第1話 「禿頭公子の冒濫」(1)

 凄と雪が迫る。

 吠と夜が哭く。

 哮と陰が猛る。

 艶と暗が澄む。

 茫と闇がたゆたう。

 冬神オリオナエの騎行は今夜もやまない。何もかも凍てつかせ、この世のすべてのわずかな温もりすらも呑みこむ、深く底の知れない濃密な冬である。身も心も凍えさせる北国カイネウスの冬は、年があけてもなお三月はつづく。

 新年とともに春の気配が匂いだすと伝えられる南のベルセーヌ大陸や、温暖な半島の薫り貴き花の都ホントの情景など、世界を封じこめてしまうこの重く暗い冬に慣れた者には想像もつかない。あるのだとすれば、それはおそらく別天地だ。幻想の国だ。

 カイネウスの本貫地オルニアの中枢たるバンドンの居館の東宮もまた、冴えきった夜気につつまれている。居館より回廊をめぐった浴室の厚い石の壁をとおしても、冬の気配はダゴンに届いてくる。

 うす暗い浴室内は向かいの壁が見えないほどに、高温の湯気が充満していた。カイネウス風の蒸し風呂は、熱い湯につかるぐらいでは容易にやりすごせない北国に住む者にとって、何よりの馳走である。市内には無数の大衆浴場が軒をきそい、分限者たちは屋敷内に設け、さまざまな趣向をこらして楽しみ、冬の長夜をしのぐ。

 これ以上ないぐらいに芯まで焼けた石を浴室内の一隅に配し、これに冷水をかけると、すさまじい勢いでもうもうと湯気がわきあがり室内を満たす。湿めった暑熱の中、熱気が身体中にからみつき、身体の内側に入りこむと総身からはたちまち汗が吹き出、耐えがたい暑さとなる。

 東宮に設けられたこの浴室は、天井も高く何室にも区切られている。それだけの広い浴室すべてを満たしているのだから、その湯気がいかに猛烈なものであるか知れるだろう。

 宮の主であるダゴンは、腰巻に草履だけを身にまとっただけの格好で、これも熱気で熱くなった長椅子に、深くうつむき座している。

 奇相である。美男ではない。むしろ醜男のたぐいであると云ってよい。

 眉が太く、鼻も口も顎も、無造作に大きく太い。額は張り出し、はたで見るとむしろ眠た気にも見えるその眼采は、のぼせ上がるような湯気の中でも太い眉の下の奥深くで、炯々として倦んだところを知らぬ。

 そして何よりその容貌を怪異なものにしているのが、見事な禿頭であった。見たところ三十の半ばのころに見えるダゴンだが、実の歳はまだ三十にふたつ間がある。だがそのような歳でもないのに、頭部にはわずかな頭髪もみとめられない。おぼろげに湯気にゆれる灯明にぼんやりと照らされて光沢を放つダゴンの頭は、本来ならば隠されているはずの人間の頭骨の生粋の形を、露骨にさらけだした素の荒々しさがそこにはある。

 まさに奇相であった。

 さらには肩幅も広い。胸板も厚く、腰も腿も腕も、何もかも大振りで、いかつい相貌に見合うたくましい体躯である。

 肌はゆでられたように赤く火照り、熱気が身体にもまといつき、玉のような汗が吹きだしている。うつむいた鼻から額から顎から、ひっきりなしにしたたっていた。

 湯気に飽きると彼は、別室に設えられた水浴槽に身をひたし、あるいは長寝台に横になり、整体師に身体をゆだねる。ただし婦人のように、香油をもみこむようなまねは好まない。そんな風に一刻もの間、浴室ですごすことも彼はある。整体師や熱した石を補充するために従者入ってくる他は、ここでは独りである。

 それが、カイネウスの公子ダゴンであった。

 壁の鈴が鳴る。重いくぐり戸が開き、ナボコフが入ってくる。一瞬、外の冷気が湯気を乱す。ダゴンに劣らず巨躯のナボコフがそばに立つ。亜麻色の髪を武人らしく短く刈り上げ、顎も鼻も大ぶりでいかつい。

「外とはえらい違いでございますな」

「何だ?」

 顔も上げずに、ダゴンが問う。

「至急の報告がございます、殿下」

 無骨なナボコフの額からは、早くも額にうっすらと汗が噴きだしはじめているが、盆帳面なこの男は、何度云っても自ら浴室に入ってくる。

「香都よりの報です。皇帝の病はいよいよ篤いとのことです。この冬はもたないかもしれません」

「そんなに悪いのか?」

「まもなく九十です。ご高齢ですゆえ」

「ふん、九十か。あのご老人、よく生きたものだが……老樹は今枯れなん……か」 つぶやきつつ、ダゴンの眼が深く沈んでいく。

「……首のすげかえは?」

「さほど大波はたたぬでしょう」

「次は決まっているが、周りの連中の欲深さは底がない。何しろあの方は六十年もあの座におられたのだからな。大きく変わるかもしれん。我が国はじまって以来、初めての皇帝陛下の代替わりだ」

「見えないところでは、すでにはじまっているかもしれませぬ」

「詳細がわからぬと、後手に回る破目になるな。ごたごたが起きれば、ホントの駐大使だけではさばききれぬだろう」

「弔問の特使をたてることになると思います」

「冬の終わらぬうちだと、こんな北国ではそれもままならぬ。きめ細かい報せがほしい。引きつづいて報告を絶えさせるな」

「かしこまりました」

 ダゴンはうなずきつつ、少し考えると訊ねる。

「父はこのことは?」

「おそらくは同様に、密偵から報告がいくと思われますが……」

「どちらが早い?」

「殿下です。皇帝陛下の病態は秘匿されておりますので、皇宮内の限られた者しか知りません。この報は侍従の一人の愛妾から得たものです。公がそれ以上の網を持っているとは思えません」

「ふん……」ダゴンがおかしそうに「そういった類の話にかぎって、もれるものだ。特に都すずめどもは耳が早い。ばかにできんぞ。うかうかとそちらからの噂話の方が早いかもしれんな」

「まさか?」

「さて、どうだろうか?いずれにしろ、知れるのは時間の問題だな……」

 そう云うと、ダゴンは眼を閉じる。膝の上の掌が、いつの間にか固く握られている。ナボコフは顔中、汗を噴き出させたまま、ぬぐいもせずに次の言葉を待っている。かすかに風の音が聞こえる。

 沈黙の時間は、さほど長くなかった。

「ナボコフ」眼を閉じたまま「春までは、待てん。サダナと、急ぎつなぎを取れ」

「承知しております。さきほど数日のうちには到着するとの報せがございました」


 ナボコフが退去し、再び浴室内に沈黙が満たされた。壁にもたれ、眼を閉じる。そのまま深い沈思に入った。

 長い時間、禿頭の公子はそうしていたが、いくらこの浴室内での沈思を好むダゴンでも、我慢ができないほどに身体は熱くなってきた。長椅子から立ちあがると、壁にしつらえられた小窓を上げる。途端に猛烈な寒気が、夜気とともに流れこんでくる。大雪におおわれた大地はむしろ雪明りでぼんやりとほの白く、空の闇の方が濃い。火照った顔に寒気をしばし浴びた。

 小窓を閉じかけて、ふと手が止まる。表情が険しくなり、深い瞳が重みを増す。彼の感覚のどこかが、何かを感じとった。しいて云えば、闇の中より濃い闇が何かを秘匿するかのようにうごめいているような感覚だ。しかしそれは一瞬のことで、闇はすぐ元の闇にもどった。

 窓を閉じると、今のおのれの感覚が何であったのか、しばし考えをめぐらせる。今度は戸口に向かい、のぞき窓から外の回廊に眼をはしらせる。こちらからは何も感じない。引き綱を引くが、しばらくたっても控えているはずの従者は誰も駆けつけてこない。そばの伝声管に口を近づけ従者の名を呼ぶが、応えはない。沈黙だけが返ってきた。再度のぞき窓を使う。今度ははっきりとわかった。抜き身を手にした男たちが、無言で駆けよってくるが見える。もちろんダゴンの従者たちではない。

 曲者たちは瞬く間にダゴンの浴室へと肉薄してきた。ダゴンはくぐり戸にすばやく鍵をかけるが、男たちは開かないと知ると、腰の手斧を振るって厚い戸板を打ち割った。

 曲者たちが浴室へ乱入する。

 無言で襲いかかった刃を、ダゴンはかろうじて水浴用の手桶で防ぐ。一撃で使い物にならなくなるが、ダゴンが奥室へと身をひるがえすための、わずかな時間はかせいだ。

 奥室の入り口でダゴンは振りかえる。狭い浴室内であることを慮ってのことだろう、入ってきた曲者はふたりだった。もうひとりはくぐり戸を塞いでいる。三名ともに抜剣しており、無駄に口を開くようなことはしない。研ぎ澄まされた刃のように、ただ剣呑である。彼らの狙いは明白である。

 ひたひたと身にせまる危機を感じつつ、ダゴンは考える。

 暗殺者たちは、見たところ少勢である。浴室外では剣戟の気配もせぬし、男たちは動きやすい軽装で、かたびらも身につけていない。外套も着ていないのは、おそらく脱ぎ捨てたのであろうが、彼が入浴する時を見計らい、易々と侵入をはたしたところをみると、宮内に内通した者がいるのだろう。ダゴンはそう推測して顔をしかめた。

 恐れることなく暗殺者たちを凝視するダゴンが身につけているのは、わずかに腰巻だけ。短刀一本、忍ばせることもできない。公子ダゴンといえば剣客としても知られているが、こうなってしまっては何もできない。

 湯気の中、男たちはダゴンが完全な無手であることを確信し、うっすらと汗をかきつつ初めて余裕の笑みを見せている。暗殺者が、うかつと云えばうかつだが、しかたもない。しかたがないが、それは油断であった。ダゴンの右腕が、奥室の入り口付近の壁にのびる。わずかな音を、彼らは何ととらえただろう。

 隠し戸の中の木剣をつかむ。同時にダゴンの裸体が、浴室の床を蹴り水しぶきをあげて疾駆する。

「……お?」

 男たちに驚愕がはしる。無手であったはずの彼の手の中に、突如そのような武器が出現するとは、考えもしなかった

 瞬時に間合いをつめたひと呼吸で、たちまちひとりが打ち倒される。骨が折れる感触を置き去りにしつつ、のこったひとりにせまる。その男はわずかな間で体勢を整え、地をはうような一撃をダゴンの胴にはなったが、気合とともに繰りだされた一撃よりさらに迅く、木剣は暗殺者の右腕を砕き、脳天を打ち割った。

 ほんの数拍の狼狽の後、くぐり戸に備えた暗殺者は手にした剣を構えなおす。ダゴンの手の中の凶器が木剣とわかると、真剣の優位は動かない。

 戸口は塞がれている。ダゴンも容易には動けなくなった。わずかにダゴンの眼に焦燥が浮かぶのを見てとり、暗殺者は半歩踏みだし巧みに間合いをつめる。

 その身体が不意に雷にうたれたかのように硬直をし、そのままうつぶせに崩れ落ちた。うめき声をあげてもがくその身体には背に深々と槍が刺さっており、暗殺者を打ち倒した勢いのままに、いまだ揺れていた。

「殿下――ご無事ですか?」

 回廊から投擲したナボコフが駆けよってくる。室外が急に騒がしくなったように感じた。

「いい腕だ、助かったぞナボコフ」

 壊れたくぐり戸からナボコフが身体をねじこんできた。

「お怪我は?」

「ない。二名は生きている。捕らえよ」命じ、訊ねる。「外の様子は?」

「外には五名。三名は斬りましたが、のこりはドーレが捕らえています。当直の従者は――殺害されていました」

「あわせて八名じゃ……」

「まさか、ここまでするとは……」

「入浴中を狙うとはな、よく考えている」

 ナボコフが怒りの表情をうかべるが、ダゴンはむしろ白けたような顔をしていた。腰巻だけの裸のまま、室外に出る。ナボコフが慌てて浴衣をはおらせる。

 普段は人気もなく静まりかえっている回廊は、今宵ばかりは灯明にあふれ、押し殺した喧騒に満ちている。斬り殺された暗殺者の屍が無造作に転がり、石畳は朱に染まっている。警護兵が後始末にかかっていた。

「宮の従僕が一名、行方が知れないようです。彼の者が手引きをした可能性が高いと思われます」

「こいつら、手際がよいな」

 闇の中、宮中にまで押しこみ、たちまち従者を殺害して自分にせまってきた迅速さを憶いだし、肝が冷えるのを感じた。用心のために常備しておいた木剣が役にたつ日がこようとは、実際のところダゴン自身もそこまで真剣には考えていなかった。隙をついた反撃に斃れたが、連中は手練であった。尋常に手合わせをすれば、容易に敗けるとは思わないが、容易な相手ではなかった。

「殿下!よくぞご無事で!」

 黒髪の長身の若者が駆けよってきた。東宮の警備を任されているドーレだ。端正な顔が蒼い。

「申し訳ございません。私の不手際でございます。まさかこのような連中が……」

「あやうく首だけになるところだったぞ」ダゴンの言葉に、ドーレはさらに恐縮する。「私が首だけになれば、箱にでも入れておけばよいから、警備は楽だぞ」

「おたわむれを」

 云ったダゴン本人は冗談のつもりだが、ドーレは顔色を変える。しかし仕えるようになって十年も経とうというのに、いつまでたってもこの者はそのあたりの呼吸を呑みこめず右往左往する。それがおもしろくて、わざとやっているのではなどとナボコフは考える。

「捕らえた者は?」

 ナボコフが訊ねる。

「捕縛して回廊に置いております。至急、尋問して背後関係を洗います」

「どれ、その不敵な面でも見てやろう」

 ダゴンがうっすらと笑う。

「殿下――!」

「わかっておる、気をつける。宮にまで押し入るほどの連中だ。油断はせぬよ」

「いえ、そうではなく……」ドーレが躊躇する。「彼奴ら……あのような真似、誰の命でしたのか……」

「見当はついておろう?そう気をつかうな」

そう云うと回廊へと脚を向ける。

「百人長殿……」

 ドーレが不安そうにナボコフの表情をうかがう。ナボコフは硬い表情でうなずくと、やや遅れてダゴンの後を追う。ドーレもすぐに追いつく。

「あの連中、心得があって当然だが、どこぞの雇われ犬か、それとも……」とナボコフ。ドーレの逡巡を無視して問う。「連中の面がまえ、お主は見たことがあるか?」

「いえ」

「私もだ。ならば近隣の兵ではなかろうし、まさかそんな連中を使うとも思えないな」

「正規兵?まさか?」

「半々よ。兵を使ったとしたら、北の辺境の警備隊だろうな。南方の連中は南征や中央と入れ替えがあるから、顔を見知られる恐れがある。その点、北は土豪連中の雇い兵が多いから、俺たちにはまるでわからん。使うのならそちらだな。雇われだとしたら、簡単に口を割ってくれぬかもしれぬな」


 回廊のところどころに不安げにたむろしている警備兵が、ダゴンたちに道を開ける。すさまじい冷気が吹きこんでくる内庭へ開けた一角に、暗殺者の生き残りの二名が捕縛されたまま床に座らされていた。警備兵が周囲を囲っている。

 いつの間にか再び雪が落ちはじめていた。慌てて外套をまとわせようとするドーレをさえぎる。

 暗殺者たちは顔を上げて、はたして理解しているのかはわからないが、自分たちがひそかに葬るはずだった男の顔を無表情に凝視する。

 暗殺者の視線から公子をさえぎるように、ナボコフが一歩前に出た。

「さて……貴様らにはまことに残念な結果となったようだ。このようなことを仕出かすのだから、これからどのようなことが待っているか、想像できないほど愚かではあるまい?今のうちに話をしていただければ、こちらもそちらも手間がはぶける。訊きたいことは貴様らはどこの誰か、なぜ殿下を襲おうとしたか、そしてこれが一番肝心なところだが、一体誰に頼まれたのかのみっつだ。どうする?」

 ナボコフは言葉を切る。

「そしてもちろんわかっていると思うが、話さなければ殺す。浴室に押し入った三名の内、二名は生きている。貴様らが話さないのであれば、その連中に訊く。連中が話しても貴様らが話さなければ、やはり殺す。ついでに云うが、素直に話せば貴様らが得る報酬の倍を準備しよう」

 暗殺者のひとりが、かすかに頬を引きつらせた。金でつろうとしたナボコフの言葉に蔑笑したのであろうか。ナボコフも苦笑する。元より簡単に口を割るとは思っていない。

「予想通りですな。ではあきらめて身体にうかがうことにするか――」

 うなずき片手をあげて警備兵をまねこうとしたドーレを、ダゴンが制した。腰布一枚の姿でふたりの前に立つと、静かに見下ろす。暗殺者の表情がわずかにたじろぐ。彼らがダゴンの顔を見知っていたかどうかは別として、国中の誰もが知っているカイネウスの公子の禿頭を見誤るはずはないだろう。何よりこの東宮にて、主人然とすることができる者は他にいない。

「私が公子ダゴンだ。貴様らに殺されるはずだった者だ」静かにダゴンが問いかける。「結論から云うと、貴様らに暗殺を命じた者を知りたい。知りたいが、無理に話す必要はない。だいたいの見当はついているからだ。しかしできることなら云ってもらいたい。私たちもその方がきわめて話が早くすむし、楽だからだ」

 淡々と語りかけるダゴン。二名の暗殺者のうち一名は、眼を閉じたまま動かない。もう一名は言葉に圧せられるように、徐々に顔を伏せていく。雪が降りこみ、ダゴンのたくましい上半身にまとわりつくが、微塵も忖度しない。太い眉の奥の瞳がどのような色を浮かべているのか、光の加減でわからない。

 ゆっくりと十を数えるほどの痛いほどの沈黙を、雪の静けさとともに使いはたしてしまうと、ダゴンは無言で警備兵に手を伸ばす。兵ははっとドーレを見やる。ドーレは苦虫を噛みつぶしたような表情で渋々うなずいた。恐る恐る渡された剣を、鞘からはらう。刀身が灯明にきらめき冷気に冴え、その冷気が暗殺者にも伝わり、ふたりはかすかに身じろぎをした。

 次の瞬間――ダゴンは微塵の躊躇なく、ひとりの首を刎ねとばしていた。

「ひ――――!?」

 首は血潮を吹きながら、顔を伏せていた暗殺者の膝の上に転がり、男の喉から初めてひきつったような声があがった。首を失った胴体の方はゆらりと揺れると、前のめりに倒れ、どくどくと粘っこい鮮血を石畳に広げていく。胴と離れた首は、不満げにもうひとりの暗殺者を見あげていた。あわてて身体をゆすって離れようとしたが、警備兵は彼を押さえつけて逃がさない。

「どうした。これぐらいは覚悟の上であろう?」

 冷たくダゴンがささやく。低くささやくようであるが、どのような時でも彼が口を開けば、誰の耳にでもその声はとどく。その時もあたりの警備の者は、誰もがダゴンの言葉を耳にした。それはむしろ、暗殺者よりも周囲の者の肝を冷やすような声だった。

「待ってく……」

「見苦しい」酷薄に冷笑しつつ、鮮血に染まったままの剣をゆっくりと構えなおす。「貴様、つまらんな。話はのこりの連中に訊くことにしよう」

「殿下!」ナボコフが吼えた。誰もが飛び上がるような大喝だった。「処刑執行人の役目をはたすおつもりですか!」

 ダゴンが動きを止め、肩ごしに見やる。

「邪魔をするな、ナボコフ」

「こやつの生爪をはがし、皮を剥き、骨を折るのは我らが役目。殿下がお手を汚されては、立場がございませぬ」ナボコフが答え、暗殺者に向かって「貴様、話すつもりがないのなら、舌でも噛んで自分で死ね。殿下や我々の手をわずらわせるな!」

 冷酷なダゴンと圧するようなナボコフに視線を受けて、暗殺者は呆けたようであった。

 しばしの沈黙の後、暗殺者は「……話す」と弱々しげにうめいた。ドーレが腕を振って、周囲の警備兵をその場から離れさせた。

「申せ。命は約束するぞ」

 ナボコフとドーレが膝をおり、耳をよせる。ダゴンは鞘に戻した刀を戦杖のように立て、その様を冷ややかに見おろす。

 捕縛されたままの暗殺者は、低くいくつかの言葉をもらす。あるいは人名を、あるいは地名を。訊ねたナボコフとドーレは、ちらりとお互いを見やった。

「偽りはあるまいな?わかっていると思うが、片言でも偽りがあれば結果は同じことだぞ」

 念をおすドーレに、弱々しくうなずく。

「殿下――」

 ナボコフが振り仰ぐ。

「褒美をくれてやれ」

「……御意」

 うなずくとナボコフが、抜く手も見せずに一刀の下に暗殺者を斬りさげた。鮮血が庭にまでほとばしり、白雪を朱に染める。暗殺者は自分の肩から吹き出る血を、ありえないものを見るように凝視していたが、不意に顔がゆがみ眼から力が失われ、そのまま前のめりに倒れ動かなくなった。

「殿下!」

 眼をむいたドーレの肩を、ナボコフがつかんだ。

「この者を証人として生かしておけば――」

「その必要はない」ダゴンが静かに言葉をさえぎる。「知らぬ存ぜぬで押し通されて終わりだ」

 その時、警備兵が走りより、ドーレに何やら耳打ちをした。愕然とした表情になる。

「殿下が撃ちたおしました二名、どうやら撃ち所が悪かったようです。絶命いたしたそうです」

「お主らがくびり殺したのではあるまいな!」

 ナボコフが伝達した兵を威嚇するように吼える。本人は冗談のつもりだが、警備兵は蒼くなった。

「ナボコフ殿、物騒なことを云ってもらっては困ります」

 ドーレが生真面目に反論する。

「すまん、冗談だ」大きな掌を振って「少々力が入りすぎましたかな、殿下。怪我だけ負わせたつもりが致命傷ですか?修行が足りませんぞ」

「首をとられかけて震えておったのよ。いらん力も入るというものだ」ダゴンは苦笑する。「ははは、ナボコフこれで本当に誰もいなくなってしまったな」

「いかがされますか?」

 渋面のドーレが問う。

「しれたことよ」愉快そうに笑う。「カイネウスの第一位継承者の命が狙われたのだぞ。司法官に使いを出せ。侵入した賊は全員が斬り死に、手引きした従僕を至急手配するように――とな」

「……殿下」

「無論、カイネウス公にもお知らせせねばならぬだろう。息子が暗殺されたという凶報でなくて、さぞ安堵されるだろう」

 腰巻に浴衣をまとったまま回廊の外に出ると、壁のように振り積もった雪を掌にひとすくいし、つるりとほてった顔と禿頭をぬぐう。凄惨な笑みであった。どのような感情の作用であろうか、その身体は紅潮し、降りしきる雪すらもその身にまとわりつくことがなかった。


(つづく)

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