第262話 何もなかった。

「……いや、特に、何もなかった」


 俺は……嘘をついた。


 明確に自分でも最低だとわかる……俺は嘘をついたのだ。


 端井は表情を変えずに俺のことを見る。俺は視線を逸らさないようにした。


 視線を反らせば明らかに怪しい。嘘をついていることがバレてしまいそうだったからだ。


 と、端井はフッと小さく微笑む。俺は動揺しないように気を付けた。


「そうですか。なら、いいです」


 端井はそれ以上は聞かなかった。俺は……安心することも出来なかった。


 本当は、端井はわかっているのではないか? 実は、気付いているのではないか……俺にはそうとしか思えなかったからだ。


「……いいのか?」


 俺は思わず、よせばいいのに、そう訊ねてしまった。


「えぇ。後田さんが、何もなかったと言うのならば、私はそれを信じます」


 これは……明らかに俺が嘘をついていることが、バレてる。


 こんなことなら、嘘なんてつくんじゃなかった。


「……えっと……お前が俺と今日一緒に帰ったのは……もしかして、今の質問をしたかったからなのか?」


 俺が思わず苦し紛れに話題を変えようとしてそう言うと、端井は立ち止まって、顔だけをこちらに向け、冷たい視線を浴びせてくる。


「それを聞いて、どうするんですか?」


「……いや、どうもしないが……」


 しばらくの間沈黙が俺と端井の間を流れる。なんだか気不味い……俺は一刻も早く、その場から離れたいと祈ってしまったのだった。

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