第三章 第二節 野獣の独奏

「待ってよ! バイト君!」


 繁華街で追いついてきたエカさんと歩道の真ん中で立ち話が始まる。周囲を行き交う酒臭い人たちは痴話喧嘩を見るような視線を向ける。それなのに関わりたくないのだろう。足早に去って行く。

 いつもなら公衆の面前でこんなこと恥ずかしくてできない。しかし俺たちは今、酒も入っているし何より興奮している。周囲の目を気にする余裕はなかった。


「なんすか?」


 エカさんに腕を掴まれたところで俺は振り返っていた。


「気持ちはわかるけどやり過ぎだよ」

「気持ちはわかるって、あんな場で俺の大事な思い出を笑いのネタに提供しといてよく言う」

「そんな……私が悪いの?」


 エカさんは眉尻を垂らす。エカさんに対しては完全に俺の八つ当たりだ。そんなことはわかっている。それでも興奮状態の俺のメンタルが理解をするのには時間がかかる。


「私もあの場であんなテンションの時に言うべきじゃなかった。ごめんなさい」


 エカさんは素直に謝った。しかし俺は謝罪を求めていない。余計に自分が惨めになる。つい今しがたの自分の八つ当たりを棚に上げてそんなことを思う。

 エカさんはバッグを肩にかけ、今では両手で俺の腕を掴んでいる。心配を隠さず俺を見上げるその表情も俺にとっては胸に痛い。


「カナメも悪いと思う。酒癖が悪い人だって聞いたことあるし」


 やっぱりか。それに対しては予想通りだ。


「けど手を出したらダメ。謝りに行こう?」

「なんで俺が?」

「もうバンドに戻れなくなっちゃう」

「向こうが戻ってくるなって言ったじゃないすか?」

「あんなの売り言葉に買い言葉みたいなもんでしょ?」


 俺が手を出したことを売り言葉に置き換えるなら確かにその表現も正しい。エカさんはどうしても俺の方に謝らせたいらしい。しかしそれも面白くない。


「カナメだってお酒抜けて冷静になればわかってくれるよ。だから今は手を出したバイト君が謝りに行こう?」

「嫌っすよ。俺からは絶対謝らない」

「なんで……」


 エカさんの目から涙が零れた。なんで泣くんだ。俺は唯先輩の期待が乗ったベースと、憧れていたダイヤモンドハーレムをバカにされたのに。なんで俺の気持ちを庇ってくれないんだ。


「とにかく俺は謝らない。今日は帰ります」


 エカさんの手を離すと俺はエカさんに背中を向けた。


「待ってよ!」


 エカさんは俺についてきた。


「今日はもう私も帰る!」

「別にエカさんは残ればいいじゃないですか」

「どうせ終電近いし。帰り道が分かれるところまでなら問題ないでしょ?」


 本音を言えば今は1人になりたい。しかしエカさんがまだ一緒にいてくれることに喜びを感じる。これも間違いなく本音だ。この相反した2つの感情の同居に俺は困惑した。

 しかし投げやりな俺の感情に倣って、そしてエカさんの思いは虚しく、俺のオーロラのクビは確定になった。メンバーのグループラインは外され、ブロックもされた。


『なんてことしてくれんだよ、クソガキが。これ以降、メンバー全員お前はブロックだから』


 ドラムのヤスから来たこのメッセージが決定的だった。リズム隊としてこれから少しずつ分かり合えるかもしれないと思っていた彼からのこの言葉は、さすがにショックだった。


 暗いはずの雰囲気なのに、エカさんを泣かせたはずなのに、その泣かされたエカさんは帰りの電車の中、無理に明るく雑談を振った。どこまでお人よしなんだ、この人は。

 しかし今日のことでさすがに疲れたのか、途中からエカさんが眠ってしまった。夜遅めの電車は空いていて、長椅子式の車両に俺たちは隣り合って座っている。備糸駅への遠回りをしない限り俺の方が先に電車を降りるのに、エカさんが俺に頭を預けて眠るから俺は自分の下車駅を乗り越した。


「まぁ、いいか。今の時間はバスもねぇし」


 交通に不便な町に住んでいるので、本来なら下車駅からバスで15分ほどかかる。この日はスクーターも家に置いてあり、帰るためには兄貴か親に車で迎えに来てもらわなくてはならない。けど荒んでいる俺はエカさんの柔らかさに甘えて結局備糸駅まで来てしまった。


「はっ! ごめんなさい!」


 起きた時のエカさんは、それはもう驚いていた。俺が帰れなかったことに凄く恐縮していた。けれどここまで来てしまって仕方がないので、2人で駅を出た。時刻は23時を過ぎている。


「送りますよ」

「ううん、いい。私が寝たせいでここまで引っ張っちゃったから」

「いや、でも……」

「ヒナに迎えに来てもらうから。それで納得して?」


 この日のエカさんは頑なだった。ここまでは俺を離さなかったり、けどここからは突き放したり、浮き沈みが激しい。もちろん俺のせいでメンタルが乱れているのだろうが。結局ここで俺はエカさんと別れた。

 しかしどうしようか。過ごし慣れた街とは言え、こんなところまで来てしまった。俺は行く当てを探った。と言うか、行く当てなんて1つしかない。ゴッドロックカフェだ。


 しかしそこで俺は思わぬ再会をする。俺の代役に大和さんがいることは知っていた。だから彼の場合は「思わぬ」ではない。なんとカウンターの端席に唯先輩がいたのだ。


「唯先輩!」

「あっ! 倉知君! 久しぶり!」


 店に入った俺は呆然と突っ立ってしまった。心臓が暴れて落ち着かない。なんで唯先輩が……。


「座れよ」


 そう言ったのは穏やかな笑みを浮かべた大和さんだった。カウンターの中にいる大和さんは唯先輩の隣にコースターを置く。俺は緩慢な動作で席に近づくと、ベースを置いて唯先輩の隣に座った。他に来客はない様子だ。


「何飲む?」

「えっと、ウーロン茶」

「久しぶりだね」


 大和さんにオーダーを伝えると唯先輩が俺に笑顔を向けた。綺麗だ。本当に綺麗だ。長い黒髪に思わず見惚れるスタイル。清潔感があって品がいい。

 しかし俺の思い出に残る高校生の時のあどけなさはない。当時から落ち着いていて大人っぽいとは思っていたが、あくまで高校生の中ではという認識だった。しかし今の唯先輩の雰囲気は子供っぽさを全く感じさせない。

 褒め言葉として実際の年齢よりも大人に感じる。そして俺に向ける余裕のある表情や口調からまったく人見知りをしない。これも高校生の時とは違う。半分だけ俺の知っている唯先輩ではないようで、どこか寂しくも感じる。


「はい、ウーロン茶」

「倉知君、乾杯」


 大和さんが俺のドリンクをカウンターに置くと、唯先輩からグラスを掲げられた。まだ唯先輩の存在に現実味がない俺は慌ててグラスを上げる。


「さっきまでは高木さんもいたんだけどね、明日仕事だからって帰ってからは私1人」


 グラスを置くと唯先輩はそんなことを言った。高木さんとは常連客の中年男性だ。

 唯先輩の顔をマジマジと見ていいのかもわからず、俺はカウンターに視線を落とす。唯先輩の細くしなやかな指はグラスを包んでいた。


「酒っすか?」


 俺からやっと出た雑談はこんなものだった。


「うん、先月20歳になったから」

「訓練したもんな」

「大和さん、それは……」


 大和さんが口を挟むと唯先輩が狼狽えた。


「訓練って?」

「唯は高校生の時に酒の誤飲でやらかしたことがあって」


 俺の質問に大和さんが笑って答えてくれた。唯先輩は恥ずかしそうに回答を引き継ぐ。


「今はメンバーと一緒に住んでるから、翌日のお仕事に影響がない時とかお酒に付き合ってもらってるの。大学やお仕事の付き合いで飲めないのは何かと不便だから」

「へー、じゃぁ飲めるようになったんすね」


 ダイヤモンドハーレムのメンバーはもうみんな今年の誕生日は来たのだろうか? まだなら19歳のはずだが、まぁ、そんな野暮な質問はいいや。家の中でのことみたいだし。


「飲めるようには……」


 すると唯先輩は言葉を濁した。


「ん? 今飲んでるのカクテルっすよね?」

「うん。甘めのお酒を1杯くらいなら」

「それ1杯目っすか?」

「ううん。お酒とソフトドリンクを1杯ずつ交互に飲んでるの。それでなんとか」

「なるほど。しかし今日はなんで?」

「あぁ。大和さんがこっちに行くって言うから一緒について来ちゃった。久しぶりにこの店に来たくて。今日は実家に泊まるの」


 俺の出勤じゃない日に勿体ない。とは言え、大和さんはその俺の代役だからどうしようもない。それでも閉店間際、会えて良かった。


「他のメンバーは?」

「古都ちゃんはソロで地方局のラジオ出演が入ってる。美和ちゃんは途中まで一緒に来たんだけど、明日弟さんの応援があってそのまま甲子園に行った。のんちゃんは大学のレポートの追提出で夏休み一部返上だから東京にお留守番かな」


 それで他のメンバーはいないのだとわかった。これまで数回ダイヤモンドハーレムは帰省中に来店しているそうだが、そもそも俺は夏休み中ではない普段、週3回程度の出勤だから出くわしたことがない。


 ふと大和さんが俺に質問を向ける。


「今日ライブだったんだろ? どうだった?」


 俺はそれに対して目を伏せてしまった。

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