俺の家に聖火が一時的に安置されることになって半年が過ぎた。


俺の家に聖火が一時的に安置されることになって半年が過ぎた。


「旅行の間預かってて」と言って旅立った彼女は、結局戻らない。もともと深い仲ではなかった。ほとんど行きずりで一夜を共にしただけの相手だが、なんやかやで絆されて引き受けてしまった。


で、結局これだ。電話は繋がらず、メッセージに返信も無い。


そういうことなんだろうな、と思う。


聖火の世話はそれなりに手間と金がかかった。朝晩、専用のオイルを注ぎ足さなきゃいけないし、定期的に芯も替えなければいけない。

どちらもホームセンターで手に入るが、バスで20分ほど掛かるし、俺は他の足も持たないのでいちいち面倒だった。それに、安くもない。聖火を引き受けてから俺の食費は確実に圧迫されて、満足に肉を食える日は週に1度ほどになってしまった。


もうこんなもの消してしまってもいいんじゃないか? だって結局のところ、五輪は開催されなかったのだから。彼の地で太陽の火を写し取って点火されたこの火は、いまや無数に分割され、全国津々浦々のご家庭に「記念品」として飾られている。


いつかこの地でもう一度五輪が開催されるときまで、火を絶やさず祈りを捧げ待ち続けよう、という、市民の自主的な呼び掛けから始まったこの運動も、いまや文字通り下火。

なにせ、あれから10年が経った。


ある土曜日に旧友のSが訪ねてきた。

いつもそうなのだが、予告なく急にくる。しかも一年ぶりとかに。俺を何だと思ってるのか。


「あれ、珍しい……?」

Sは俺の部屋に続く階段を上ってきたところで、俺は玄関を出てその階段を下りてきたところだった。

「珍しいね」とSはまた言った。


「何が」と俺は言った。


「午前中から自主的に外出なんて」


「もう引きこもりは卒業したんだ」


「あれ、じゃあ、仕事?」


「いや無職だけど」


俺はそれ以上何も説明せず歩き出し、いつものバス停からいつものバスに乗った。Sは勝手に付いてきた。


Sはひとりでペラペラ喋り続けた。相変わらず陽気な奴だった。最近の仕事ぶり、奥さんとの喧嘩、子供の反抗期、故障した家電……俺は全部、生返事で聞き流していた。


どうでもいい。こいつに嫉妬したくない。卑屈になったり気を遣わせたりしたくないんだ。


俺はいつものバス停で降りいつものホームセンターへ入ると、ひとりで買い物をするときと全く同じ足取りでいつもの棚へ行っていつもの買い物をした。店を出る。道路を渡り、来た時と反対側のバス停へ。


春が来ていた。


「何買ったの?」Sがやっと俺に質問した。


「聖火の」


「え?」


「聖火がうちにあって。火を絶やせないから」


「へえ」Sはなんとなく少し笑って、「聖火って、あの聖火?」


「そう」


「なんで? 興味あったの」


「人から預かったんだ。けどその人が帰ってこないから」


「ああ」Sはそれだけでもう了解したようで、その後バスが来て乗って走り出してしばらく経っても何も言わなかった。


窓の外に春が流れている。春は好きじゃない。みんな新しいことを始めて浮ついているし、風は生温いし、悲壮な顔をして生に食らいついているのが馬鹿みたいに思えてくる。喘息の発作が出るし。


「待って」

家の前のバス停で降りようと、降車ボタンを押そうとした俺の腕をSがつかんだ。

妙に力がこもっていて痛かった。


「なんだよ」


「今日はうちに来なさいよ」と、Sは言った。


「なんで」


「言ったでしょ、息子達は合宿だし、奥さんは飲み会。今夜暇なの」


「でも、俺、聖火の……そろそろ足さないと」


「一晩くらい、いいでしょう」


「駄目だって。消えるって」


「大丈夫大丈夫。なんとかなるって」


「適当なこと言うなよ」


バス停を通り過ぎてしまった。


俺たちはしばらく黙っていた。Sの家まではこのあと駅前で降りて電車に乗り換え、更に30分はかかる。


「……消えたらどうすんだよ」

信号待ちでため息が出た。


「大丈夫大丈夫」Sはいつもの穏やかな表情だったが、口調は妙にきっぱりとしていた。「なんとかなる。君はうちに来なさい」


「何を偉そうに」


「だって、本物はあそこにあるでしょ」

Sはそう言って窓の外の、春ののっぺりとした空を指さした。太陽がかなり高く昇って、真っ白に輝いている。


あの火は熱そうだな。

当分消えそうにない。


「まあ、そうだけどさ」

と、俺は言った。



(了)



「聖火安置コン」

ある界隈でしばしば、同じ出だしで好きな小説を書こう、というゆるい競作イベントみたいなのが突発的に発生することがあって、そのひとつです。

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