2-6

 夕食の時間になり食堂のある一階に降りると、食堂の前でじっと立て札を眺めている、黒髪を肩まで下ろした野上がいた。

 野上は俺の気配に気づいて振り返る。部屋着っぽい白と水色のボーダーのスウェットにゆったりしたリラクシングパンツの出で立ちだ。


「浅葱さんも早いですね」


 やっとのことで喋り相手を見つけたみたいに微笑んだ。


「ここら辺は漁業が盛んなんですかね?」


 そしていきなり意図のわからない質問をしてくる。


「どうして漁業が盛んかどうかを俺に訊くんだ?」

「見てください、ほら」


 野上は立て札を指さす。

 立て札には本日のメニューが記されているらしく。主菜は白身魚の揚げ物らしい。


「白身魚が出ることと、漁業の栄えているかは別問題だと思うぞ。海のない地域にも魚は売ってるだろ」


 簡単なミスを指摘されたみたいに、あーと呟いて、

「言われてみればそうだね。海が近いからてっきり漁業が盛んだと思ってた」


 確かに海は近いが、漁港じゃないからな。漁業よりも海水浴場の方が繁盛するだろうな。


「そうだ、浅葱さん」


 野上は思い出したように話題を変える。


「加山さんと相室って聞いたけど、私となっちゃんについて何か話してた?」

「そんな話をした覚えはないな」


 口にも上らなかった。飲み会の意義やら楽しみ方をくどくど聞かされただけだ。思い出すとうんざりする。

 気鬱が顔に出ていたのか、野上が不思議そうに凝視してくる。


「部屋で嫌なことでもあったの?」

「嫌ってほどではないが」


 嫌ではない。嫌ではないが、気乗りしない。


 野上はしつこく聞き出すつもりはないらしくそうなんだ、と合いの手を返し、

「部屋に居づらくなったら、私の部屋来てください」


 開けっぴろげな笑顔で言った。

 清く楚々な少女が、知り合いとはいえ男性を部屋に入れるのはマズいのでは? しかも二人きりなってしまうのでは?


「気持ちは嬉しいが、変な噂が流されるぞ」

「変な噂? 心配ないよ、他に人いるから」

「え?」


 それじゃまさか野上も二人で一部屋なのか。その同室している相方は誰なんだ?

 拒絶する裸の野上優香をベッドに押し倒す謎の男性の淫乱な光景が頭を駆け巡って、俺は急に彼女が心配になった。


「野上、他の人って誰だ?」


 恐る恐る尋ねる。

 彼女は変わらず晴れやかな笑顔のまま答える。


「なっちゃん」

「ああ、良かった」


 思わず溜息をついて胸をなで下ろす。


「ほんとに良かったよね。一人部屋だったら夜お喋りできなくて退屈だから」


 口に出てしまった俺の安堵の言葉を違う意味合いで捉えて、野上は嬉しそうにそう言った。

 その時野上の肩越しに廊下の左側手前にある部屋のドアが開き、見知った顔の少女が出てきた。

 パステルブルーのリボンベルトを巻いたワンピース姿の少女もとい錦馬菜津は、俺と野上を目に入れると一瞬意外そうな顔したが、すぐに無表情に戻って近づいてくる。


「二人で何を話してるのかしら?」


 俺にだけ問い詰める視線を向けて訊いてくる。

 近づいてきた時には気が付かなかったが、錦馬は長い髪を後ろで纏めていた。


「何、じろじろ見て」


 彼女のポニーテール姿は今まで見たことがなかったので驚いて眺めていたのだが、敏く視線を感じ取っていたらしい。


「お前のその髪型してるの初めて見たから、ついな」

「別にあんた見てもらうためにこの髪型にしてるわけじゃないわよ」


 感情らしい感情のない声で言う。

 それくらい知ってる。俺にどう思われようと気にしてないんだろうからな。


「ところで、二人はどうして食堂に入らないの?」


 錦馬が食堂内を覗きながら訊く。食堂内には客が一人も来ておらず、閑散としている。


「だって皆より先に席についていたら、食い意地張ってるんだなとか思われちゃうから」


 恥ずかしそうに野上が答える。

 返事の代わりに錦馬は首を傾げて問う。


「優香、お腹空いてるでしょ?」

「うん」

「あたしもお腹空いてるわ」


 小さく笑んで言った。

 個人の空きっ腹を公表されても、どう反応していいのか。

 だが野上は錦馬のおかげで気恥ずかしさを消散させたらしく、力強く頷く。


「私だけじゃないんだ。やっぱり撮影後はお腹空いちゃうよね」

「当然よ。身体動かすことが多いもの」


 ただ撮影を傍観していただけの俺には、到底わからない空腹だな。

 共感するグラドル二人の会話に入り込めないでいると、上階に繋がる階段から集団の足音がして、

「若いのは食べることになると気が早いな」と俺に向けて手を上げる加山さんを先頭に、二階に部屋を取っている撮影陣の男性連中が降りてきた。


「僕だって若いですよ」


 撮影陣の中で飛びぬけて年若い青年が張り合うように言った。今朝の出発前にロケ車に乗ろうとした俺をドアで挟んだ青年だ。痛かったな、あれは。


「ははは、お前は若過ぎだ滝島」 


 加山さんは気分よさげに笑いながら、滝島と呼ばれた青年の肩を叩く。


「若い者同士挨拶しとけ」


 肩を叩くのをやめたと思うと、彼の背中に手をついて俺の前に押し出す。

 滝島は困った顔で俺に会釈した。


「滝島修一です。ナイアガラ滝の滝に出島の島です。朝の時はドアに挟んじゃってすみませんでした」

「浅葱光人です。浅い深いの浅に葱と書いて浅葱。朝のことはまあ仕方ないというか、俺がマネージャーってことを伝えておけば済んだ話だから、気にしなくていいよ」


 お互いに苦笑して自己紹介し終えた。

 俺と滝島を引き合わした本人である加山さんは、関心を夕食の献立に移しており、ブツブツ独り言を口に出しながら立て札を見ている。


「白身魚の揚げ物か、この辺は魚がぎょうさん獲れるのか?」


 おい、思考が野上とまるきり被ってるじゃねーか。

 加山さんの独り言を耳にしてか、野上が彼の横に立った。知ったばかりの事を得意げに話す子供みたいなしたり顔で、


「魚が食事に出るからって、漁業が盛んとは限らないです」


 又聞きの知識をさも自分の知識のように人に話すなよ。

 野上の知ったかぶった言葉に、それもそうか、と加山さんは納得する。

 加山さん以外の撮影陣はメニュー表を一瞥もせず、めいめい食堂に入っていった。


「浅葱さんは私となっちゃんと一緒のテーブルだよね?」


 野上は入っていった人達を見て振り返り、屈託ない笑顔で訊いてくる。


「えっ」


 返事をする暇さえなく、彼女は俺の手を取って食堂に入ろうと足を踏み出した。

 その瞬間、突然美少女に手を握られて動揺する俺の反対の手首を、無骨な腕が伸びて掴んだ。

 俺の手首を掴んだ加山さんは、危険地帯へ行こうとする仲間を止めるみたいな形相だ。


「浅葱、お前は俺達と一緒のテーブルだ」


 野上は最初ポカンと加山さんを見つめていたが、彼の行動が自分の行動の妨げになっているのに気づくと唇を尖らせる。


「浅葱さんは私達と夕食を食べるんです、いくら監督でもマネージャーの行動を制限する権利はないはずです」


 マネージャーの行動って言われても、俺の自由意思でこんな変な状況になってるんじゃないんだよ。

 加山さんも俺の意思そっちのけで掴んだ手を離さない。


「マネージャーだからこそ、俺達撮影スタッフと少しでも話し込む必要があるんだ」


 野上は細い腕で俺をグイグイ引っ張りながら、強気に言い返す。痛い。


「どうせ、バカ話するだけじゃないですか」

「バカ話とはなんだ。有益で建設的な話し合いをするんだ」


 加山さんはごく真面目な顔で主張するが、多分食事中の大半が野上の言う『バカ話』に費やされるだろう。

 俺を同席させる権利を奪い合い加山さんと野上がくだらなくもいがみ合うこの場で、無関係を装いつつも成り行きを傍観している錦馬に、ダメもとで俺は救いの視線を送る。

 すると意外なことに気怠そうに溜息は吐きはしたが、自ら奪い合いの場に歩み寄り両者の肩にそっと手を置いた。


「浅葱がどちら側の席に座ろうとあたしにはどうでもいいけど、不毛な争いはやめなさい」


 そうだ。俺は野上と同じでも加山さんと同じでもどちらでも構わない。

 初めて錦馬に感謝の念が湧いてきて、錦馬が両者合意の妥協案を提言してくれるだろうと思って続く言葉を待つ。

 鷹揚に錦馬は口を開いた。


「両氏は浅葱氏が各氏の同卓に坐する権利を放棄し、以後浅葱氏が坐するは両氏から離れた食堂内の一隅に設けられし卓のみに限定する」


 法令の文を読み上げるような錦馬の生硬な言葉に、束の間沈黙が流れ、加山さんと野上はいがみ合うのをやめて互いに静かに見合った。

 やがて二人は錦馬に向き直る。


「なっちゃんがそう提案するならそれに従うよ」

「こちらも異存はない。錦馬の案に同意しよう」


 そんな簡単に引き下がるのね。

 俺をめぐって争われるのも困るけど、錦馬の提案というのは俺は隅のテーブルの席しか座れないということではないか。

 つまり、目の前で楽しく歓談するのを見せつけられながら一人寂しく食事をしていろ、と。


 俺が衝撃を受けている間に野上と加山さんの当事者二名は、何事もなかったかのように食堂に入り各テーブルに向かう。

 錦馬も後に続いて食堂に入る直前足を止め、背をこちらに向けたままで顔だけを振り返る。


「ぼっちの夕食を存分に楽しみなさい」


 陥穽に嵌った者を憐れむような嘲るようなどちらとも取れる表情で錦馬は告げた。

 こいつに助けを求めたのが間違いだったかもしれん。

 錦馬は正面に顔を戻すと、ポニーテールを揺らしながら食堂に入っていった。

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