第4話 「バインセアの毒」(前編)

 浅いまどろみが去った。バインセアの体内で常に刻みつづける天与の精緻な機巧は、そのまどろみがさほど長い時間ではなかったことを感得していた。まもなく三点鐘が鳴るであろう。ハデスをおこし、大使館へ帰らせねばならぬ時刻となる。

 ほの暗い常夜灯が、屋内にきまぐれに幽暗を描く。

 まだ曙光もおとずれていない。バインセアが少年のむき出しの背中や胸を掌でそっとなでまわせば、ひんやりとする。ハデスの濃い栗色の髪をかきあげると広い額がむきだしになり、いささか中性的な容貌が、さらに少女めいた雰囲気となった。閉じられて今は見えない切れ長の瞳もまた髪と同様で濃い栗色で、顎の線が細く、身体にはまだ成年になりきっていない不均衡さがあり、芯の細さを感じる。噂では彼の母親もまた妖艶な美女であるとのことだが、本国にいるその女性を見たことは、無論バインセアはない。

 なかばは無意識の内であろう、寝台の中、ハデスはかすかに身じろぎをし、いぶかしげにうっすらと眼を開けた。

「……失礼をいたしました殿下」

 ささやくバインセア。

 焦点の定まらぬ瞳が、安心したようにまたゆっくりと眠りの泉に沈んでいく。

 いまだ完全に幼年期の殻を脱ぎ去りきっていない様相のこの少年が、バインセアの情交の相手であった。

 昂ぶりは彼女の中では、今はもうかすかな余韻をのこすのみだ。それは今寝台の中で、静かな寝息をたてている彼とのさきほどまでの交歓のはてに、身体の内に生じた幻影だと彼女は知覚している。自分にそのようなことがおきるとは、推定の外であった。

 およそ白日の下ではとりえない淫らで無防備な姿となり、息をきらせながらあのような不思議な荒々しさでもって女の肢体を組み敷くことに悦びを感じる……彼女にとっては理解しがたい情熱である。正直云って、大変なことであろうと考える。

 またそのような行為に夢中となる男を、おもしろいものだとも思うし、滑稽なものだとも考える。いやまったく……男と女の交合など、何とえげつなく、実に無駄な労力を要求されるものであり、失笑をさそわれるものであろうか。

 その時、時鐘を告げる捨て鐘が鳴り――間をおいて三点鐘が響く。都は夜から朝へと移り変わりをはじめるだろう。

 バインセアは身体をおこすと、ハデスを眼ざめさせないようにそっと寝台から抜けでる。息がかすかに冷ややかであり、まだ冬の殻を脱ぎ去りきっていないことを感じさせる。

 常夜灯になめらかに照らされた素肌に肌着をまとい腰紐を軽くしめる。脚元は裸足である。

 いまだ幼さをのこした長身の細い肢体であるが、俗に「一度交歓すれば離れがたきイオ女の肌」などとその艶冶さを謳われる、きめの細かいイオ人特有のやや褐色がかった、なめらかな乳白色の肌を彼女も持つ。顔立ちは、これもイオ人らしい切れ長の眼、そして小さな唇や細い鼻まですべて小振りな造作で、細い首はすらりと長い。豊かな黒髪を両側でゆるく編みあげると、うなじや頬にしとやかに流れている後れ毛を、無意識に小指でかきあげる。その立ち姿は一本の若木のような清らかさであった。

 郷士館の一隅である彼女の部屋は、塗りっぱなしの漆喰の壁にはところどころひびが入り、床も扉も窓も天井板もずいぶんと年季のいったものであった。寝台の他には小さな机がひとつしつらえられているだけで、あとは彼女が郷里よりともに旅をしてきた、わずかな衣類が納められた行李が隅に置かれているだけだった。書籍の類はひとつもない。一度眼を通してきた書物はことごとくそらんじているから、所持する必要はない。

 各国や国内所領からのホントの滞住者たちは、気位の高い都びとから田舎者、蛮族などと軽んぜられてきた過去がある。彼らは必然的に徒党を組み、衆となり対抗する必要性にせまられ、商人や留学生、旅行者などの相互の扶助を目的として同郷人によって建造、運営されているのが郷士館である。

 公式の大使館とは違い香都内に無数にあり、イオだけでも五つの地方の郷士館が点在する。商人が香都での手形の処理の助言や情報の収集、巡礼者への支援などその運営は多岐にわたるが、さすがにバインセアほどに歳若い女が出入りするのはめずらしい。

 彼女の在都はいささか特殊な事例である。

 バインセアは、吹けば飛ぶようなイオの貧しい小土豪の末子として産まれた。とりあえずは衣食にこまらぬが、裕福ではない。本来ならば満足な教育など望むべくもないはずであった

 五人の姉は無論のこと、跡取りである長兄ですら、ろくすっぽ見向きもしなかった、田舎者にしてはめずらしい学問好きの父が収集した書籍に興を示したのは彼女だけであった。さほど多くはないが、父ですら眼を通しきっていないすべての書籍を読了したのは、バインセアが七歳になるはるか前のことである。父の書斎の片隅の薄暗がりの中で、それらはすべて彼女の中に収められ、知識となった。それが彼女の原点であった。

 そのころの彼女は、歳のわりにやたらと背が高く、手も脚も小枝のように細く、眼ばかりが大きくめったに笑うことがなかった。周囲の者は常に書籍を手から離そうとしなかった彼女を、おそろしく変わった子だと首をかしげていた。

 しかし彼女の端正な風貌に包まれた小さな脳蓋は、誰も知覚をすることすらできない無限の書棚であり、埋めつくそうとする欲望はとめどがなかった。そしてその広漠たる知の平野に幼い脚を踏みだしたときですら、彼女の心は午後の散歩にでも出かけるほどの恐れも感じてはなかった。

 はじめは郷里の私塾で、つづいていくつかの大きな街の、最終的にはイオの都アンドレードで機会を得、尋常ならざる学才をみとめられたバインセアは、土地の領主から特別な援助を受け、ついに帝国の碩学の中枢たるレーヴルへ留学するを得た。彼女の親族にしても郷土の者にしても、信じがたいことである。

 そして今、ホントに隣接する学都レーヴル留学のため、入学許可を郷士館で待っている状況なのである。この郷士館長が彼女の伯父にあたるため、特別に長期にわたる館内での宿泊を許されている。

 しかし入都から半年もたつのに、いまだに正式な入校許可がおりないのは不可解なことであった。

 彼女の出身地はカスバル。ふたつの大陸でもっとも美しいと謳われるクロァ湖をはさんで、西にイーステジアをのぞむイオ最西端の地であり、現在は王弟領となる。その長子が、すなわちハデスであった。

 王族ゆえに若年にしてすでにホントの公使という大任にあるため、香都内の郷士館との付き合いはたびたびのことであった。その中で身分も立場も違う歳の同じ両者に、いつかむすびつきが生まれていたのであった。

 机上の壺から酒盃に水で割った薄いシドラ酒をそそぐ。肩ごしにハデスの寝息を聞く。わずかの乱れもみとめられないのを感じた。

 引き出しから小さな油紙の包みを取り出した、薬包である。音をたてないように慎重に開くと、中にやや茶色がかった白い粉末が少量入っていた。バインセアはそれを冷ややかなに見下ろす。

 再びバインセアに揺らされたハデスは、まだ早いと、寝ぼけて掛布にくるまりなおし文句を云った。

「お起きください殿下、三点鐘が鳴りました。大使館へ帰らねばなりません」

「いやだ……帰らない」

 寝台に横たわり、眼も開けずにいらだたしげに腕を振って拒絶する。寝起きの悪さはいつもと変わらぬ。バインセアは寝台の端に腰を下ろすと、手にした酒盃からひとくちふくむ。そしてハデスにおおいかぶさると、唇をかさねた。

「……んっ!」

 慌てて跳ねおきた。激しく咳きこむ。口の端からもれた酒精を、手の甲でぬぐった。

「バインセア!」

 まだ焦点はあっていなかったが、ようやく眼は開いていた。

「悪いのは殿下でございます。幼子でもあるまい、なぜ一度でおきられませぬか?」

「そうじゃない。朝から酒など呑むなと、何度云えばわかるのだ」

 王子の小言も、少女はまるで気にしなかった。

「お話がございます殿下」

「何を……」

 するりと彼女の身体が離れた。ハデスがそれを眼で追う。

「お話があります」

 強い語気で同じ言葉を繰りかえした。

「……何だ?」

 いぶかしげに訊ねる。寝台で裸の上半身をおこしたまま、バインセアを見上げる。薄い肌着のみをまとった彼女は部屋の中央に立ち、意外に濃い翳を半身におとしていた。その表情も半分しか彼にさらしていないようである。

「三日後、私はレーヴルへ赴きます」

 バインセアの言葉は明瞭で簡潔であった。

「入学の許可がおりたのか?」

 わずかに顔を強張らせ、ハデスが訊ねる。バインセアはうなずき、言葉をつづける。

「ゆえに、殿下との間柄も今宵で終わりにしとうございます」

「……どういうことだ?」

「殿下――」バインセアは嫣然と微笑んだ。「私は私の往くべき道を往きます。殿下はご自身の道をお進みくださいませ、それだけのことでございます」

 冷ややかではなかったが、彼女の訣別の言葉はあまりに淡々としすぎ、素っ気なかった。ハデスにはそれが不満であった。

「勝手なことを云うな、私はみとめないぞ、そのような……」

 しかしバインセアの云い分は、しごく当然のことである。彼女が去れば、関係は終わる――当たり前のことである。納得づくであったはずだ。しかしそれでも、やすやすと諾とはしがたい。

 ハデス自身、郷士館に仮寓している少女との関係が、いつまでもつづくものだと考えてはいなかったが、それでもその終わりがおとずれた時、もっと情の深いやりとりがあるものだと思っていた。

「なぜ……なぜそこまでして学を修めなければならないのだ?」未練がましい云い分である。「お前は女ではないか。たとえどんなに学を積んでも、官職にありつけるわけでもない。故郷で習ったことで充分ではないか?」

 彼女にとって、彼の未熟で自分勝手な理屈はこまったものであるが、しかしさほど不快なものではない。これまでも親族や周囲の無能な者たちに、さんざん云われてきたことであり、耳にたこができる段階はとうにすぎ、今やもう意識にとどまりもしない。ただやれやれと思うだけだ。もっとも彼以外の者が無神経にそのようなことを口にすれば、容赦はしない。このあたり、ハデスには甘いのだ。

 バインセアは机上の酒盃を取りあげ、手渡した。

 薄めたシドラ酒であったが、ハデスはさほど強くない。ほんのたしなむ程度である。それにひきかえ、バインセアの酒は底がない。水のかわりに口にする。彼女の傍らかには常に酒盃があるようだ。しかも呑んで明晰な頭脳が乱れることもない。その反対に、彼女が食物を口にしていることを、ハデスは見たことはない。そもそも食するという行為そのものを、不合理で不毛なものと考えている節すらある。

 しかしだからと云って、朝も明けきらぬうちから、それも十五の少女が呑むものなのかとハデスはいつも感じる。あらゆる意味で常人離れしたところのあるこの少女の、一番得体のしれない部分だ。

「殿下、私は二度と故郷へ――カスバルへもどるつもりはございません」

 部屋の中央に立ったまま、おだやかにつづけるバインセアの言葉に、ハデスは驚く。

「私は生涯をレーヴルにて窮理に費やすつもりでございます。そのつもりで故郷は捨ててまいりました」

「実家はどうする、知っているのか?」

「いいえ。戻れば、父は姉たちと同様に私を、いずこかへ嫁がせるでしょう」

 王家や公家などとは事情は異なるだろうが、彼女もまた年ごろとなれば父の思惑に従い、近隣の土豪の跡継ぎや役人へ嫁すこととなるのは必定であろう。

「貧乏な土豪の家とはいえ、それなりの家格の適当な相手など、いくらでもおります。私はその誰かをあてがわれるでしょう。夫となるべき者は、温厚で誠実な人柄かもしれません。私は誰かの妻となり、家を差配することになり、子を産み、育て、両親がそうであったように、娘を嫁がせ、あるいは息子に嫁を迎え、私たちが護ってきた家を次の代に受け継がせ、やがて歳老いていき……」

 語るバインセアの顔はいつもと変わりなく冷静で、事実を淡々と羅列し、まるで自分のことを口にしているようにすら思えない。

「おだやかな一生、女の喜び。人はそれをまろやかで健やかな生き方だと思うかもしれません……でも私はそのようなもの、少しもほしくはありません」

 直立した彼女は、あたかも宣託をくだす巫女のようであった。

「古の賢人たちの思想、先人たちの法理、人の身体の構造や療法、天体の運行、世界中に存在する神秘……私は故郷で、アンドレードで、多くを学んできました。そこで得られるものは、おそらくほとんど手にしたと考えています……でもまだ足りない。私が得たものなどは、この世界を構築するそのほんの一部、産毛の先ほどにもすぎないのです。だから私は、もっともっと知りたい。この世の何もかも……それらを探求することにくらべたら、世界の秘密を読み解く法悦にくらべたら、女の喜びなど昼間の星のごとくにとるに足りないのです」

 濡れたように黒々とした双眸はまっすぐにハデスを見おろし、みじんも揺らごうとしなかった。少女の表情や言葉に侵しがたい力があり、それがハデスを圧倒していた。狭く薄暗い部屋は、彼女の背後に無限の広がりがあるように感じた。

「……私との関係もそうであったのか?とるに足らぬ、つまらぬものにすぎなかったのか?」

 はるか彼方にいるような彼女をつなぎとめようとして、無駄な努力をしていると感じながら、ハデスの言葉は恨みがましいものであった。

 バインセアは寝台の傍らに跪くと、彼の手をおのれの掌でつつみこんだ。少女の手は指が長くしなやかで、そして少しだけひんやりとしていた。ハデスは意識せずに、指をからめていた。

「マールが、数日後には帰国する……そしてバインセア、お前までいなくなるのか?」

 ハデスの言葉はおだやかではあった。だが視線には貫きとおすほどに力があった。バインセアはハデスの手をそっと持ち上げ、淡やかに紅唇を触れた。

「お赦しください、私は往きます。殿下、どのみち私はいつまでもお傍にいられるわけではございません。立場が違います。どうか窮理に狂った愚かな女のことなどお忘れください」

 何でもない。ただ事実だけを淡々と伝える。ただそれだけなのに、自分の言葉のどこかに得体の知れない強張りを感じた。それが不思議だった。もっと上手に微笑むことができたならば、もう少しだけでも彼を傷つけずにすんだだろうにと思いながら。


 わずかに開いた窓から、少しづつ夜気が忍びこむ。バインセアはその隙間から、眼を細めて香都の街並みを見おろす。まだまだ薄暗いが、先ほどの三点鐘から街は少しずつ眼をさましつつある気配を感じた。

 春を司どる女神エリオの逍遥が間もなくはじまり、そのはずむような脚下から花の香りが芳しく広がるであろう。

 夜の気配はひと呼吸ごとに薄らいでいくようである。夜明けをむかえつつある空に、いくつもの星がまたたいていた。たわむれに右端から順番に、星の名を並べていく。よどみなく、たちまち春の天球図が脳蓋の内側に描かれていた。わずかの遅滞もない。ハデスとの交情が、自身の頭脳に何ら影響をあたえていないことに安堵と満足をする。

 屋内に、彼女はひとりであった。

 先刻、長い逡巡のすえ、やがて少年は立ちあがり、無言で身づくろいをすませると退室していったのだ。

 窓下の小路で立ち止まった少年が、二階の彼女の部屋を凝視していたが、それはわずかな時であった。ハデスの影は明け方の街に溶けこみ、失せた。

 それは彼女には理解できない強さであるように思えた。扉で抱きすくめられた感触が、彼の質量とともに身体にのこっている。もう二度と会うことはかなうまいと考えた。

 寝台に腰をかける。指先にとっくに失せたはずの少年の温もりを感じた。錯覚であろう。この寝台の上で、自分はあの少年と何度も身体を重ねた。深奥からもれ出た自分の声の熱さは、考えるだに不思議なものであった。どうやら世の中は、まだまだ自分の理解できない事象があふれているらしい。

 これからの数日のことについて思考する。いや、それはとっくに終えており、今やっているのは手順をなぞるだけである。普段はそのような不合理なことはしないはずなのに、まったく今日の自分はどうかしていると、バインセアは考える。


(つづく)

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