第十話 変数的恋愛表示

「昨日はどうだった? 湊」


「え? 急に?」


 木曜日の書店の朝。俺は湊に悪戯いたずらっぽくにやけて見せた。


「ラブラブした?」


「……ご想像にポイするよ」


「なんだいな!」


 湊は段ボールに張り付いたガムテープを剥がしながら、ふふっと微笑む。


「昨日、葵が肉じゃが作ってくれたんだよね」


「お! 美味しそうな話だな」


「世界で一番美味しかった」


 おいおい満福まんぷくかよ……。


「葵ちゃんは、料理得意なの?」


「んー本人は苦手って言ってるけど、全然そんなことないんだよね。苦手な人とは考えられないような料理作ったりしてるし。そうだな、この間だと……トロピカルカレーとか?」


「トロピカルカレー!? なんだそれ初耳なんだが」


「なんかね、すごいんだよ。パインアップルくり抜いてそれお皿にして……」


「もうやべぇのわかったわ」 


 俺は積んである段ボールを担いでレジ裏から出た。開店前のフロアに段ボールを置いて、本棚の隙間を埋める作業に映る。しばらくすると湊も同じようにレジ裏から出てきた。


「女の子と同棲、いいよなぁ……」


「そうだね。四六時中一緒にいるとかえって辛いっていう人もいるみたいだけど、僕はむしろ寂しくならないからいいかな。何より夜一緒に寝れるのがいいよね」


 ロマンチストかよ。


「夜、一緒にね」


 家に帰った時の匂い。洗面台のコップに刺さった二本目の歯ブラシ。風呂場にかかった真新しいナイロンタオル。


 俺の部屋も居候のために誰にも知られずに色替えしたが、環境の変化というより女の子と同棲するということの魅力を丹田たんでんのさらに奥底で感じ取っているような気がする。


 じゃ、全然感覚が違うんだろうけど。


「もし帰って、不意にいなくなってたら……」


 俺はほとんど無意識に物騒なことを口走る。


「死んでも探し出すよ」


「え?」


 湊は気配を変えた。その声色からは、強い決意の匂いがした。


「もし誰かが葵を傷つけるようなことをしたら……」


 彼は本の背に人差し指を立てて、本棚の隙間へ押し込んだ。カツン、を音を立てて、それは車庫ガレージに収まった。


「絶対に、許さない」


「湊……」


 俺の声で彼はぱっと我に返ったように顔を明るくした。


「まあ、誰かを好きになるってそういうことじゃないかなっ。一歩間違えたら束縛ヤンデレだけどね」


「両想いだからこその愛情と絆みたいなものか」


「凪が書いた今回の脚本みたいだね」


「え? あ、あぁ……」


 その通りかもしれない。湊はもう一通り目を通したのか。


「凪ってさ、自分は恋の色消してるくせに、結構いい恋愛描くよね。もちろん描写力もそうなんだけどさ、不思議で仕方ないよ」


「そうでもないだろ。俺の脆弱ぜいじゃくな恋愛経験からの引用に過ぎないさ」


 俺は力なく笑いながら首を振った。


「でも、無いことないんでしょ? 少なくとも一度は、誰かを好きになったんだからさ」


「好き、ね……」



 翔太はすごくいい人だったから、私は忘れたくないっ。



「元気にしてるのかな、彼女は」


「……元カノ?」


「あぁ。高校の時に付き合ってた。恋人は、後にも先にも……」


 湊は空になった段ボールを床に置いて、二つ目を開けた。


「後悔してるの? 別れたこと」


「後悔はしてないよ。俺がフラれただけだからさ。どれもこれも全部、俺の力不足だったんだ」


 きっと、すべからくしてそうなった。そういう恋だった。


「どうだろうね。恋愛の一番の特徴は、人間が、擦れ合うことにあるからさ」


「……先生?」


「それ、高校の同級生に言われたこともあるけど、あくまで僕の持論だよ」


 彼は鼻から軽く息を抜いた。


「男女であろうと、足立あだち区が滅亡しようとその仕組みは変わらない」


 そのネタ、5年も前のじゃねぇかよ。


「友達も、恋人も、家族も。人間同士の関係はいつだって、関数じゃないんだ。無差別な犯罪以外、片方に原因が全部帰着することなんてない。片方の変化がそのまんま相手をたった一つに決めることなんてないんだよね」


「俺も湊も、それぞれ時間を媒介変数にして心を表示してるってことか」


「そういうこと。ちなみに座標平面上にハートを作図するのは、関数だとできない」


 湊は反対側の壁に向かった。


「お前なんで理数系の学部行かないんだよ。語彙力が理系に寄ってんだよな」


 湊は心理学部の映像音響心理学科というところに在学している。映像音響という名はそれっぽいが、中身は完全な文系学科だ。


「数式はこの世界の星雲状態カオスに規則性を付与して記号化しただけのものだからさ。美学的な価値を見出したらキリがないけどね。たとえ人の心に数学の概念は反映できても、体系化することは難しい。別に数学は得意だけど、他に好きなものがあるから」


「葵ちゃん?」


「もちろんだよ」


 俺の冗談に湊は大げさに頷いた。


「凪の元カノも、彼女特有の心の媒介変数表示を持っていて、それは時間と共にいろんな形に変わって行って、凪の心の表示と重なり合った。それが一瞬だったとしても、重なったことは事実としてある」


「……何が言いたい?」


「凪から出てくる言葉は、その軌跡から生まれたものだってこと。恋愛に関してもそう。有無だと差が出るけど、有の中だったらどれだって尊いものなんじゃない?」


 それは、リア充だから言える理論かも知れないな。


「湊はどうなの? 葵ちゃんと人生のほとんど一緒にいて、結婚とかは考えたりしないの?」


「するよ、もちろん。きっと何もしなくても、そうなるような気がする。もちろん今の僕じゃまだ足りないところだらけだけどさ。今はただ、愛したい人を愛していたいかな。結婚はわかりやすい目印でしかないから」


「時間極限を無限とした時に、ある二つの変数が互いに同じ値に収束すること、また社会・戸籍的な制限を持って収束させることを、人間は結婚けっこんと呼んでいる、ってか?」


「文系置いてけぼりになりそうな概念だね」


 大輝だったらポカーンとして聞く話なんだろうなぁ。


「俺も一応文系なんだけどな」


 湊は笑った。


「制限っていうのは、どうしても正解じゃない気がしちゃうね」


「いや、どうだろうなぁ。この世の結婚なんて、ほとんど制限みたいなものだろ。実際には家族ごっこにも満たない家族だっているんだからさ。男は身体おんなが好きで、女は金が好きで……。仮面世界は、お互い制限し合って生きてるようなもんだし」


 純愛が描かれる物語に人々がたかるのは、この世でそれが崇拝される存在になりうるほどあまりに綺麗なものだからだ。


 希少レアなのである。


「足立区どころか世界ごと滅びちゃうんじゃない?」


「足立区滅びるのが一番平和だったりしてな」


 空箱になった段ボール。


 不意にポケットの中のスマホが揺れた。


「ちょい失礼」


 俺はレジ裏に駆け込んで応答する。


「もしもし?」


「もしもし、荒川あらかわ警察署の西川にしかわです。凪崎翔太様の携帯電話でお間違いないでしょうか?」





「いやいやごめん。ちょうど開店の時間だったんに」


 レジ裏から戻ると、ちょうどフロアは開店していて湊はレジに立っていた。


「大丈夫だよ。どうしたの、電話。……彼女?」


「ちげぇよ。いねっつぅの」


「いつもの福岡ふくおかくん?」


 大輝でもねぇよ。 


「警察だよ。警察」


 湊はぎょっと目を見張った。


「え? なんか犯したの?」


「俺じゃねぇよ。犯されたの。犯されたってなんか変な言い方だけどさ」


「……あんまり深くは聞かない方がいいね」


 湊は前方に視線を流した。


「いや、そんな大したことではないんだけどさ。俺の家に不法侵入されたって話」


「大したことじゃん」


「いや、元は俺の不注意なんだけどな」


 ラミを守った時のものだ。あの時は何も被害はなかったが、このまま放っておくのは俺もラミも危険だから後から警察に相談したのだ。あの男は同じ集合住宅の住民にも色々聞いて回っていたと言っていたから、身元の特定は比較的簡単かもしれないと思って懸けてみたのだが。


「容疑者特定して任意同行求めたらそのまま公務執行妨害でこれだって」


 俺は両手を握って手首を晒し上げた。


「え、ほんと? と、とりあえず、捕まってよかったね」


「特定早かったなぁ。あっちゅう間に見つかっちゃうんだな、今の世の中」


「凪は何かしに行かなくていいの? 警察」


「あぁ、行くよ。今日のシフト午前で終わりだからその後すぐかな……。またすぐ帰れねぇのかよ俺」


 開店早々ため息を吐く俺。


「湊も気をつけろよ。お前も守らなきゃいけねぇ人いるんだから」


「僕、?」


「え、あ? 俺今、も、って言ったか?」


「言ったよ」


「ごめんごめん勝手に盛ったわ」


「口腔防犯から始めなよ」





◆次回予告


 第十一話 はしゃぐ  2020年11月8日午後10時公開

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