東の国の狼憑き

納人拓也

少女と亜人の物語

0 交易都市エルクラット

 着替え終わって萌木色のカーテンを上げれば、朝日がし込む。眼前に広がるのは大都市。窓を開ければ、目の前の通りでは既に朝市が始まっていた。

 朝のパンの焼ける匂いを乗せた風が少女の灰と桃色に分かれた不思議な髪を優しく撫で、朝日は張りのある肌を柔らかく照らしている。体を解すよう伸びをしては、少し喉から声が漏れた。


「んー……いい天気」


 誰に言う訳でもそう呟いて、朝日に向かい少女は微笑んだ。仕度を済ませると鏡を見る。薄紅色のシャツに茶色のベスト、くるりとその場で回り白のスカートを揺らしながら身嗜みだしなみを整える。こちらも髪と同じく桃色の瞳が、その姿をしっかりと映していた。


「……よしっ!」


 気持ちに張りを入れるよう鏡の自分に笑みを向け、少女はドアを開けた。



 ――巨大交易都市、エルクラット。


 その名はどこへ行こうとも必ず誰かが囁き、そして、必ず誰かがこう言った。


 ――あの町は怪物の住む都市だ。


 そんな話を、誰かが囁いていた。




「おはようございまーす!」


 宿の階段を軽い足取りで降りて来た少女の明るい声に、宿の下は昼間は飲食店、夜は酒場となっている。今は朝な事もあってか、誰も居ない状態だ。少女の声だけが響いていき「あらっ」と少女とはまた違う声がした。カウンターにしゃがみ込んでいた誰かが、立ち上がって姿を見せる。


「おはよう、ミーシャちゃん。今日も元気ね」

「おはようございます。アリッサさん」


 カウンターで作業していたアリッサは金色の派手な髪にワインレッドのドレスを着た女性……とも取れない顔つき、体躯と野太いと言わざるを得ない声をしている、不思議な人物であった。性別については少女――ミーシャは深く考えないようにしている。

「今日、皆さんは?」

「あいつ以外はみーんな仕事よ」

 あいつ、と言う言葉に呆れたような口調と溜息が乗った事で、ミーシャは大体誰の事か察しが付いてしまった。

「まだ起きてないんですか」

 苦笑したミーシャにアリッサは「そうなのよぉ」とまたしても大きく、ふぅ、と息を吐いた。二人とも階段を見ているが、誰かが下りて来る気配はない。

「まぁ後で叩き起こすわよ。それより朝ごはん出来てるし、食べちゃいなさい」

「はい、いただきます」

「今日はエッグベネディクトよん」

 自信ありげにアリッサが運んだ皿の上には、弾みそうなほど膨らみのあるパンの上に、カリカリに焼けたベーコンとポーチドエッグが乗り、上にはバターと卵黄を混ぜ合わせたソースが掛かっている。ナイフで切り分けて食べるとまろやかなバターの香りとレモンの爽やかさ、卵の旨味がパンに染み込んでいるのがよく分かる。食感の良いベーコンも、良いアクセントになっていた。

「美味しいです!」

 口に含んだ瞬間に花が咲いたような笑顔を見せ瞳を輝かせたミーシャに、アリッサは微笑ましそうな表情を見せた。

「ふふっ、良かったわ。今日もお仕事頑張ってね」

「はい!」

 その後、あっと言う間に食べ終えたミーシャは「ごちそうさまでした」と声を掛けた後、宿から外へと通じるドアを開けた。


「いってらっしゃーい」


 そんなアリッサの声とカランと音を立てたドアベルがミーシャの背を見送ってくれた。再び目にした朝日、そして宿の前では傭兵や旅人達に向けて軽食や携帯食、土産を売る朝市の屋台が並んでいた。本来ある店の邪魔にならないよう、隙間と隙間に等間隔で並んでいる屋台からは良い匂いが漂っている。

 大通りから少し外れている通りという事もあり、穏やかな朝だ。そんな表現が相応しいほど静か――な、はずだった。


「ほら邪魔だ! 退いた退いた!」


 遠くから車輪が荒く地面を叩きながら乱暴に走って来る音が聞こえてくる。周りの人達も音の方へと次々に「何の騒ぎだ」と目を向け始めた。ミーシャも、同じように目を向ける。するとリザードマンが三匹、一匹が荷を引き、もう二匹は両端から荷車を急ぐように押していた。車輪が忙しなく回っては大きな音を立て、通りの穏やかな空気を壊す。


「退かねぇといちまうぞ!」


 大通りと比べれば小さな宿や店の並ぶこの通りは決して大きな通りではない。だと言うのに、大声で喚き立てて荷車を引いているリザードマン達は、我が物顔で幅を取りながらもまるで止まる気配がない。慌てて朝市に並んでいた客達は避けたり逃げようとしている。そして、客の数の少ない宿の方へと人が走って来た。

「おいあぶねぇだろ!」

「早く逃げろ!」

 宿の外が騒がしくなったのを聞いてか、アリッサも飛び出して来た。

「ちょっと何事だい!?」

「アリッサさん、それが……!」

 怒声と悲鳴、様々な声が混ざって逃げ惑う人達がミーシャの方へと走って来る。そのあまりの剣幕けんまくにミーシャは自分も逃げようとしたが、その肩は誰かに掴まれ、突き飛ばされるように退かされてしまった。


「退け!」

「きゃっ!」

「ミーシャちゃん!」


 アリッサが飛び出そうとするが人の波のせいで飛び出せず、少女の小さな体が通りに投げ出される。逃げる人の雑踏ざっとうばかり目が行っていたが、荷車はミーシャが投げ出された場所の――まさに目の前に迫っていた。

 いきなり飛び出してきた少女に、リザードマンの三匹が驚く顔をしていて足を踏みしめて速さを落とそうとするが重さもあるせいか、一度付いた勢いは殺せず、荷車の速さは落ちない。車輪が地面を荒く転がる音を聞きながら、ミーシャは次に来るだろう衝撃に備え、咄嗟とっさに小さな身を丸くして固く目を閉じた。


 その時、宿の二階――その窓から黒い影が勢いよく飛び出した。


 そして身を丸くしていたミーシャの近くでは何かが降って来る音、次いで何かが壊れるような音と「ぐえっ!」と蛙が潰されような呻き声が聞こえた。


「――朝から騒々しい」


 唸るような、不機嫌そうな、そんな聞き覚えのある声にミーシャは丸めていた体を起こした。目を開いた先の地面には、鉱石らしきものが零れるようにどこかから転がって来た。

 恐る恐る顔を上げていくと先頭で荷車を引いていたリザードマン、そして荷車を踏みつけて無理やり止めている巨大な狼の姿があった。人の骨格を残していて、服も着ているその姿に、ミーシャは半ば呆然としていた。すると、近くに居る少女へと狼が振り向く。そして少女に向かって金を思わせる目を細め、口角を上げて笑い掛けた。


「おはようさん、ミーシャ」

「お、おはようございます……一斬いっきさん」


 荷車は車輪が壊れ、そこから荷物が転がり落ちている。そんな中でもまるで普通の挨拶のように狼……もとい一斬にそう言われて、ミーシャは唖然としながらもなんとか返事をしていた。

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