ある夏の

 遠浅の海は凪いでいた。俺は水平線にぴんと立つ一隻の船影を見つめていた。なかなかピントが合わないな。もうこの眼鏡も替え時だ。俺は裸の上半身に掛けていたショルダーバッグから眼鏡ケースを取り出して、溜息を吐いた。


 俺が眼鏡を一段階度数の高いものに替えた直後、彼女が砂を散らして歩いてきた。


 着替えに行くと言って公衆トイレに入ったはずなのに、さっきと同じ格好のままだ。ズボンともスカートとも付かないボトムスに、セーターともブラウスとも付かないトップスを着て。コンタクトを付けてくるはずだったのに、まだ大きな縁の眼鏡のままだったし、髪をアップにすると言っていたのに、まだ肩下まで下ろしたままだった。


「お前」と俺の恋人は不機嫌そうに言った。「タンポン持ってない?」

「ありますけど」俺はショルダーバッグをまさぐった。

「あるのかよ」彼女は呆れた風だった。「どういう人生観してんの?」

「だって、げんに、今あなたはタンポンをくれと俺に」

「変態」彼女は俺の手から小さな箱をもぎ取って、元来た道を引き返していった。

「生理か……」俺はぼそっとつぶやいて、また水平線に目をやる。


 ちなみに俺のショルダーバッグには、五種類の生理用ナプキン(普通の日昼用、多い日昼用、普通の日夜用、多い日夜用、少ない日またはおりもの用)も入っている。


 しばらく待たされて、彼女はようやく予定通りの格好で出てきた。ワンピースの花柄の水着から伸びる色白の素足に、俺はまぶしさを感じる。もう今すぐ夜になってしまえばいいのに。押し倒してえよ。


「その視線、エロい」彼女は切って捨てる感じで言った。

「でもお美しいですから」

「ねえそのカバン、貴重品も入ってるの?」

「はい」

「じゃあ泳ぐ時どうすんの」

「カバンと一緒に泳ぎます」

「変態」

「防水ですから」俺は今、とても満足だ。


 俺と彼女はそれから泳いだ。ショルダーバッグは、俺は手放したくなかったが、彼女がどうしてもと言うので砂浜に置き去りにした。貴重品なんてそんなに入ってないんだが、タンポンとかコンドームとかナプキンとか取られたら、というか、見られたら減るような気がして俺は気が気じゃなく、泳ぎながらも何度も砂浜を振り返った。


「そんなに気になる?」十三回目に振り返った時、彼女にそう聞かれた。

「え、何がですか」

「ごまかすな」

「カバンの事なら」

「やっぱりカバンが気になるんだ」彼女は、膝丈ほどの水をしなやかな足でばしゃりと蹴立てて俺に浴びせた。


 俺は眼鏡についた水滴を指でぬぐった。そして思わずまた砂浜のショルダーバッグを振り返った。十四回目。


「誰も来ないから」彼女は諭すように言う。「誰も来てないでしょ?」

「分かりましたよ」

 それからまた俺たちは水を掛け合って遊んだ。でも俺はやっぱり、ショルダーバッグが気になって、彼女に気付かれないように横目でちらちら見た。


 彼女はなかなか水浴びに飽きなかった。いつの間にか遠くまで泳いで行って、俺に手を振っていた。俺は膝丈の水の中に立ったまま、ぼうっとそれに手を振り返した。それから、なんか変だと思った。彼女の手の振り方が必死すぎるのだ。ああ、足でもつったのかな。


「馬鹿だなあ……」


 遠浅とはいえあそこまで行くと足が立たないだろう。それくらいの深さになると、ちょっとの事でも溺れてしまう。俺は、ショルダーバッグの所へ引き返してフィンを取って来ようかと思った。その方が速く泳げるかも知れない。でも、気付いた時には俺は生身で泳ぎ出していた。沖に向かって、彼女に向かって。俺は泳ぎが上手くなかった。ぜんぜん前に進めなかった。一時間も二時間も泳いだような気がした。そうしてようやく彼女の所にたどり着き、沈みかけていた彼女の腕を取って、ともかく足の立つ所まで引き返した。泳いだのか、歩いたのか、どうやったのか、覚えていない。彼女はいっぱしの少女になって泣いていた。


「ほら、泣かないでくださいよ」俺は水を掻き分けながら彼女の背中を叩いた。「そんなに泣くと、空気がある所で溺れてしまいますよ」


 彼女は滅茶苦茶泣いていたが、足の引きつりは治まったらしく、徐々に水が少なくなって、砂浜に着く頃には軽いすすり泣き程度にまで静かになった。


「湿布を貼ってあげますから」俺はショルダーバッグを探して砂浜を見回した。でも、どこにも無かった。

「あれ? 無い?」彼女ももうだいたい泣き止んで、心配そうに俺を見た。

「無いですね」俺は一瞬だけ途方に暮れて、小さな午後の砂浜を、ぼんやり眺めた。

「どうしたんだろ、流されたのかな」彼女は囁くように言った。そして、ひどく気遣わしげな目で俺をそっと見た。


 そんな顔するなよ、可愛いじゃないか。


「あんなに大事にしてたのに……ごめん、私」

「いいんですよ」と俺は言った。彼女を抱きしめた。「また買えばいいんですよ、タンポンなんて」

「いや、カバンを、でしょ?」


(了)


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