずかづつの駆け引きである。左右へ展開しようにも、わずかに機先に制され動きを封じられる。

 観衆がざわつきはじめた。ようやく彼らにもわかってきた。演武場の中央付近で闘っていた両者が、今はずいぶん一方へかたよってしまっている。

(だめだ……)

 ハデスは心中でうめいた。失望が胸の中で広がった。ネロスは限界であろう。今やめさせなければ、取り返しのつかないことになる、中断させるべきだ。

 だが声が出なかった。息苦しいまでの緊張が身体を縛りつけている。胃の腑がきしんでいた。

 クロイドンは追いつめつつ、そして間合いを制しつつあった。

 ネロスは太刀を青眼に構えている。ネロスの額には玉のような脂汗がにじんでいた。

 すでに両者は一刀の間合いにある。

 ハデスが息を呑んだ瞬間、クロイドンの巨躯が、まるで雷雲のように膨れあがった。

 渾身の力で振り下ろされた一撃が、ネロスの太刀を巻きこんだかと思うと、はじいた。ハデスにすらはっきりと見える大きな隙が生まれた。ハデスの唇から絶望の声がもれた。

 真っ向からネロスの頭上を襲った一撃が――まるで巌を斬りつけたような衝撃をクロイドンにあたえた。それもなめらかな真球の。

 さばかれた――信じがたい思いが、眼前の男の眼光に合って戦慄へと変わった。自分の肉体めがけて襲いかかる太刀の鋭さを、その身に到達する前に、それが致死の一撃であることを身体が感応した。流された身体に悪寒がはしった。

 かろうじてかわした身体が、間に合った。しかしその一撃は、刃引きしているにもかかわらず“美髯公”の長髭のひとふさを切り裂き、左の頬を斜め下から走りぬけた一閃となった。

 瞬時に間合いを切る。

 会場が、今度は異様などよめきに包まれた。

 薄皮一枚を切り裂いただけであった。だがしかし、そこには確かに血を流しているクロイドンがいた。あの“美髯公”がである。

 クロイドンは傷に触れようともしなかった。傷と呼ぶにはあまりにも大げさなぐらいである。表情も変わっていない。だが、眼前のこの男が、これまで戦場で出会い、命の危機を感じた数多の剣士たちに比する技量であることを感じていた。

「ネロス……」

 相手にしか聞こえぬ低い言葉であった。

「ああ」

「……恨むなよ」

「ほざけ」

 ネロスにもわかっている。今の一撃はすさまじいものであった。当たれば死ぬ。だがそれだけだった。そしてそれはネロスを殺しえなかった。だから……クロイドンは一線をこえることにした――もはや何の遠慮も体裁もいらぬ。演武会の礼儀もくそもない。

 そしてネロスも応えた。やってみろ――と。

 つまり――凄惨な笑みをうかべた。

 ネロスに呼応するように、半面を血に染めてクロイドンも獅子ですら退きかねない笑みをうかべた。

 ふたりの身体がすさまじい殺気にふくれあがった。それは剣をにぎったこともない者ですら、はっきりと感じてとれるほどの、濃密な剣気であった。婦人の中には、立ちくらみをおこした者がいたほどだ。

 両者の掌で太刀の柄がきしみ、白刃が震えた。

 殺気が解放されようとし――

「それまで」

 両者の間合いがさえぎられた。はっとクロイドンが仰ぎみると、ビルド公が主座から立ち上がり睥睨していた。

「両人ともに、実にみごとであった。新帝のご受禅を寿ぐにふさわしい勇壮さであったぞ。しかし残念だが時間切れだ。この勝負、引き分けとする」

 誰も皆、しつらえらえた砂時計に眼をはしらせた。確かにいつの間にか砂は落ちきっていた。一同から安堵に近い嘆息がもれた。試合に気をとられて気がつかなかった判定役は、恥いるように顔をふせた。

 しばし砂時計を凝視していたクロイドンであったが、手にした太刀を鞘にもどし、深々と頭を下げた。胸元にあてた巨大なこぶしが、かすかに震えていた。ネロスもそれにならう。

 ハデスは自分がいつの間にか立ち上がっていたことに、初めて気がついた。こぶしが小さく痙攣していた。震えを止めるため、血がにじむほどきつく噛みしめた。頭にのぼっていた血が、ひと息に落下するような気分だった。縛りつけられていたような胃の腑が、ようやくゆるんだ。うめき声をあげ、倒れこむように着座した。

「クロイドン、これほどの剣士が世にいたとは驚きであったな」

 忠実な剣士を見すえつつ、ビルド公が悠然と問う。

「まったくにございます」

 “美髯公”の太い声が答えた。口許にはもう太い笑みがもどっていた。

「さてイオのネロス。勝ち抜けとはいかなかったが、しかし最期にわが自慢のクロイドンと分けたのであれば、それはもう七人抜き以上の武勲であろう。実に見事であった。後日褒賞の品を届けよう」

 イヴァーンが手を叩く。諸侯、諸国からの来賓たちも次々と手を打ち鳴らすと、演武会場に轟々ととどろきわたった。

「ハデス殿下がうらやましい、これほどの剛の者をしたがえているとはな」

 イヴァーンが手放しで賞賛すると、各天幕からもそれに呼応して次々と讃える声があがった。頭を下げたまま、ネロスはちょっとこまった顔をしていた。このように扱われるのはなれていない。

「さぁ、つづけ、集いし剣士たちよ、おのれの武威を示すのにまたとない機会だぞ」

 ビルド公が歌い上げるようにうながすと、演武会は再び歯車がかみあって回りはじめていく。


 熱気を背に演武場を後にした。東の門からつづく公邸の回廊は人気がなく、場内の喧騒から切り離されたかのようであった。

 剣戟の熱気はいまだ引いてはいなかった。灼熱を背負っていた。

 クロイドンは脚を止めた。

 巨躯をさえぎるように、鉄灰色の髪をした隻眼の剣士がいた。

「何ともお粗末な結果となったな」歯をむき出して、挑発するように傲慢にウォルスは云ってのけた。「従者風情におくれをとるとはな、“美髯公”の名がなくぞ。手加減しおって」

 クロイドンはその挑発を軽く受け流し、傷のない方の頬をゆがめるように笑った。

「手の内見せていないのは、あちらも同じこと。しょせんは見世物だ」

「俺ならばあのような男など、手もなくあしらえるぞ」

「さて、それはどうかな?」

 揶揄するようなクロイドンの言葉にウォルスののこった右眼が、おさえがたい感情に燃えた。

「仮にもビルドの二枚看板などと呼ばれているのだから、その名を失墜させるようなことは、こまりますな“美髯公”」

 吐きすてるようにそう云うと、ウォルスはくびきを返した。

 一方、西の門から退場したネロスもまた、門付近に待機する進行役たちの賞賛と畏怖に満ちた視線を背中に受けながら、回廊に歩をすすめた。

 彼のあさ黒い肌からはやはり闘気が陽炎のごとくのぼり、誰もうかつに声をかけられないでいた。

 角を曲がると、その男がいた。

 奇相の男であった。歳のころは二十代半ばであろうか。豪奢な金髪。眼は小刀で切れこみを入れたかのように鋭く、眼じりが美しく釣りあがっている。唇が薄くうっすらと蒼白く、にこやかに笑っているような表情である。手には剣を下げている。何となくビルドの者ではないような気がした。

「おお、イオのネロス殿。今の試合、感服いたしました。私めは、キンブル家にご厄介になっておりますアザトースと申します。ひとめおめもじをば……」

 大げさに歓声をあげ、嬉しげに両手を広げて近寄ろうとする。周囲に人影はない。

「お前、どうやって入った?」

 ネロスは低い声で不審げに訊ねた。このあたりは、出場者以外の者は基本的に出入りできない。

「はい?いや、頼めばご親切に入れてくれましたけどねぇ」

 屈託なく笑いかけながら近づくアザトースと名乗る男を、ネロスが低く制した。

「お前……そばによるな」

「はい?」

「薄気味悪いんだよ」

「これはえらい云われようだ」

 にこやかに笑うアザトース。脚は止まらなかった。

「失せろ」

 クロイドンとの試合でもみせなかった、妙にいらだった怒気をはらんだ声で一言、云いはなった。野獣じみた粗暴さがにじみ出る。

「失せろとは心外ですねぇ。せっかくご祝儀を述べにきたというのに」

 アザトースの笑みは別に変わらなかったが、しかしうす暗い回廊の空気が、不意にひやりとしたものをまとった。唇が嘲るように奇妙にゆがんだものになり、薄気味悪いものが表で出てきたようだった。すうっと、わずかに半身になった。ネロスもまた無言で、鞘に手がのびていた。わずかに重心が下がる。

 両者は間合いの中にいた。

 アザトースの切れ長の眼が、こごった異様な光をはなっていた。ネロスはそれをなお圧する眼光でもって受け止めた。びりびりとしたひりつくような空気だった。

 両者の掌の中の鯉口をきる音が、かすかに響いた。アザトースの薄い唇を、ちらと舌先がなめた。

「おや、いかがされた?」

 緊張感のない――否、まったく別種の気勢を内包した声が両者を分けた。張りつめた空気が、不思議にゆるんだ。

 互いから視線は切らず、ふたりとも自分たちへ近づいてくる人物をみとめた。両者ともに、それとは気づかぬ程度に間合いをとった。

 ネロスたちの剣呑な様子に気がつかぬはずもないのに、その人物は無造作に近寄ってきた。

「イオのネロス殿に会いにきたのだが、先客がいたようだ」

 どうやら、こちらもビルドの者ではないようだ。かすかに東国なまりがあった。アザトースと同年代であろうか。漆黒の髪は肩までのび、濃い緑柱石のような瞳が涼しげである。即位の日、老爺とともに群集にまじって馬揃えを見物していた者であるが、無論ネロスは知らぬ。

「これは……どちら様で?」

 アザトースが問いただす。青年は金髪の男にちらと視線をはしらせると、逆に問いなおした。

「警護の者が気を失って倒れていたが、お主か?」

「ありゃ、これはばれてしまいましたか」

「お主、何者だ?」

 涼やかな笑みをうかべつつ、しかし口調は冷徹であった。

「ははは、これはどうにも、参りましたね」アザトースはお手上げという風に、両手を剣から離してみせた。「今日のところは退散するとしましょう……ではまた、お会いできる日を楽しみにしていますよ、“厄病神”殿」

「……お前。どこかで会ったか?」

 ざらりと剣呑な声でネロスが問うが、アザトースは唇をゆがめると、猫のしなやかさでふたりの間合いからするりと身を離した。

 脚早に去っていくアザトースに、ネロスは小さく舌打ちをした。

「あんたの用事もあいつと同じか?」

「はは、まさか。あの“美髯公”と互角にわたりあったイオのネロスとは、どのような男かと興味がありましてね。あの男とのやりとりで、それも大体わかりました」

 アザトースとはまるで違う陽性の笑いだった。ネロスは鼻を鳴らす。

「ヌアールの特使に随行してまいりました。ザフィールと申します」

 ネロスともアザトースとも違う、鷹揚な風があった。しかし一礼をしてきびすを返した眼光には、意外な鋭さがあった。

「いずれまた、お眼にかかれるときがあるかもしれませんな」


 天幕を押し広げて、ネロスがもどってきた気配があった。近習の者たちは口々に、しかし恐る恐る賞賛の言葉を口にしていたが、ハデスは振りかえらなかった。

「ご苦労だったな」

 背中で素っ気なくねぎらった。

「あんなもんで、どうでしたか?」

 ネロスは小卓の皿から香草をきかせて上手に焼いた豚の脚を手づかみにし、切り分けもせずに大きなかたまりのまま歯をたて、かみちぎる。たくましい顎で咀嚼する。

「上できだ。これで少しは体面もたもたれた」

 ふてくされたようなハデスの言葉に、従者は思わず吹き出した。

「あの髭の親父のような化物とは二度とごめんだ。命がいくつあっても足りやしねぇ」

 そう云うと小卓の酒壺を取りあげそのまま口をつけると、喉を鳴らして呑みほした。


 ビルドが催した演武会の数日後のことであった。ハデスはひとりで執務室にあった。イーステジアの新帝が即位し、都はお祭り騒ぎであろうと、煩雑な事務だけは休まることがない。公使としての一見はなやかな公務とは別に、実際はこのように地味な手間仕事が彼の一日の大半をしめている。

 先日の演武会での褒章をあたえるとの伝達があり、従者を務めるネロスを送りだしたので、今は久方ぶりにひとりでの執務であった。屋外の喧騒もわずかで、はしらせる筆音のみが室内にはあった。

「殿下、失礼をいたします」

 おとないがあり、大使が入室した。ボルヘスは、代々ホントの大使職を務める恰幅のよい壮年であった。数代にかけて香都におけるイオの大使館を牛耳っていた一家の鷹揚さと権高さをごく自然に有している。ハデスに対しては立場をわきまえた態度であったが、まぎれもない国王派であるゆえ、王弟の長子たる彼とは冷ややかに距離をとっていた。

 ボルヘスの背後に三、四名ほどの者が従っていた。先日、ビルドでの演武会に出場したワルカバンとミルズもいた。

「どうした?」

 ハデスの問いにボルヘスは無表情であった。ハデスはいぶかしげに眉をひそめた。ボルヘスは手にした公文書の筒を、のろのろと紐とくと、おおげさにつきつけた。

「殿下、王命にございます。本日づけをもって殿下の公使職を解任し、本国にて査問にかけられます。ご同行ください」

 意味を理解するのに、いく拍かの間が必要であった。思わず立ちあがり叫んだ。

「何をばかな――?」

「事実でございます。ただいまより殿下は、私の監視下におかれます。ご諒承くださいませ」

 ボルヘスの慇懃無礼な表情に、床を蹴った。壁にかかる長剣にのばしたハデスの手を、詰めよったワルカバンが鞘におさめた剣で撃ちすえた。先日の演武会で不覚をとったとはいえ、ワルカバンの剣力は館内でも屈指のものである。たしなみ程度しか剣を使えないハデスなど、脚下にもおよばない。

 その身体を、ミルズがすばやく羽交い絞めにし、執務机に押さえつけた。

「離せ、ミルズ!」

「王命にございます、お赦しくださいませ、殿下」

 ミルズが口早にハデスにささやいた。あとの者が、手馴れた様子で、ハデスの腰と手首に縄をうつ。

「ネロス!」

 苦痛に顔をうかべ、ハデスは思わず従者の名を呼んでいた。

「お忘れですか、殿下ご自身がビルドの公邸へおもむくように伝えたはずです」ボルヘスが底意地の悪い笑い声をあげる。「下賎な輩でございます。褒美でももらえると思って喜んでいるでしょうが、ふふ、さぞばつの悪いめにあうでしょうな」

「まさか……騙したのか?」

 急に腹がたってきた。ハデスは身体をねじって、ミルズたちの拘束から抜けでようともがいたが、どうにもならない。

「殿下、お静まりください」

 ミルズが低く制するが、ハデスは激怒してボルヘスに向かって脚を蹴あげる。

「卑怯者が!」

「ご油断なさいましたな、殿下」慇懃にボルヘスが語りかける。「“美髯公”と互角に試合う男がおそばにおれば、うかつに手は出せませんからな。しかしあのような目にあっておきながら、みすみす護衛をそばからお離しになるとは、甘くみておられたのですか?」

「……何を云っているのだ?」

 ボルヘスの方が、おやという顔をした。

「ご存じなかったのですか?マールは、お話にならなかったのですか?はて……やつめ、ぬけておるのかいないのか……」

「だから何をだ!」

「私めがお話するようなことがらではございません」

 鼻の先でせせら笑うように云いはなつと、顎で横柄にうながす。ミルズが後ろ手のハデスを持ちあげるようにして椅子に座らせると、後の者がさるぐつわを噛ませようとした。頭を振って抵抗をしたが、手もなく言葉を奪われ、さらには麻袋をかぶらされた。ご丁寧に脚首まで縛りあげられると、まるで陸に揚げられた魚のように無力だった。

「ワルカバン、予定通りだな?」

「心得ております。ポウの三番桟橋にはすでに舟を手配しております」

 うなずきつつ公使の執務室から靴音高く退室しようとして、ボルヘスは廊下で呆然としていた下女に突き当たりそうになった。下女は悲鳴をあげて後退る。他にも何人か、廊下の端から何ごとかと恐る恐る様子をうかがっている。

「何をしておる!」ボルヘスが一喝する。「お主らごときが見てよいものではないぞ、よいかこれは国事だ、他言無用!逆らえばきつく仕置うてくれるぞ!」

 下働きの者どもはあわてて顔を引っこめ、下女も蒼白な顔色で走り去った。

「早くいたせ」

 ボルヘスがうながすと、ワルカバンは身動きできないハデスの身体を、まるで穀物のつまった粗袋を持ちあげるように無造作に肩にかついだ。

 粗い麻袋ごしに光がすけては見えるが、何がどうなっているのか、ハデスにはまるでわからなかった。かつがれている間、懸命にもがいたが、非力な彼の力ではびくともしない。

 しばしそのままの格好で運ばれていたが、やがていやに窮屈な場所へ乱暴に押しこめられた。膝をのばすことすらできない。どうやら長持ちの中らしい。無駄だとは知りつつもがいてみるが、ろくに身動きすらできない。

「殿下、これでお別れにございます」

 頭上から、嘲りを隠そうともしていないボルヘスの声が聞こえてきた。嘲笑をのこして、ごりごりと蓋をする音がし、突然視界は暗色に染まった。今までかろうじて布ごしに届いていた光が、完全に遮断されたのだ。

 やがてハデスがおさまった長持ちが、規則正しく揺れはじめた。馬車の上ではないかと思いいたったら、ぞっとした。このまま本国へ運ばれていくのか?

 査問などと体裁をとりつくろっているが、しょせんは幽閉か、へたをしたら命すら奪われかねない。

 イオの都アンドレードには、悪名高き朱の塔がそびえる。一度罪人として送りこまれたら、陽の眼を見ることはかなわぬ。塔の地下や最上階には、貴人のための特別な貴賓室がいくつも用意されており、イオの建国以来、ひとつのこらず空であったためしはないとのおぞましい噂もある。

(ネロス――!)

 声にならない悲鳴をあげて従者の名を叫び、身動きできない身体をゆすって拘束から逃れようとしたが、声が外に届くわけもなく、縄目もゆるまない。ましてや助けがくるわけでもない。

(ネロス、どこにいるばか!助けろ、助けろネロス!)

 何度も何度も叫ぶが、声はむなしくどこへもとどかない。さるぐつわは唾液でしとどに濡れそぼり、やがて口の端から流れて長持ちの底を汚す。粗いとはいえ頭から袋をかぶせられているから息苦しく、吐き気がしてきた。身体中に脂汗が吹きでた。屈辱と恐怖で涙がにじむ。

 あがくだけあがいて、ようやくハデスはもがくのをやめた。いくらあがいてみたところで事態は好転しないし、今無駄に身魂を疲労してしまえば、いざ肝心なときにどうにもならない。

 だが、身体中縛りあげられ長持ちに押しこめられて馬車に揺られるのは、想像以上に彼の体力を奪っていた。疲労と息苦しさ、それに束縛されている身体の痛みとで朦朧としてき、意識が途切れ途切れになりはじめた。


(つづく)

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