コカトリス・フリッター 5
それは師匠のコートだったのだ、と気付いたのは、落ちるのが止まったときだった。突然飛び出てきたコカトリスにアーネストは反応できなかった。滑り込んできた師匠が『防壁』を張ったけれど、それごと蹴飛ばされたらしい。
アーネストは混乱の中で首を傾げた。止まる直前にどこかへぶつかったような衝撃があったのに、どこも痛くなかったのだ。それはまるでクッション越しに壁へ激突したような感じで、さっき斜面を転がった時とは全然違った。
「『
師匠の張り詰めた声が頭上で響いた。アーネストがハッとして師匠を見上げると、彼は口元に不敵な笑みを浮かべてアーネストを見下ろした。
「師匠っ、ごめ――」
「君が声を上げてくれたおかげで助かりました。ギリギリでしたけど。次からは、何か感じたらすぐに行動へ移すようにしてください」
アーネストは唖然として頷いた。そのせいで、言おうと思った言葉が風前の塵のように消えてしまっていた。
背後から奇妙な声と音がする。振り返ると、荒れ狂ったコカトリスの爪とくちばしが、半透明の結界を執拗に叩き、引っ掻いていた。
「どうやら、縄張り争いに負けた個体のようですね。私のコートに反応しているのでしょう」
そう言いながら、師匠は寄りかかっていた木から背を離し、踊るようにくるんと回ってアーネストと立ち位置を交換した。
「アーネスト、動けそうですか?」
「うん、大丈夫!」
今度こそハッキリと頷いた。実際痛いところなどどこにもなかったし、これ以上みっともないところは見せられない。
「よろしい。では、二人と合流して、私のスーツケースを持ってきてください。頼みましたよ!」
そう言うが早いか、師匠はパッと結界から飛び出した。斜面を滑るように下りていく。コカトリスがその真っ赤な背中を追いかけた。
アーネストは、コカトリスが充分離れるのをじりじりとした気持ちで待ってから、残った結界をゆっくりと抜けた。それから急ぎ足で斜面を駆け上がる。急ぐあまり半ば四つん這いになって、そこらへんの草や蔓を掴みながら登った。
上がった先で、ヴィンセントとダニエルがはらはらした顔で待っていた。
「アーネスト! 無事か?!」
「平気、ありがとう!」
「師匠は?」
ダニエルに助けられながら立ち上がって、息せき切って言う。
「囮になって下ってった! スーツケース持ってきてくれ、って!」
「オーケー、急ごう!」
ヴィンセントが素早くスーツケースを持ち上げた。
「先導するよー!」
危うげない足取りで斜面を下っていくダニエルを、ヴィンセントが追いかける。アーネストはその後に続きながら、必死に頭を廻らせた。
(怪我はしてないから、どんなふうにも動ける。でも、俺はダニエルみたいに運動神経良くないし、ヴィンセントみたいな観察眼も度胸もない)
アーネストはぎゅっと唇を引き結んだ。
(俺に出来ることってなんだろう……考えろ。考えろ!)
「なぁ、アーネスト」
唐突にヴィンセントが言った。彼は重たいスーツケースと足場の悪さに苦労しながら、でも正確にダニエルの足跡をなぞっていた。
「なに?」
「スーツケースを渡すタイミング、けっこうムズイと思うんだ。相手に一瞬でも隙を作らないと」
「あ……うん、そうだね」
そんなこと全然考えていなかった。アーネストは気持ちが沈み込みそうになったが、沈んでいる暇などヴィンセントが与えなかった。続けざまに聞かれる。
「コカトリスの様子、どんな感じだった?」
「ええと……すごく怒ってた。縄張り争いに負けたんだろう、って師匠も言ってたし、実際片目が潰れてた」
「手負いのコカトリスってめっちゃ凶暴なんだよな」
「うん。かなり焦ってて、混乱してて、やけを起こしてる感じだったよ。もうどうでもいいから、周りの何かをとにかく壊そう、って感じ。あ、それと、赤色に反応してるんだろうって師匠が」
「そっか、鶏冠の色か」
「たぶんそう」
「オーケー。じゃあ、『紅焔』だな。アーネストが『紅焔』を撃って、アイツに隙を作るんだ。その間にダニエルがスーツケースを渡す。俺がお前のサポート。それでいいか?」
「うん」
数歩先を行きながらもしっかり聞いていたらしいダニエルが「分かった!」と大きく返事をした。
「どのタイミングでどこに撃てば最大の隙になるか、アーネストなら分かるだろ?」
「え?」
「分かるよな?」
ヴィンセントがこちらを真っ直ぐに見ていた。彼の目は夜になったばかりの空みたいに深い藍色をしていて、そこには一番星みたいな鋭い輝きが含まれていた。それは信頼に近しい、けれど明らかに別の何かだった。
アーネストは大きく息を吸ってから、ようやく頷いた。
「うん。任せて!」
どうやら自分にも挑戦できることがあるらしかった。まだ出来るところは見せていないから、信頼されるには至っていないけれど。空元気でも、意地でも、応えなければならないのだと理解した。
理解したら覚悟が出来た。アーネストは杖をぎゅっと握りしめて、しっかりと地面を踏みしめた。
しばらく下った先は谷底のような平地になっていた。細長い木々が密生していたから視界は悪かったが、足場は斜面より良い。そこで師匠が闘牛士のようにコカトリスの猛攻をさばいていた。
「よし、じゃあ二手に分かれて、あとは手筈通りに」
「「了解」」
ヴィンセントの指示で二手に分かれる。師匠を挟んで対角の位置に。
(延焼したらまずいから、範囲は絞って……目に映ればいいわけで、ニワトリは真横まで見られるから……潰れているのは左目だったから……)
コカトリスの右目がこちらに見えた瞬間、ただ一言放てばいい。威力は要らない。傷付けるわけでもない。ただ赤色を見せればそれだけでいいのだ。
なのに緊張で杖の先が震えた。
ふとヴィンセントがアーネストの腕を掴んだ。
「アーネスト。お前さ、考え過ぎなんだよ。ちょっとは俺らのことも信頼しろって。……もしこっちに来ても、今度は俺がちゃんと防ぐから」
ヴィンセントは気の強い顔をさらに頑なにさせていた。悔しがっているような感じだった。
アーネストはひとつ深呼吸をした。
「うん。大丈夫、信頼してる」
「おう。行くぞ」
一回拳を打ちつけ合ってから、揃って杖を構える。
(集中しろ、集中――)
木々の隙間を縫うように、二つの赤色が入り混じる。アーネストの目にはとうてい追い切れない動きだ。今まで相手にした五羽よりもさらに速い。やっぱり手傷を負うと凶暴化するらしい。
コカトリスの足が木を蹴倒して、師匠の魔法が空を切り裂く。
師匠に疲れた様子はないけれど、攻めあぐねている感じが伝わってきた。
コカトリスは相変わらず怒っている。これだけ暴れてもまだ暴れ足りないみたいで、憤怒の炎は収まる気配すらない。
(まだだ――まだ――……今っ!)
「『
杖の先から真っ赤な炎が迸った。木に当たらないように細く、タイミングを逃さないように速く、とイメージした結果、それは矢のように鋭く飛んでいき、
「ケギャアアアッ!」
右目の真下に突き刺さった。
そして憤怒の矛先がこちらへ向く。
来るぞ、と声を出す間もなかった。細い木など最初からなかったかのように猛進してくる。翼を広げ、くちばしを大きく開け、迫ってくる。
死が。
「『
ヴィンセントが『防壁』を張った。目で追えないほど鋭い飛び蹴りが『防壁』に突き刺さり――突き破って――ヴィンセントの体が吹き飛ばされた。
反射的にそちらを振り返ってしまったアーネストが、
「アーネスト!」
師匠の声に引き戻される。
ひときわ大きな声を上げて、コカトリスが大きくのけぞったところだった。目の前にあるのは、師匠が急所だと言っていた場所。よく見ていなかったアーネストにもそれははっきりと分かった。きっと縄張りを争った相手に突かれたのだろう。黒い毛並みの一部が、さらに黒く淀んでいた。
「雷撃!」
「『
考えるより先に体が動き、閃光がコカトリスの急所を貫いた。
巨体が最期に山を揺らし、そして沈黙する。
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