第6話 「過ぎ去りし春に老樹は枯れなん」

 百曜宮の奥の奥のその深奥――玉座の在する星辰の間。そこは権力と欲望の顕現の座であり、百曜の宮の中心として六百年の長きにわたり、ふたつの大陸のなかば以上に君臨する力の中枢である。

 その場から発せられる侵しがたい力は、人の感応を狂わせる魔宮の幻影を形づくる。

 憎悪や畏れ、ねたみやそねみ、羨望や歓喜、そして秩序と規律……そういったものが宮内の空気に溶け合い融合し、あるいはまた互いを腐食しあい、何か意思を持つひとつの生き物であるかのごとく永遠にうごめきつづける。

 それは黄金と水晶とにいろどられた偽りの魔宮であり、人の心が生み出した虚ろの迷宮である。

 そして星辰の間が皇宮のそして帝国の中枢であるならば、後宮こそは百曜宮の真の中枢と云えるであろう。なぜならすべての支配者の歴史は、そこからはじまるのであり、そここそが権力の揺籃の地であるからだ。

「玉座の後ろに真の玉座がある」とは、よく云ったものである……


 後宮の浴室は、もはや深更に近いというのに、浴槽には熱い湯が満々とたたえられていた。一日のうち、どの時間でものぞめば即どの浴室で入浴できるように、釜焚きが交代でつめているのだ。

 釜焚きだけではない。酒食であれ伽であれ、この宮では主たる至高の地位にある者がのぞむものは、すべからく常に遅滞なく供される。庶民には想像することすらできない贅沢である。そのために費やされる人員は、日に三千人とも云われる。

 決して眠らない宮と云われる所以である。

 さて、皇帝たる者の浴室である。寝室にもっとも近い簡易なものであるが、それでも馬車を乗りこませることもできるのではないかと思えるほどの広さである。湯に濡れるとつややかな光沢をはなつレーヌの精石で組まれた浴室全体は、壁の灯火にうすぼんやりと輝いているようであった。

 浴槽にはただひとりの人影のみがあった。浴槽のふちには神像の繊細な彫り物が施され、その人影はけだるげに身をあずけていた。浴室内は湯気でかすみ、壁に設えられた神獣の口から浴槽にそそがれる湯音と、時折天井からしたたり落ちるしずく音ばかりが響くばかりであった。

 どれぐらいの時間を湯につかっていたのだろうか、その人影が湯音を響かせて立ちあがった。

 少年である。

 歳のころはまだ十代のはじめであろう。ほんのりと赤く染まった裸体が輝く。そのみずみずしさに恥じぬつややかな輝きであった。湯の玉は少年の肌をすべり落ち、ただの一滴もとどまることを知らない。

 少年らしく短く整えた黄金の髪が、灯火に豪奢に輝く。まるで一本一本が、黄金のようである。かすかにうつむきぎみであるが、その瞳は澄明な湖のもっとも深い水の色と静けさをたたえていた。鼻筋は名ある彫刻の名人が一生をかけて表現をしたいと願い、ついにははたせぬ優美な曲線を描き、唇は花のつぼみが恥辱に身を枯らさんばかりに艶やかであった。

 かつて――皇宮に出入りを許された画工が、少年を見て「その貌には人がのぞむものすべてが宿っている」と謳い、そして「ただ神ならぬ人には、能く表わすことをえず」と嘆いたと云われている。

 湯をしたたらせつつ浴室の扉を開け脱衣の間に上がると、お付きの女官がふたり駆けよってきて、その裸体を丁寧に拭きあげる。すでに中年に達している両名は、決して少年の顔を見ようとはしなかったが、その頬は羞恥に染まっていた。

 少年の方は身を彼女たちにまかせつつ、さらに別の女官が浴衣をまとわせる間も、眉ひとつ動かそうとはしない。湯にほてった肌はしみひとつなく、身体の内側から光輝がこぼれ出ているかのようであった。

 少年が隣接する皇帝の寝室へ姿を消した後、女官たちは世慣れていない少女たちのごとくに、ほっと熱く吐息した。

 

 扉を閉める。閑静な寝室内で、規則正しい寝息がかすかに少年の耳にとどく。最上等の油をたたえた常夜灯は、わずかな煤もたてず芳しい芳香を放っている。

 豪奢な部屋であった。否、そのような平凡な言葉では云いつくせぬ。

 浴室などとくらべたら、全体が小振りではあるが、それでも天井は高く、しかし寝室全体をほのかに照らす灯りが過不足ないよう過度にすぎぬよう、巧緻をつくして天井の梁は組みあげられていた。調度品はまるで美の審判者の眼を蕩かすために、この世のあらゆる技巧が工芸となったものを、ことごとく蒐集したかのようである。

 たとえば脇卓の上の文箱ひとつにしても、小指の先ほどの桜色をした貝の殻を一面に貼りつけている。薄暗い寝室でも自体がほのかに光を放っているかのようである。はるか南方でしか採れない非常に珍しい櫻媛貝であり、殻がこれほどの大きさまで育つのはまれである。さらにほんのわずかでも、色合いにくすみがあれば使われない。完成するまで百五十年もかかったとの話である。

 またこの酒盃棚の表層は、五十年もの以上のとろりとしたミロードの油を塗りこんだものである。そのためには歳若い少女が素手で塗りこまねば、これほど見事な光沢とはならない。しかもその作業は冬のもっとも厳しい時期のみにしかできず、製作にたずさわった職人村では、親子三代にわたって従事した家もあったそうだ。

 月ごとに掛けかえられる壁飾りですら、一枚しあがるのに百人とも二百人とも知れぬ人の手を経る。それが惜しげもなく部屋を彩る。

 調度だけではない。部材ひとつをとっても、必要とあらば途方もない彼方より献上されており、都に住む者でもこれほどの距離を旅した者などそうはいないだろう。

 黄金の鋳型で造りあげられたとしても、これほどの価値はないかもしれない。部屋ひとつが、ひとつの小国の富に匹敵するのではないだろうか。恐るべくは、これら神品のごとき数々は、いずれも歴々の唯一の人物のために生みだされたものである。

 脇卓には磨きあげられた純銀の酒器が鎮座している。少年は酒盃にシドラ酒をそそぐ。皇帝の寝室に供されるそれは、おそらく途方もない由来と価値があるのだろう。後に皇室一の享楽家として名をなす彼であったが、今の少年にはさほど興味はない。彼にとっては、ごく当たり前にそこにあるべき代物である。

 酒盃にそっと唇をつけた。十二になったばかりの少年には少し強かったが、のどの奥に流しこめば、それは身体の中でわずかにしびれを誘う熱となった。

 寝台の上を凝視する。

 そこには絹にくるまった、老いて筋ばった身体があった。かすかないびきをたてている。その顔には深い皺が幾条も刻まれ、雪のような白髪も白髭も、身をまとう絹の隆起の薄さも、まるでその残日の少なさを表しているようだった。

 この宮の主であり一天万乗の君、そして今宵、彼の“おとめ”を奪った男――イーステジア帝国の四十四代皇帝にして、賢帝と称されるエリア・アエリウスであった。

 そして……少年はその曾孫にあたる。

 老人が今宵少年に求めたことがらについては、別に感慨はなかった。この老人がのぞむものは、この魔宮の中ではおそらくどのようなことがらであろうと、叶わざることはない。

 老人は気まぐれに少年に伽を所望し、それに抗する手段も力も少年にはない。少年は従うしかないし、老人の要求は叶えられた。それだけのことにすぎない。

 ただ、このような枯れきった肉体の持ち主が、血の繋がった十二の少年に情欲をたぎらせるなど、狂気の沙汰としか思えない。

 自分にのしかかってきた老皇帝のさかりのついた牡犬のような眼光、乾燥してたるんだ肌、彼の身体を嘗めまわす舌の感触や老人特有の体臭には、眉をひそめたくなる不快な想いしかなかった。

 かつて五十人以上の子を多くの女たちに無節操に産ませておきながら、老醜の身で七十以上も歳若の少年をむさぼる。

 妄執である。

 この歳になってなお、しかも春のはじめまでその命すらも危ぶまれていた老人の妄執である。

 何と醜い。老醜であった。

 世にありては賢帝と賞され、聖君などと讃えられる。だがその正体は、おのれの曾孫ですら情欲の対象とする獣のような性状である。後宮に身を置く者は、誰ひとりとして知らぬ者はない。皇宮の外へは出せぬ秘密であろう。

 にもかかわらず人は、その威徳を讃え仰ぐ。人々の賞賛を一身にあび、その身は栄誉と光輝につつまれているのである。

 愚かしいこと、この上ないと少年は腹の中でせせら笑う。

 ……その時だった。

 老いた皇帝が不意に絹にまとわれた身を揺すった。

 いびきが何やらうめき声に変わり……そして場違いなほどに甲高い――放屁をした。

 感情をなくしていたかのような少年の顔に、何とも形容のしがたい表情が、漣のように揺れて翳りを形づくった。

 なにごともなかったかのように、機嫌のよいいびきはつづく。

 羽毛がつめられた、幻のように柔らかな枕を手にとった。いぎたなくいびきをかく皇帝の胸に乗る。げっぷのような音が筋張ったのどから、かすかにもれた。

 少年は手にした枕を、老いた皇帝の顔面に押しつけた。

 枕の下ではいびきはくぐもった音となる。大きく息をひとつふたつつくほどのときがたち、くぐもったいびきが不意に止まった。代わりにうめくような声がもれ、それが途切れずに長々とつづく。うめき声だったものが、はっきりと苦悶の声となった。

 が、少年は微塵もとまどうことなく、その手をゆるめることはなかった。無表情に枕を押しつけつづける。少年は掌の下の豪奢な枕の中へ押しこめようとする。瞳は冷たく冴えたままだ。

 節くれだった指は地獄の餓鬼のごとくにねじ曲がり、胸元をかきむしろうとして寝着の前を大きくはだけると、あばらの浮き出た貧相な胸があらわとなった。

 枕の下から何かを断ち切るような甲高い声がもれ、その胸がひとつふたつ大きく隆起し、そして今度は自身の重さをささえきれないかのように、その身は寝台に沈みこんでいった。

 そのままの姿勢で力をゆるめず、ゆっくりと口の中で百まで数える。

 何もおきなかった。一度動かなくなった身体は、やはりそのままだった。

 そっと枕を取りあげてみると、苦悶の表情そのままで時を止めた老皇帝がそこにはいた。

 血走った眼球は自らの脳天の裏側をのぞこうとするかのようであり、枯れ木のようであった老いた身体からは、のびきった舌とともに精気がことごとく流れ去ってしまったかのようだった。たった今まで、抗い生きていたはずなのに、すでにその身体には寸毫の水気も生命の証もみとめられないように感じられた。

 ねじ曲がった指を、一本一本伸ばしていく。硬直しているようにみえるが、少年の力でも容易に伸びていく。

 不意におかしくなった。こらえきれない笑いが、胸元からくつくつとわいて出た。

 それがしょせんあの老人の本当の力にすぎないのだと、少年は冷たく思う。死に臨んでなお、この程度の抵抗しかできなかった。自分に死をもたらそうとした少年の身体に、一筋ほどの傷をいれることすらできなかった。まるで影絵芝居の人形ほどに非力だった。

 このような男が、ふたつの大陸のほとんどに君臨する椅子に座していたのだ。滑稽としか云いようがない。自分は何とつまらぬ秩序と権力と呼ばれる無言の力に従わざるをえなかったのか、ばかばかしくてしかたがなかった。

 死んでしまえば、枯れ木にも劣る分際で。

 春の過ぎ往きしその夜に、広大な版図の隅々にまで根をはった巨大な老樹は朽ちはてて、今や一片の枯れ木よりも価値のないただの屍にすぎなかった。

 さてどうしようかと考える。燃やしてしまえれば快感だろう。枯れきっているから火のつきは抜群であろうが、何の役にも立たぬ。

 別に憎くてやったわけではない。だらしなく寝台に横たわるその身体を見ているうちに、殺したら楽しいだろうと思ったにすぎない。

 実際は意外に心がはずんだが、動かなくなったら途端につまらなくなった。それに少年の殺意に抗する力の弱さも、期待はずれもよいところだった。せっかくなのだから、もっと殺しがいがあってもらいたかった。

 見れば、押さえこんでいた枕の覆いに、掌ほどの嘔吐の跡があった。覆いをはずすと、枕自体に汚れはない。絹の覆いを夜着のかくしに押しこんだ。

 老人のはだけた胸元を整え、布団を肩までかける。開いたままの眼を閉じようかとも考えたが、このように苦しんだ表情をさらしてやるのもおもしろかろうと意地悪く考え、そのままにすることにした。はみ出した舌も同様だ。

 嫌悪はない。むしろ楽しいくらいだ。鼻歌さえもれていた。

 最期に枕元の脇卓の上の手洗いで丁寧に手を洗う。酒がまだのこる酒盃に口をつけた。さぁ、はじめるとするか。

 寝室の扉を開ける。老人が何者かと同衾する夜、控えの間はさらに次である。

「たれか在る!」

 少年が叫ぶと、控えの間からふたりの宦官が腰をかがめるような姿勢で進み伺候する。寝室の扉前で、深々と一礼する。

「陛下のご様子がおかしい」

 息を呑み、少年の脇をすりぬけて皇帝の寝台へと駈けよる。白眼をむき、ねじくれた舌を長々と突きだした尊顔を眼にして、宦官たちは悲鳴をあげた。

「陛下、陛下!」

「おつむを動かすでない。脈をとれ!」

「――早く侍医を!」

 顔色を変えたふたりは、慌てて寝室から駆けだした。少年のことなど、もはや眼中にもない様子だった。


 ――やがて、混乱がおとずれた。

「陛下のご容態が……」

「おいたわしい限りにございます。お眼の光はなく気脈は完全に失われ、心の臓も動いてはおられませぬ……ご蘇生の見こみはございませぬ」

「ええい、陛下はご快癒にむかわれていたはずだ、なぜこのように突然に……」

「いかに陛下といえど、ご高齢でございますゆえ、やはり御玉体の……」

「心の臓の発作ではないかと……」

「侍医らの責はまた別に問う!今はともかく……」

「急ぎユスティアヌス様をお呼びいたすのだ、東宮に使いを出せ」

「誰か宮内長官へご連絡を!ご指示をあおぐのだ」

「女官長を呼べ!女官どもは何をしておる」

「参与の方々にお報せは……」

「いかん、どのような混乱が……」

「……このことはまだ内密に」

「後宮の出入りをただ今より禁ずる。衛兵にきつく申し伝えよ」

「おぉ……おいたわしや陛下……このようなお苦しみとは……」

 誰もが恐慌をきたした声で、賢帝の名を、そして何者かの名を呼ぶ。

 少年は寝室の隅の椅子に、一見放心したかのように座している。その見かけとは裏腹に、騒々しく跳びまわる近習たちを、嘲るように観察していた。まるでいなか芝居だ。このような老人ひとりが死んだだけで、大の大人が右往左往する。この者たちは何と愚かなのか。

 少年は何度かその夜のことを訊ねられたのみであった。曽祖父に呼ばれて寝室をうかがった。しばし話をしていたが、やがて寝台に横たわった陛下の容態が急変した――と。

 誰もが少年が呼ばれた理由を察しておりながら、誰も口には出さなかった。見ないふりと知らんふりの芸の極致がそこにあったようだった。

 誰かが寝台の枕に覆いがないことに気がついたなら、そして少年の身を調べ、かくしに押しこまれた絹を見つけだしたならば、話はずいぶん変わっていただろうし、ある意味単純なものになっていたかもしれない。

 しかしその危険を予測しつつも、少年は何ら措置をとらなかった。身を護ろうという意識は、自分でも呆れるほどに希薄だった。

「ヲリアヌス様はこちらへ――」

 誰もが気にもとめなかった少年の手を引く者がいた。ほう……と感心をしたが、彼の者はただの好意であった。だが彼の者を含めて、その場にいた誰もが、それ以上少年に気をまわすことなく、そして悲劇かそれとも喜劇かはわからぬその一幕は、永遠に失われた。

 十いくつの少年が、老いたりとはいえ、大の大人である皇帝を窒息させるなど、いくら何でも彼らには想像すらできなかったのだろう。

 かなり離れた予備の寝室に、少年は通された。後宮にはそのような間は、数えきれないほどある。その間にも、後宮の仕え人たちのあわただしい行き来とはち合わせた。皆一様に狂騒にあった。

 少年のための新しい居場所は、このような場合でもまったく遺漏なく寝台は整えられ、暖炉にも火は入れられ、脇卓には温められたシドラ酒が満たされた酒壺と杯、乾燥させた果実などが乗っていた。さすがに少年も感心をした。

 清められた寝台に身を投げ出す。心地よい疲労が、少年の身体を満たしていたが、不思議と眠たくはなかった。かくしから絹を取り出し、しみじみと眺める。さて、どうしようかと考えた。

 これ一枚でどのような騒ぎになるか。身を探られ詰問されたら、彼としてはうそをつきとおすつもりはなかったし、今もその気持ちに変わりはない。ただ誰も訊ねなかっただけだ。

 もし露見したならば、彼の名は汚名を着せられ、しかしおそらくは事実ともども闇に葬られるだろう。皇宮とはそのような底の知れない、どす黒く深い深い闇を数えきれないほどに持っている。その闇に眠る名は、永劫に光の元へ表れることはない。

 それもおもしろい――と考えていた。運命を司る老神パーンの裁きがどのようなものであれ、従うつもりである。不思議なことにその時の少年は、傍観者の気分であり、自分の行為にまるで頓着していなかった。ありていに云えば、自分のやったことに対してあまりに無責任であった。

 扉ごしにかすかに喧騒が伝わる。長い間、まんじりとすることなく時をはかっていたが、その喧騒は静まることもなければ、高揚することもなかった。ただ気色悪くうごめいているだけだった。

 誰も少年の元へはやってこなかった。身をおこすと、窓から外の気配をうかがう。いつか夜が明けようとしていた。

 部屋には鍵もかかっておらず、見張りがいるわけでもなかった。無用心なことだと苦笑した。部屋々々をぬけていき、回廊を渡っていく。所々には緊張の面持ちの衛兵たちが歩哨していたが、誰も少年の顔を知っており、とがめる者はいない。慌しく走りまわる宮人たちも、少年にまでは気をくばることはできない様子だった。

 後宮を出る。すでに東の空が白みはじめていた。夏月に入ったばかりではあるが、やはりこの時刻は肌寒く感じる。

 振りかえるが、別に誰も後をつけてきてなどいなかった。宮の外から中の静かな喧騒はわからないが、どこか殺気立った気配を感じるのは、気のせいであろうか?

 少年は歩みを進めた。宮の周辺をとりかこむうっそうとした木立はそのまま濠辺までつづいていた。夜露が冷たい。濠の水はひとつの方向へとむかっていた。底の見えないゆっくりとした流れだ。

 少年はしばしその流れを見つめていたが、やがてかくしから例の薄絹を取りだした。老人の吐瀉物の跡は、もうすっかり渇いている。

 ふと見やると、濠を隔てた向こう側にひとりの少女がいた。自分よりいくつか歳上だろうか、実に粗末な身なりで大きな洗濯籠を背負い、くすんだ焼煉瓦色の髪をしており、眼も口も大きく開き呆然と自分を見つめていた。自分がそんなに珍しいのかと思う。

 自分がこれからすることを目撃しているのが、実は彼女だけだという事実が、ひどくおかしかった。

 指をゆるめると、薄絹はひらひらと舞って、水に落ちた。少女が声をあげた気配がわかった。身をすばやくひるがえし、身近な樹の背に隠れる。低木ばかりであったが、少年の身体を隠すには充分であった。木陰からこっそり見ると、濠の向こうで少女が駆けだしていた。流れていく絹を追っかけているのだろうか。

 少年はおかしかった。追っている少女の必死さもさることながら、自分が消し去ろうとしたものの正体を、あの少女は知ることがあるのだろうか?いや無理であろう。たとえ追いついても彼女にはそれが何であり、どこで使われたか、そしてなぜ捨て去られたのかを知ることなど決してないだろう。

 振りかえりもせずに、後宮へともどる。

 昨夜はずいぶんな騒動だったから、腹がへっていた。朝食を準備させようと思った。まずは舌がやけどするほどの熱い茶。それから薄切りのピェンに豚肉を煮たものをどっさり、甘辛いたれをつけて食べよう。羊の乳を固めた酸っぱいカシウス、彼は青かびの生えたくさいやつが好みだった。最期は新鮮なデーツ。考えただけで、生唾が出る。

 彼がその手で命を絶った老いた皇帝のことなど、少年の旺盛な食欲の前ではもはやどうでもよかった。


(第6話 了)

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