其の拾陸

 今朝の空気には水分が多く含まれている。

 まるで昨夜の騒ぎを洗い流すかのような……老人は長椅子に腰かけ天を仰ぐ。


「人間五十年……」


 その言葉を酔って吟じていたのは西から来た生真面目な男だった。


 律儀で真面目で……何より娘ほどの齢の離れた妊婦を連れていた。

『逃げている』と言っていたのは、あの様子から嘘では無いのだろう。


 だが妊婦が旅など自殺行為でしかない。

 子を産み落とし、それでも生きながらえたのは母親としての責任からか。


 玉のように元気だった少女は、時を経て……それはそれは美しい娘になっていた。


 長生きはするものだ。こんなゴミの様な命であっても。

 老人はカカカと笑って視線を巡らせる。


「遅かったの?」

「分かっているでしょうに」

「カカカ……男共に見つめられんで済むのは心地良いな」


 相手の様子から自分の考えが正しかったと悟り、ミキは頭を掻いた。


「貴方はこうなることを考えていたのですか?」

「どうかな……そこまで考えておったらこの大陸を手中に収めているだろうな」

「なら?」

「簡単なことじゃよ。これとこれがある」


 握った両の拳を前に出し、老人は自分の前で重ねる。


「こうくっ付けばどうなるのか考える。それをことあるごとに繰り返せば良い」

「……正気ですか?」

「カカカ。正気じゃとも。少なくともそれを繰り返してこの齢まで生きて来た」


 ぺチンと自分の額を叩き老人は空を見続ける。


 何も無い……空白な自分が見上げることしか出来ない場所をだ。


「なら今一つ」

「何じゃ?」

「貴方はこれから何をする気ですか?」

「……つまらんことじゃよ。この年寄りの最後の寝言をある人物に言ってやる」

「宰相にですか?」

「近いが違うな。まああの男にも聞かせてやろう」


 またカカカと笑い老人はミキを見た。


 真っ直ぐな目をした青年だ。どこかガンリューに似た空気を纏っているが、こちらはまだ若いこともあってから無骨な面も伺える。


「この国を食い物にしている愚かな王にだ」

「国王に?」

「ああ。十数年前にも言ってやったのだがな……言ったら殺されてしまった」


 笑う老人の目が『分かるか?』と言ってるように見えた。


 ミキは苦笑いを浮かべまた頭を掻く。


「どうしても分からない部分があります。貴方が殺されたホルムだと言うのなら、実際に殺された者は誰で、何故ガンリューがその罪を背負ったのか」

「カカカ。分からんか?」

「はい」

「ならば宰相の部下たちもほとほと困り果てていただろうな」


 楽しそうに笑い、老人はその佇まいを正す。

 今までのヘラっとしていた様子が嘘のように、スッと背筋を伸ばして長椅子に座っていた。


「何もかも簡単なことだ。私を殺したくない者が身代わりとなって死んだ。その罪をホルオスはガンリューに押し付けた。自分の遠縁にあたる者を部下に命じて殺しておきながらな」


 口調も何もが違う。

 その底知れぬ威圧感に、ミキは自然と右手を刀の唾に乗せていた。


「あの日……私の服を着て殺されたのは、兄だ」

「兄?」


 ミキの訝しむ様な声音に彼が頷く。


「ああ。出来の悪い兄だったが……人に好かれる男だった」

「ですが貴方には家族は居ないと?」

「居らんよ。だが私とて木の間から産まれた訳では無い。両親も居た」

「……異母か異父の兄弟」

「その通りだ。私たちは異母兄弟でな……育った場所も何もかもが違った。成人するまで兄が居ることすら教えられていなかった」

「だからそのまま隠し通した」

「如何にも如何にも」


 満足気に笑う相手が、どこか勉学の師にすら見えて来る。

 ミキは内心で自分の佇まいを正した。


「私の母は裕福な商家の娘。兄の母は食堂で給仕をしていた娘だった。父親が同じというだけで接点は無く……成人して街の食堂に連れて行かれた時に初めて知らされた」


 どこか思い出すような感じで老人は言葉を続ける。


「それからその店に通い、下働きをしていた兄と会話するようになった。最初はただの客と店の者だったが、ずいぶんと通っているうちに二人で普通に飲む仲までになった。だから……ある日私は兄に言った。『自分には家柄が違い過ぎる腹違いの兄が居る』と。すると兄はこう答えた。『だったらそんな存在など忘れてしまえ』とな。彼も気づいていたのだ。だからこそ自分が兄であると認めなかった」


 悔しそうに老人は頭を振る。


「それは何故?」

「この国は家柄が全てなのだ。貧しい者は貧しいまま。豊かな者は豊かなまま。それが普通であって当然な国だ。兄は豊かな家で暮らす私のことを案じてくれた」


 フッと笑い……老人が柔らかな表情を見せる。


「だから私はこの国を変えようと、仲間を募り出世して行った。ホルオスも国王も私の仲間だった。力ある者が出世してこの国の中枢を担い豊かになれる環境を……そう思い頑張り続けたのだがな」


 柔らかだった表情は脆く崩れる。


「ホルオスたちは敵対する者たちから金品を受け取り……あちら側に寝返った。そして邪魔になった私を殺そうと画策し始めたのだよ。そのことにもっと早く気づいていれば、私は兄を身代わりに死なせずに済んだはずだ」




(C) 甲斐八雲

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