偽りだと気付いた頃
第十二話 青く萌す
制服のボタンを留めてネクタイを通した午前7時。俺は自分の部屋から出て階下のリビングへ向かった。2年ほど前までキッチンには母親が立っていたのだが、もうその姿はなく、青砥の朝はすっかり静かになってしまった。
俺は冷蔵庫を開けて10秒ゼリーを取った。ぱきぱきとプラスチックを破壊する音を部屋に響かせる。
父さんはもう仕事へ行ったのだろうか。
俊は、きっと今日も部屋から出てこないだろう。
味がかなり美味しく映えるゼリーを咥えながら、俊の部屋に向かった。
コンコンコンコン。
「俊ー? 入っていい?」
がちゃり。
返事よりも先に扉が開いた。
「わあ、翔兄」
「おぉ、おはよう」
朝からヘッドフォンで耳を隠した彼は、唐突にドアの前に立っていた俺に驚いたのか、目を大きく見開いた。俺の声は聞こえていなかったようだ。
「俺、もう学校行くからさ。朝と、昼……もか、なんか適当に食っといて」
「わかった。ありがとう」
「お」
俊は浮かしたヘッドフォンをもう一度耳へ押し付けて、トイレに入ってしまった。
右耳の穴をほじる。
聴覚。
頭部の左右を護衛するように張り付いたそれは、視覚とは違い自分を取り巻く立体的360度に可聴領域を持つ。後ろから車が来ると分かるのはこいつのおかげだ。また、自分が三次元上の座標として存在していることを宿主に確認させるのもこいつである。
世界の中に自分がいること。誰かの声を聞くこと。
俺はそれを煩わしいと思った。
思ってしまった。
「
あの時すごく遠く感じたその声が、鼓膜の裏に張り付いて取れない。何度でも思い出す光景だ。俺が人間として大切なものを失った瞬間。
破裂した内臓に、痛みなんて感じるのだろうか。
ワイヤレスイヤホンを耳元に持っていって、やっぱりやめた。俺はこの世界の中で
せめて、コンクリートで靴底が擦れる音ぐらいは拾って生きるんだ。
地下一階の食堂で昼飯の弁当を買った後、指数関数の解法が黒板に残ったままの教室に戻った。
いつも通り
「なぁ、俺の席なんだけど」
厄介者のくせしてクラスでは人気者なそいつは俺の前の席の男子と喋っていた口を止めて俺を見た。
「あ? あれ、だれもいねぇな」
完全に俺を視界に収めてそいつは言う。
「別にお前に俺が見える必要はねぇけど、食うなら自分のとこで食えよ。いいからどけ」
「あのな、俺、お前と違って友達いるんだよ。
「自分の椅子持って来いよ」
「うるせーよ」
京極は俺の腹を押し蹴って退けた。
「お前は別にどこでも食えんだろ。調子乗ってんじゃねぇよ陰キャのくせして」
「……わぁったよ」
俺はため息を吐いて、いい加減冷めそうな学食を片手に教室を出た。
俺に友達がいない理由はわかるが、あいつに友達がいる理由はわからない。成績は中の下、サッカー部で運動ができる種族だが、身体能力は俺とほとんど変わらない。
俺への当てつけなのが丸見えである。ああいう人間は何らかの形でマウントを取って自分が上にいることを何度も何度も確認しないと死んでしまうやつらだ。
俺は教室から地下一階に戻って、食堂前の食事スペースで飯を食うことにした。学校支給のタブレットを立てかけワイヤレスイヤホンに繋ぎ、BuzTubeで音楽を流しながら割り箸を割る。
「
生姜焼き美味いな。今日のは若干味が濃いが。
「
ご飯冷めたわ。京極め。
とんとん。
左肩を叩かれる。
小さくて細い指先の感覚。振り返らなくても女子だと分かった。
俺はイヤホンを外して手の主を振り返った。
「ん?」
「な、凪崎、君っ……」
か、可愛い。
ひどい言語力だが、一目見てそう思った。小さな顔が毛先の整えられたボブカットの中に収まっていて、顔のパーツもその一つ一つが模範解答として並んでいる。
「ど、どちら様?」
上履きは青色だから、同じ学年か。でも、見たことない。
「いや、そのっ……隣、いい?」
まとも男子と話すことに慣れていないのか、変にタジタジしながら空いている俺の隣を指差す。
「い、いいよ。気にしないし」
そもそもここは食堂だし俺は見るからに一人で食事してるから、いちいち許可なんて取らなくても何も言わないのだけれど、礼儀正しい子なのかな。
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに微笑んで俺の隣におぼんを置いた。可愛らしいその雰囲気とは反対にそのおぼんに乗っているのは担々麺だった。昼からなかなか重いものを食べるんだなぁ、とそのギャップに内心驚く。
それより。
「なんで、俺の名前知ってるの? 俺は、君のこと全く知らないんだけど……」
「えっ、あ、やっぱりそうだよね……」
「え? ごめん、なんか俺めっちゃ失礼してる?」
実は面識があって俺が忘れているだけなのか?
「い、いやっ。ほら1年生の時、芸術選択が同じだったから、そこで」
「あ、あぁ」
覚えてねぇぇ! 芸術選択は書道だった。3クラスが合同で授業をするわけだが、俺のクラスではない2クラスの方にいたのか。そもそも、書道の授業中に他のクラスに気が行くことなんてない。自分のクラスでさえまともに話す人いないのに。
「よく覚えてるね。俺、他のクラスの人なんて全然名前覚えてないよ……? ごめん、君は何て名前?」
よく考えたらここで名前を聞いて何になるかと言えば何にもならないのだが、相手にだけ自分が知られてるのも心のしこりだ。
「な、
「長岡……クラスは?」
「一組。去年は四組だった。って言っても覚えてないよね。ご、ごめん気にしないでっ。いただきます」
長岡は静かに手を合わせて割り箸を割った。顔を隠そうとする髪の毛を耳にかけて割り箸でつまみ上げた麺に息を吹きかける。その一つ一つが絶え間なく動画でとても綺麗な動きだった。
「沙奈って、可愛らしい名前だなっ……」
「っ!?」
長岡は口に運んだ麺を吹き出した。坦々スープの赤が夏服のワイシャツに飛び跳ねて、首元を染めてしまう。
「あぁ大丈夫っ?」
俺は咄嗟にポケットからティッシュを取り出した一枚引き出し、彼女の患部へ押し当てた。その刹那にそれが女の子にとっての絶対領域であることに気が付く。焦ってその結界を破壊した自分にも。
「っ……!」
「あ、ごめんっ。じ、自分で拭く、よね……」
「ううんっ。だ、だだっ、大丈夫……」
彼女は首を横に振ってティッシュを受け取った。耳にかけたはずの髪は恥ずかしさを隠すように垂れ下がっている。
「ほんとにごめん」
ティッシュ越しとは言っても、その柔らかさに安易に触れることなど許されてはいないものだ。不可抗力であったとしても痴漢として吊るし上げられてしまうことだってあるのだから。
「凪崎君が、いきなりかわいいとか言うからっ……こほっ、こほっ」
「え?」
まさか、声に出ていたのか。
「あ、あぁごめん。でも本心だから。とってもいい名前だと思うよ。長岡さんに似合ってて」
「あ、ありがとうっ」
彼女は柔く持ったティッシュの向こう側で恥ずかしそうに笑った。
心臓が肋骨を突き破りそうな笑顔だった。
「でも、ごめんね。制服汚れちゃったし……」
「大丈夫。もともと夏服で担々麺なんて結構チャレンジなんだよね。食堂にもエプロン導入してくれたらいいんだけどな」
「お昼から坦々麺って、結構がっつり食べるんだね」
「か、辛いのが好きだから。それに今日はいっぱい食べたい気分だったし」
恥ずかしそうに俯く彼女。
「そうなんだ」
「あんまり、たくさん食べる女の子は、嫌?」
「別にそんなことないよ」
俺も生姜焼きを口に運んだ。会話を止めたかったわけではなくて、むしろ逆だった。もっと彼女と話がしたいから、何を話そうか考えるためだったのだ。
もっと彼女の声を聞きたいと思った。
気付けば京極に教室を追い出されたことなど忘れて、彼女と昼休みの時間を費やしていた。お互い食事を終えて食器や容器を片付けても教室に帰ろうとせず、テーブルに戻って時間いっぱいまでいろんな話をした。
学校のこと。勉強のこと。部活のこと。
「ね、ねぇ凪崎君っ……」
「うん?」
「きょ、今日さ、一緒に帰らない?
千駄木は学校の最寄り駅の内の一つだ。俺は日暮里を経由して家に帰るから
「うん、いいよ。今日は部活ないから、ホームルーム終わりに」
その誘いに心の中に反して変に無機質な返事をしてしまった。それでも彼女は優しく笑った。
「やったぁ。じゃあ下駄箱で待ってるね」
授業開始5分前のチャイムが鳴る。賑やかな食堂にも教室へ戻ろうとする生徒の波が出来始めた。
「じゃあ、遅れちゃうからっ。またねっ」
「うん、また」
小さく手を振って階段を上がっていく彼女の小さな後ろ姿を、俺は
◆次回予告
第十三話 名前 2020年11月17日午後10時公開
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