第六話 覚え
俺は冷水で絞ったタオルをラミのおでこに乗せた。彼女は冷たそうに眉をぴくっと動かして、それからすぐに荒い呼吸に意識を切り替えた。
体温計が指したのは40.4℃。インフルエンザでもそこまで上がることは珍しいくらいの体温だった。しかもほんの数分でこの体温まで上昇したわけだ。何かの病気というよりも摂血族だからこその何か、もしくは食中毒の類を疑うのが自然である。
カレーか? 俺には体調の異常はないが……。
「ラミ」
俺は耳に軽く響くように彼女の名前を呼んだ。
「んーんっ……」
彼女に握られた俺の手は、指先を立てられて彼女の口の中へ差し込まれる。
本日二回目のちぅちぅタイム。
「っ……」
「ん? 何?」
俺は彼女の口元に耳を当てる。
「おみず、くださいっ……」
水か。
「わ、わかったっ。ちょっと待ってて」
俺は立ち上がって、キッチンへ向かった。冷凍庫からブロックアイスを取り出してコップに数個移し、そこに天然水を注いでラミの元へ戻る。氷がコップにぶつかってカラカラと音を立てた。
「持って来たよ。少しだけ上体起こせる?」
こくっと首を縦に動かす彼女の背中を支えて、少しずつ起こす。手に持ったグラスの淵をピンクが濃くなったラミの唇につけて彼女の手を添えると、彼女はそれを小さな両手で持ってくぴくぴ飲み干し始めた。
「大丈夫そう?」
「は、はいっ……」
辛そうな表情は変わらないが、声色ははっきりしてきた。
「ごめんなさい。あの、食べられないんですっ」
「え?」
カレーのことだろうか。
もしかしてほんとは苦手で、我慢させて食べさせちゃったとか?
「人間のたべものって、すごく体に合わなくて、食べると、こう、なるんです……」
「体に、合わない……? 血液以外は、食べるとよくないの?」
血液だけで十分というのは、そういうことだったのだろうか。
彼女はうん、と頷いた。
「ご、ごめんっ。無理させちゃってた……! 言ってくれればよしたのに……」
「い、いえ……しょ、しょーたさんといっしょに、たべたかったからっ……」
彼女は消え入りそうな声でそう残した。
「なんで……」
俺はすっと眠りにつく彼女の頬に手を当てた。
心の中に、覚えが芽生えて、綿毛が浮かんでいく。優しく唇に触れるような柔らかさで、水色に溶ける。
枕元に避難しておいた、彼女にあげた丸眼鏡。
ラミの呼吸はすっと軽くなった。体温は依然として高いままだ。時間が経てば治るのか、それとも何かをしてあげなくちゃいけないのかはわからない。
ただ見守ってあげたくなった。彼女が元気になるまでその手を握ってあげたくなった。
なぜかはわからないまんまだ。
夏。
制服。通学鞄。白線を叩く革靴の音。
塞ぐもの。
聞こえなくなった蝉の聲。
「……たさん」
かすかな汽笛。
「しょ……さん」
「
背中を押す手。貫通する死の大砲。
「しょ、翔太さんっ」
「――――っは! はぁ……はぁ……」
引き戻された先は、部屋のベッドの
「大丈夫ですか……?」
「あぁ……ラミこそ、もう、大丈夫なの?」
彼女の手を取ったまんま、いつの間にか寝ていたのか。夕方の5時を回ったところまでは覚えているのだが、いつの間にか時計は午後8時を指している。
「はい。だいぶ、よくなりました……」
そうは言うけど、なんだか滑舌が覚束ない。舌足らずでとろみのある声だ。
「そっか、ごめん。俺の方が眠くなっちゃって……」
俺はベッドから頭を離した。
「すごく、苦しそうでしたよ」
「俺が?」
「はい。だから心配になって……」
一つ深めに息を吐いた。
「なんか、すっげぇ嫌な夢見た」
「夢、ですか?」
「うん」
立ち上がって、ラミに手を差し出す。
「でも大丈夫。立てる? ラミ」
「あ、はいっ」
彼女はその手をきゅっと握って、ゆっくり立ち上がった。途端に足元をふらつかせて俺に抱きつくように倒れる。
「ご、ごめんなさいっ」
「大丈夫? まだ横になってる?」
「だ、大丈夫ですっ……」
人間の食事を摂っただけでここまで身体がおかしくなるのか。身体は人間の同じだから、普通の食事から栄養を摂取すること自体は可能なんだろうけど、これじゃ毒物食べてるみたいなものだな。
「あの、翔太さん」
「ん?」
「お、お風呂……借りてもいいですか。ちょっと、汗かいちゃって、気になるので……」
赤く染まった顔が、恥じらいから来ているのか高熱から来ているのかはわからない。
「あ、うん、大丈夫。そうだね、昨日入っていなかったもんね」
とか言っても、彼女から汗臭さなんて全くしなくて、昨日と同じかそれ以上のいい匂いがする。一緒に寝た時もその匂いのおかげで大変寝心地がよかった。
摂血族の匂いは人間にはいい匂いに感じるとかあるのだろうか。人間の男性と結ばれるようにならなきゃいけないという特徴上、そういう効果があっても納得できるような気がする。生き残るための特性みたいなもので。
「歩ける? 危なかったら手握ってていいよ」
「はいっ」
俺は彼女の手を取って、リビングを抜けてお風呂場へ向かった。
玄関から入ってすぐ隣にある洗面洗濯付き脱衣所とトイレ、さらにその奥のお風呂場。割引されて6万円ちょっとになった家賃が安すぎに見えるほど、二人になっても不自由がない。選んだ時もそう思ったが、間違いなく神物件である。
「はいお風呂。着替える時はそこの扉閉めてね。鍵もかかるから。そこ出るとすぐ玄関だからさ、もしかしたらお客さんとか来るかもしれないし」
「わかりましたっ。ありがとうございます!」
彼女はぺこりと頭を下げた。
「後は、一人で大丈夫?」
大丈夫じゃなかったとしても一緒に風呂に入るなんてかなり無理があるが。
「大丈夫です」
「わかった。じゃあね」
俺はラミに手を振って脱衣所のスライドドアに手をかけた。彼女も嬉しそうにこちらに手を振り返す。可愛らしい。
って何だよこれ。カップルみたいに……。
俺はリビングに向かってコーラをコップに空けた。昨日のラミの突撃で飲み損ねてしまったからだ。効いた冷房に喉が鳴る。
とりあえず、今月末の投稿分を仕上げるか。
LIMEでビジネスパートナーとのトークルームを開いた。
[
彼は俺と同い年の大学生だが、Web絵師でWeb漫画家である。結構名の売れた。もちろん〔葵〕と言うのはペンネームで、俺で言う〔 Lull 〕みたいなものだ。彼の下の本名と俺のペンネームから取った〔
元々はアニメーション制作研究会という青城大学のサークルで出会ったのだが、彼と俺のネット上での人気を見て、サークルの枠を超えた二人だけの活動をしてみたいとお互いに考えたことから始まった。
こちらの投稿は平均月二回。俺の脚本と葵の作画で漫画を作っている。
しばらくして返信が来た。俺と違ってあいつは彼女持ちだから、休みの日は一緒にどっか出かけてたりするのかと思ったが、意外と暇してるのだろうか。
[明日は午前だけ入ってる。そこで受け取るよ]
[おっけーわかった]
俺は机の上の時計に目をやった。明日は俺も朝からバイトだが、まあ間に合うだろう。
「大学のお友達ですか?」
不意に可愛らしい声が響く。
「うん。って、え?」
俺は声を振り向く。
「あ、ラミ。上がったんだ」
「はいっ。あのこれ、ちょうどあったの着ちゃったんですけど……」
彼女はどちらにしてもだぼだぼな俺の服に袖を通していた。首には真っ白いバスタオルがかけられている。
「大丈夫だよ。あ、てか荷物ないんだよね。色々買わなきゃいけないかな。いつまでも俺の服ってわけにもいかないだろうし……」
ラミはぴくりと跳ねて、慌てたように手をぶんぶん振った。
「あっ、気にしなくてもいいですよっ? 服なら、翔太さんのでも……」
彼女は俺の服の襟を両手でつかんで鼻にかざし、すうっと深く吸って吐いた。ものすごい心地よさそうな表情。
「めちゃ落ち着きますっ……えへへ」
「そ、そっか。それは、よかったけど……」
ラミは俺の向かっている机の上に目を移した。そしてそれは、グラスに注がれたコーラに固定される。
「……ど、どうかしたの?」
「いや、コーラ、良いなって思って……」
「好きなの? ってか飲めるの?」
食べ物がダメなら飲み物もダメそうな気がするけど。
「基本的には全部だめなんですけど、なんでかコーラだけは飲めるんですよっ。普通に美味しいし、好きなんです」
「え、そうなんだ」
なんで、コーラ?
「飲む? まだ残りが冷蔵庫にあるから注いであげるよ」
「いいんですか!?」
彼女はぱちっと瞬きをして、瞳を輝かせた。
欲しいから見てたんじゃないの?
「いいよ。ちょっと待ってて」
俺は立ち上がってキッチンまで行き、ラミの分のコーラを用意した。
「はいこれ。もしもダメになってたら無理しないでね。また熱出しちゃ大変だからさ」
「ありがとうございますっ」
ラミは両手でコップを受け取ると、その淵を唇に押し付けて一気にくぴっと喉に流し入れた。俺なんかじゃなくてこんなに可愛らしい子に飲んでもらえてコーラもさぞかし幸せなことだろう。
「ぷはぁ! お風呂上りが一番おいしいかもっ」
彼女は空っぽになったコップを手に目を細めた。
「確かに風呂上りの冷えたコーラは美味いな」
俺は再び椅子に腰かけて机に体を向けた。これ以上この子を見てると心の中があまりに透き通ってしまいそうだったからだ。別に悪いことではないが、自分はそんな綺麗な人間じゃない。
「あ、そうだラミ」
「はい」
「明日さ……」
◆次回予告
第七話 アルバイトの朝 2020年10月29日午後10時公開
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