第7話
もわもわとした熱気が立ちこめていて、月の大きな夜だった。
私とマリは午後の九時半に待ち合わせ、それから自転車でうちのベランダから見える北の方角へと向かった。一時間ほどかけると、花火を打ち上げていた公民館前は元より住宅の数も見る間に疎らになっていった。山際に近づくにつれ、闇も濃くなってくるようだった。
私たちはその山に登るのが目的だった。
「海を見るのよ」待ち合わせのときにマリは言った。
「海?」はじめ私は電車で行くのかと思った。しかし、彼女の意図はそうではなかった。
「違うわ、うちの街で」彼女はそう言って北を指差した。
「それは危なくない?」なぜなら北から海に出るには仙離山という山を越えねばならないからだ。仙離山はうちの地方でその昔神体山や霊山と目され、その周囲の森は小さいながらも神奈備と呼ばれ、神聖視されている由緒正しき山である。標高は確か800m余りでおそらく道も整備されているだろうが、夜に登るというのは考えものだった。けれどそんなことはマリには通じなかった。
「大丈夫よ、懐中電灯も持ってきたから。それに今の時代霊山も何もないわ。一時期開拓工事もあったって聞いたし」
平成に入った頃に行なわれた開拓工事は、現場で原因不明の事故が多発し、作業員が恐れをなしてやめていったことが端を発して中断されたというのが主な噂だったので、マリの言うことは私の心に逆効果だったが、私は彼女の勢いに押されて結局行くことにしたのだった。
めっきり街燈の数もなくなり田園や壊れた民家が目につくようになってしばらくすると、仙離山の登山口の標識が見えてきた。私たちは広々とした田んぼに面するガードレールに自転車を立て置いて、標識の通り木々の間に歩を進ませた。
しばらくは森の中に砂利の敷かれた平坦な道が続いた。道の脇にはひしゃげた自転車や箱型のテレビなんかがところどころに捨て置かれていて、マリの振り回す懐中電灯がそれらを浮かび上がらせるたびに、私の心は跳ね上がった。排除された人の気配というのは実に嫌なものだった。普段の日常で軽薄に扱われる死の匂いたちが、その牙を剥いたようでもあった。私たちは歩きながら言葉を交わしていたが、辺りは得体の知れない虫の声が通奏低音をなしていて、私たちの言葉はそれに次々と飲み込まれていくようで、私は次第に口を噤みがちになった。
「あ、あれ何だろ」
マリが突然、嬉しそうな声を上げた。私とは逆に彼女はこの場の雰囲気を楽しんでいるようだった。
彼女の示す先を見やると、鬱蒼とした木立ちの中に忽然と大きな影が現れ、月光をバックに聳えていた。近づくとその箱型の建物の壁の蔦が蔽う合間の数か所に、スプレーで卑猥な文言が落書きされているのが見えた。その傍には「白野病院」と書かれた四辺のひどく錆びた看板が取りつけられていたが、金属が朽ちて不格好に、あるいは不気味に傾いていた。
白野病院というのは、おそらく開拓事業よりも古い昭和の産物なのだろう。なるほどと理解して、私は遠ざかろうとしたが、マリは膝丈ほどの草を分けて壁際に進んだ。
「ちょっとマリ、何してんの?」
懐中電灯はひとつしかない。私はついていくしかなかった。
傍まで寄ると、風雨にやられたのかところどころの鉄骨が剥き出しになり、今にも崩れそうだった。壁の近くにはガラスの破片が土に埋まりかけながら散らばっている。
「迫力あるねー」マリがそう言いながら、内部を照らすと外側よりもたくさんのガラスが散乱してて酷い有り様だった。棚はひっくり返り、切り裂かれたソファのクッションから綿がはみでていて、数々の怨念がそこらに漂っていそうに思えた。
「死人の顔が浮かびそうね、手術で実験台にされた人か、借金まみれで死んだ院長かの」彼女は興味津津に懐中電灯の光線をちらちらと当てていた。
「やめてよ、本当に出てきたらどうすんの」
「どうもしないよ。ああ、いるんだって思うだけ。見れただけラッキーみたいな。でも写真撮ったらオーブはいっぱい映り込みそう」
「いつか呪われるよ、そんなことやってると」
「あたし、思うけど、呪うってすごい権力を感じさせる言葉だよね。生きてる人たちの方がずっと強いし、死んだ人が現世に残ってても、あたしに見ることができるのならそれはもう現世のものでしかないんだからさ。まあ、わざわざ異界を定立させるっていうのは、逆にいえばそれは現世の人の欲望の際限のなさを表しているのかもしれないね。そう考えると呪いは人の持つ権力へのアンチテーゼか。いずれにしても、くだらないことだけどさ」
私たちは山道に戻りながら、そんなことを言い合っていた。じきに砂利道も終わって、木材でできた階段が続く山道になった。道幅が狭まったため、一列になった私は明かりを手にするマリの後ろを歩いた。
「じゃあマリは怖くないの?」
「怖いって感覚は異質なものに触れるって意味で理解できるけど、それは娯楽でしかないよね。まともな人生ってそういうのを好まないものよ」
「なのに霊道?」私は躓かないように足元に気をつけながら訊いた。ぴったりマリにくっついて行かないと、枝先で幾重にも分散される月の明かりだけでは足元が危ない。
「まあ、霊道は怖いとかじゃなくて、あたしの中ではあるかないかの問題だから」
来る前に少し聞いただけだったので、この登山の主眼を私は確認した。
「霊道と海、どんな関係があるんだっけ」
「フラックベール現象だよ。フラックベールっていうのはイギリスの童話作家の名前から来てるらしいね。もっと前から現象として認知はされてたらしいけど、名付けた者勝ちってことみたい。それで今日八月二十八日に、地球コアの移動による地磁気の乱れが重なって、仙離山近辺の上空で霊道が開くらしいの。そうすると、その下では霊気が過度に充満するから、魚たちの息ができなくなって浮上してくることになる。そうやって、海面が一瞬魚たちで満たされてテラテラ輝くのがフラックベール現象」
「誰から聞いたんだっけ、その情報」
「客の占い師。下手だったけどそれ教えてくれたから許した」
聞くたびにどうしたらいいか分からなくなる内容である。けれど、マリはやけに楽しそうだったので、私もそれでよかった。
しかし何が出るか分からない闇に囲まれた暗い道を歩くというのは、やけに気を使うことだった。林の枝々には何かが棲みついて、こちらを睨んでいる気がしたし、自らの靴が土を踏む音すら別の人間が後ろからついてきている錯覚を引き起こした。
「マ、マリっ!」
前を歩くマリが振り返った。
「なに、どうかした?」
「……怖いんだけど」
「お前の父さんの方がよっぽど怖いよ」と彼女はためいきを吐いた。
「そんなこと言わないで、何か気を紛らわす話をしてよ」
そうだなあ、と一考し、彼女は歩き出してから話を始めた。
「じゃあ案山子の由来って知ってる?」
「うん? 知らない」私は彼女の声に耳を澄ませて相槌を打った。虫たちのざわめきも彼女の声に集中すれば気にならない。私はファンシーな案山子を頭に思い浮かべた。
「元々は『かがし』って呼んでて、それは『かがせる』から来てるんだって。要するに人の毛髪を焼いたものとか鳥や獣が嫌う臭いを出すものをそれに掛けて、田畑を守るっていうわけね」
「う、うん……」
「じゃあ案山子にまつわるこんな話は知ってる? ある村で実際に起こった話らしいんだけどね、……一人の男が借金取りに追われてたんだけど、それがあまりにしつこいもんだから、その借金取りを殺そうと思って、隙を見計らって煉瓦で頭を殴って殺したの。でもそいつはゾンビみたいに何度も蘇ってふらふらと寄ってくるの」
「うん?」
「だから男は借金取りの片方の足を切り取ってしまったの。そうしたらもう追ってこれなくなるだろうって。だけど、家に帰って数日すると何かが跳ねる音が窓の外でするのよ。それでね、その男が窓を開けると、すぐそこにはよく見る感じの案山子が立ってて、その案山子に書かれた顔がにんまりと歪んで『久しぶりですね』って」
「それ怖い話じゃん!」私は叫んだ。
「いやあ、怖さには怖さかなあと思って」などと意味不明な上に無責任なことを言って、マリはからからと笑った。
「それと、他にはそうだなあ、学校に行ったら引き出しに小さな骨が入ってた話とか」
「もういいよ!」
マリに頼んだことを心底後悔する私だった。
足を運ばせるにつれて息は上がり体内は熱を発していたが、肌は冷気を感じて汗はすぐに冷えた。高い位置に来たから気温が低下しているかもしれないし、夏が終わろうとしているからかもしれなかった。途中で立ち止まって振り返ると、街が電子回路のように光っているのが見えた。
「ほら、綺麗だよマリ!」
「そんなに裾をつかまないでよ、伸びちゃうでしょ」
「あっ、ごめん」
「ユカって怖がってると可愛いね。ほら、手を繋いでてあげるから」
少し広い道に出たのもあって、マリは片手で懐中電灯を持ちながらもう片方の手で私の手を握っていてくれた。
いくらかの休憩を経て、頂上に辿り着くと、心地よい風が私たちを吹きつけた。森が後退し、視界が一気に開いて、手の届きそうな空が頭上に広がった。目を前方に向けると真っ黒な日本海が一面を支配した。波がゆらゆらと揺れ、岸壁にぶつかっては引く潮の響きが耳に入った。
「わあ……」
私は太い木でできた柵の近くまで行くと、息を飲んだ。
海は、小さな不安など飲み込むほどに力強いうねりを見せていた。その上には街では見られない量の星たちが、見たこともないほどの光彩を放ち、月と共に海を白く照らしていた。あらゆるものが生きていて、気持ちが分散していくような、妙な清々しさが全身を駆けるのが感じられた。
「怖かったけど、来てよかった。気持ちがいいね。魚はあんまり見えないけど」
クレーターも見える大きな月や数々の星たちが海表に壮大な光を投げかけてはいたけれど、そこに魚たち大群の影は見当たらなかった。
マリは空に手を突き上げて、伸びをした。
「そりゃそうか。でも見たかったなあ」
「まあ、また来ればいいじゃん。何回だって来れるんだしさ」
「……うん」
手すりに凭れて、私が闇と溶け合う水平線を見つめながら言うと、彼女は生返事をよこしてきた。そして、煙草に火をつけてしばしの沈黙ののちに口を開いた。
「まあ、分かってたけどさ。でもユカと来るのはやっぱり楽しかったよ。ありがとう。……もう、この街も大体楽しんだからさ。またヒッチハイクして、どっかに行こうと思って。今日が最後の日だったんだけど、ユカと過ごせてよかったよ。好きな海を二人きりで見たかったんだ」
彼女は澄ました顔で煙を吹くと、冷たい風がそれをどっかにさらっていった。
「同じ場所にいつまでもいたらいけないからさ」と彼女は呟いた。
「えっ……?」
私は一瞬にして何も考えられなくなって、身体は石のように動かなかった。
ただただ、悲しさが夕立のように少しずつ、そして激しく心に打ちつけてくるのを感じた。
彼女は横に立つ私を見て、気遣うように言った。
「立ち止まってると、身体が段々言うことを聞かなくなってくるからさ、仕方ないんだよ」
「……うん」
口ではそう言いながらも心は全く頷けなかった。
マリがいなくなる?
それは突然の告白だった。完全に虚を突く不意打ちだった。
どうして? なんでずっと一緒にいてくれないんだろうと私は思った。私はマリのことが好きになっていた。自由で奔放なマリのことが好きだった。けれどいなくなってしまうのは、それはあまりにも耐えがたいことだった。刃物のような思いが堰を切って流れてくる音が聞こえてくるようだった。またあの日常がやってきて、私は色褪せた日々に落ちていかねばならないのだろうか。
私の思いを感じとったようにマリは私の手を取って、強く握った。
「いい、よく聞いて?」彼女は私の目を真っすぐに見つめて言った。「あたしはユカを愛してあげる。だからこのぬくもりは忘れないで。けれどそれは離れたら寂しくなってしまうとか、ユカがいないとダメになるとかそういうことではないの。そういうことでは全くないの。あたしは、ユカの中で血となって、肉となって、言葉となって、吐息となって、瞳となって生き続けるの。だからユカも誰かの中で生きられるような人になるのよ。微睡みのような生活だけど、人は嘘ばかりつくけれど、それでもそのことだけを信じていて。そうすれば何にも怯えずに、自分のままでやっていけるのだから」
「でも、また会えるんだよね?」
喉から嗚咽を溢れてきて、マリの腕の中で私の身体は小刻みに震えていた。彼女は私にしっかりと諭した。
「もちろん、あたしたちはこれから何度だって会えるし、どこでだって一緒にいる。ねえ、教えてあげる。これからもユカは幾度も大切なものと別れることになるわ。その光たちは過ぎ去ってもう二度と目にできないかのように、あなたは感じるかもしれない。そして悲しくてどうしようもなくつらい気持ちになるかもしれない。でもね、ユカがあたしになって、あたしがユカになるように、それらもユカが大事にする限り、なくなることはあり得ないのよ。だから光が離れていくときには、いつだってちゃんと手を振るのよ。それをきちんとやっていけば、そうしていれば、光はあたしたちの中で輝きを失わせることはないのだから。光と共にいれるのだから。ねえ、分かった?」
「うん……、うん、わかった」
「ちゃんとできる?」
私は彼女の服に縋りながら、頷き続けた。涙がぽろぽろぽろぽろ零れて、目頭や頬を熱くさせるのをやめなかった。もっともっと言いたいのに、伝えたいこともあるのに、話したいこともあるのに、言葉は喉につかえて出てこなかった。
月明かりに照らされたマリはそんな弱い私をそっとやさしく、包み込むように抱きしめ続けた。
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