掌編置き場

森とーま

109号室で、夜

毎晩寝る前に私は麦茶を仕込みます、と言ってもボトルに水道水を入れて水出しパックを一つ入れるだけです。このボトルを冷蔵庫で一晩おくと、1リットルの麦茶ができます。それを翌朝から一日かけて飲むのです。朝に一杯、昼に二杯、おやつに一杯、夕食に一杯、寝る前に一杯、そして空になったボトルをまた仕込んで寝ます。


だんだん夏になってきましたんで夜中に暑くて目が覚めます。夜一時くらいに飲む麦茶はまだ水っぽくそれほど冷えてもいないけど。7月31日も夜更けにのどが渇いて死にそうになって冷蔵庫へ、はって行った。


麦茶のボトルには、底の方に2センチほど液体が入っていた。あと、しぼんだパックが入っていた。は!?


私は飲んでしまったのか、すでに。これより前に起きていたのは、寝る前に麦茶を仕込んだ時で、その時は確かに9分目まで水を入れた。飲んだ覚えはない。夢遊病だろうか。私は病気になったのか。なんだ麦茶を無意識に飲む病って!?


というようなことが7日間続くと、だんだんそれもルーチンになって、朝に麦茶を仕込みなおすようになり、慣れてしまって気にしなくなった。しかしパックの減りが2倍になってしまった。


そして8月も下旬のある夜、私は麦茶のかわりにプレミアムモルツを3缶飲んで眠ってしまった。はっと気づくと真っ暗なリビングでほとんど倒れていた。


冷蔵庫が、リビングに続くフローリングのキッチンの端でブーンとうなった。私の目が見開かれた(ような気がした)。


冷蔵庫が開いている。内部灯が光のすじを床に作って、向こうの壁に届いている。


その光をまだらにさえぎる猫背の影が、冷蔵庫のポケットに鼻づらをつっこみ、じゅるじゅるじゅると何か飲んでいた。


「おい」私は怖がるよりも腹が立ってしまった。立ち上がった。「ひとんちで何くつろいでやがる」


ヌッと振り向いた小さな人影は、顔は逆光で見えなかった。ただつぶらな目がひとつ光っていた。もう片方は分からない。


「やいなんとか言え」


「見られてしまったからには仕方ない」影はぼそぼそとした男の声で言った。


「なんだと、やる気か!」


「いや、もう来ない」のっそ、のっそと影は歩き出した。ながーいしっぽを引きずって、リビングを横切り、間仕切りカーテンの向こうへ消えた。玄関のドアが開いて閉まる音がした。開け放しだった冷蔵庫が、ピーと警告音を出した。私はしぶしぶ歩み寄って冷蔵庫の扉を閉めた。部屋は真っ暗になった。


残暑は弱まり、私はその日以来、麦茶を作るのをやめた。あいつに飲まれるのもしゃくだったが、もし作っても、朝になっても、一滴も減っていなかったらと思うと、そちらの方がずっと耐えがたいような気がした。


眠れない夜が多くなった。物音ひとつしない静かな集合住宅の一室で、以前は確かに私は、常に何かの存在を予感しながら、なまあたたかい毛布のようなそれにくるまってぐっすり眠っていたはずなのだが。



(了)

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