第95話 暗殺者 1
ネーベイア家は元々、北方の中小国家群からやってきた一族であるという。
現在のアルトリア王国が建国される途中で、東方に派遣されてその領土を拡充し、辺境伯に叙された。
ちなみにアルトリア王国の貴族は、王国よりも古い経歴を持っている家も多い。王家からして、元は滅亡した国の貴族だったのだ。
つまり何が言いたいかと言うと、ネーベイア家は古参であり実績も持つ家柄であるが、伝統という点では勝ち目がないのである。
ネーベイア家自体はそんなことは気にしないが、家系の由緒の正しさにだけ、己の価値を見つける貴族は多い。
そんな貴族であっても、子爵家以下であれば、ネーベイア家より家格が低いので、素直に下に付くことも出来る。
侯爵以上であれば逆に、ちゃんと割り切ってネーベイアの覇権を認めて近寄ってくる。
問題なのは伯爵家である。
辺境伯と伯爵は、軍事的な権力の優劣以外は、爵位に差はないとされている。つまり対等だ。
この本来なら対等のはずという意識が、ネーベイアに従属することに拒否感をもたらすらしい。
数の多い下級貴族ならばともかく、爵位が上の侯爵と比べても、素直にネーベイアに降る者は少ない。
だから伯爵位の貴族が傘下に入るとなれば、ある意味侯爵家を仲間にするより嬉しかったりする。
アルトリア王国というこの国は、変革の時代に入っている。いや、正確には大陸全体がそうなのかもしれない。
アーリアの野望と執念が実るなら、世界の変革が必要だ。そしてそれはいかにアーリアでも、個人の力で出来ることではない。
(確かあの時は……100年以上かかったんだったかな)
恭順の意思を示した伯爵に招かれ、アーリア軍は明日にもその領都に入る。
天幕の中で寝転がりながら、アーリアは周囲の状況を確認していた。
ネーベイア軍の士気は高い。ここいらで少し大きな戦闘をしてもいいかもしれない。
精鋭の損失は痛手だが、実戦から遠ざかるということは、精鋭が精鋭でなくなることを示す。軍隊の持つジレンマだ。
新たに加わった軍勢も、士気が低いわけではない。何より裏切る様子がないのが嬉しい。
傷を負った兵は、これまでの行程で立ち寄った街や村に置いてきた。略奪などをしなかったし物資も配給したので、危害を加えられることはないだろう。
明日には伯爵領の領都に入り、また色々と交渉を行わなければいけないだろう。対人交渉を出来る人間を、兄たちの方に多く割いてしまった。
だから早く眠らなければいけないのだが――。
アーリアの天幕は、当然のことながら厳重に警備されていた。
正規の騎士はもちろん、ひねた傭兵上がりの親衛隊や、熟練の冒険者に、元盗賊までもいたりする。
それらに共通するのは、強いということだけだ。
強さとは何か。
アーリアが考える強さとは、目的を達することである。
そして護衛の目的とは、対象を守ることだ。それについてアーリアは、彼らの力を疑ってはいない。
だが、いるのだ。
覚悟だの鍛錬だの、そういったものを超越した、どうしようもない強者が。
神や竜といったものではなく、人の範疇に入る者の中で。
「おや、まだ寝てないのね」
毛布にくるまり、寝息を立てていたアーリアの狸寝入りを、そいつはいとも簡単に見破った。
起き上がったアーリアは、シャムニールを抜き放つ。
表の警備兵は、殺されてはいない。気を失っているだけだ。
他に騒動も起きていない。ここまで完全に隠密行動で侵入したということだ。
しかし刺客の正体を知れば、それも無理はないと分かる。
「魔族か……」
蝙蝠のような羽を畳んだその女は、あまりにも軽装であった。
戦うための姿とは到底思えない局部だけを覆った鎧。しかし抑えられた気配からも、相当の手練だとは分かる。
ヴァリシアよりは強く、レオンよりは弱いといったところか。
「貴方が男だったら、今頃幸福な夢の中で、快楽に溺れて死んでいたでしょうね」
肌を多く晒すその衣装からも、アーリアは女の正体を推測する。
答えは簡単に出た。夢魔だ。
女の姿をしているから、サキュバスの方だろう。
男の精気を吸い取って生きるその生態は、少し吸血鬼とも似ている。
――ティアがいてくれたら。
正直なところ、アーリアは今は戦いたくない。
いや、戦うのはいいのだが、このレベルの相手と戦えば、間違いなく周囲に被害が出る。
「一応、名前を聞いておこうか?」
アーリアの問いに対して、夢魔は胸を張って答えた。
「聞いて驚きなさい。魔人帝国が12魔王の一人、享楽の魔王ロカとはあたしのことよ!」
思っていたよりはるかに大物であった。
戦乱の続くこの大陸において、確実に安全と言える国が二つある。
一つは大陸北西部にある都市国家、湖に面した精霊神の統治する、水の精霊国である。だがこちらの影響力は弱く、基本的には戦争には不干渉である。武装中立の国家だ。
そしてもう一つは大陸北東部の巨大な地下迷宮に存在する、魔人帝国だ。半神の大魔王ジーナスの統治は絶対的で、その支配に逆らおうとする者はいない。
基本的に魔族が居住する国ではあるが、他の人種との交流もあり、戦争の仲裁を頼まれることもある。おそらくは大陸において、最も強大な軍事力を持つ国だ。
魔人帝国の軍事力は、その大きな部分が超越した個の武力に拠っている。
中でも12人の魔王は、神をも殺す強大な存在だ。
享楽の魔王ロカは、その中の一人である。もっとも噂を総合するに、かなり残念な部分がある魔王のようだが。
しかし、一つだけ確かなことがある。
弱い者に、魔王を名乗る資格はない。
「それにしても、遠い魔人帝国から、わざわざ私を殺しに来たのか? そのあたりがよく分からんのだが」
アーリアが自分の目的どおりに生きていくなら、確かにいずれは世界中の強者と戦うこともありえるだろう。
しかしまだ現在の段階で、いくつも国を間に挟む、魔人帝国から刺客が来るというのが解せない。
正直、魔王とまで言われる相手とは、まだ対決したくはなかった。
「そうね、私もよくは知らないけど、ジーナスが貴方を危険だと言ったのよ」
魔王ロカは、魔力の短槍を作り出した。アーリアよりは少しリーチは長めか。
「大魔王がね……ところで聞きたいんだが、どうして帝国を名乗ってるのに、魔皇帝と名乗らずに大魔王なんだ?」
細かいことではあるが、前から気になっていたことである。
しかしロカは首を傾げた。
「帝国で大魔王だとおかしいの?」
「……まあ言語をどう使ってるのかにもよるか」
そんな間抜けな問答の後に、戦闘は始まった。
夢魔という種族は、本来なら搦め手が上手い種族だ。
しかしそれは、相手が異性の場合に限る。
魔王とさえ言われるほどの実力者なら、男が多い軍隊に紛れ込めば、種族特有の能力で瞬時にして一個軍団を壊滅させるだけの力があるだろう。
幸いにもこの軍の指揮官のアーリアは女であった。
しかし考えると、不思議なことがある。
大魔王の意図がどうかは分からないが、アーリアを相手にするのに、どうして女の夢魔を使うのか。
夢魔の最大の力は、異性に対する魅了の力だ。それ以外にも優れたところはあるが、最大の長所はそれである。
つまりアーリアの戦闘力を、全く把握していなかったということか。
事実、天幕の中の戦闘は、アーリアの一方的な優位に推移していた。
「あんた本当に人間?」
手加減する余裕さえあるアーリアは、実にいやらしい戦い方をしていた。
いや、彼女自身は真剣に手加減していたのだが、それゆえに剣がロカの衣服を掠めていたのだ。
男の精気を吸うという夢魔。
その半裸に近い衣服を斬るということは、いろんなところがぽろりと出るということだ。
それを隠しもせず堂々と戦うロカも、本気ではない。
アーリアにはちゃんと分かっている。
この夢魔は、後衛職だ。
「人間だよ。父親も母親もはっきりしてる。それぐらい事前に調べてないのか?」
遠い国とは言え、おそらく大陸最強の武力を誇る魔人帝国の情報は、アーリアもそれなりに得ている。
12人の魔王の中で、ロカは大魔王ジーナスの側近ではあるが、権力からは離れた所にいるらしい。
その種族的な性格からしても、物事を細かく組織的に動かすということは苦手なようであった。
そして実際に対峙して、アーリアは確信した。
この魔王は、アーリアを殺しに来たわけではない。
わざわざ名乗りを上げてからアーリアに攻撃し、今もまだ魔法を使う気配さえない。
大魔王がアーリアを危険視しているらしいが、そもそも明確にアーリアを殺害するとは言っていなかったような気がする。
せいぜいが見定める程度のものであるなら、あからさまに襲いかかりながらも、戦闘の規模を広げようとしないことの説明がつく。
というか天幕さえ破らないこの動きでは、最初から殺すつもりも敵対するつもりもなかったのではないか。
それなのに最初の好戦的な口調を考えると、どこか残念な魔王と呼ばれるのも分かる気がする。
「……」
「……」
真剣ではあるが殺気に欠けた殺陣が終わり、両者の動きが止まる。
「今日はこのへんにしといたるわ!」
一方的に捨て台詞を残して、ロカは天幕から脱出した。
いっそ背後から狙撃してやろうかと考えもしたアーリアだが、結局その背中を見送ることにした。
なんだか精神的に疲れたような気がする。男であった頃の記憶が残っているからだろうか。
だが前世やその前でも、既に性欲は消失していたと思うのだが。
「中途半端な接触だったな」
呟いたアーリアは、天幕の外ですやぁと眠っている二人の衛兵を見る。
本来なら軍法会議で処刑だが、さすがに相手が悪かった。
幸せそうな寝顔を見つつ、翌日には下着がカピカピになっているのを想像して、久しぶりに軽い笑みが浮かんだ。
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