第66話 生の子死の子 10

「授業を始めます」

 翌日、ヒサリが教壇に立った時、目の前が一瞬暗くなったかと思った。教室にマルの姿が無かったのだ。マルが学校で勉強するようになってからこんな事は一度も無かった。ヒサリの馬小屋で過ごす事は少なくなったとはいえ、朝には必ず教室に姿を現していた子だ。

(どうしたのかしら。ここに来るのが嫌になったのかしら。……まさか怪我なんかしてないでしょうね!)

 トンニが言った。

「マルとナティがいませんけど」

 ヒサリはキッと唇を結び、自分の動揺を悟られないよう強い調子で言った。

「何かの事情があるんでしょう。さあ、あなた方は勉強ですよ!」

 目の前にはダビ、トンニ、アディ、ニジャイがいて、自分の顔をじっと伺っている。自分の感情を決壊させてはならない。ヒサリはそれぞれに合った課題を与えながら、そっと思いを巡らせた。みんなかわいい生徒達だ。ダビもトンニもアディも……けれども私の心の中の一番大きな場所を占めているのはマルなのだ。どうしてだろう? あんなイボイボの醜い子なのに。身よりの無い、あまりにも弱弱しい子だから? それともあの時、自分に向かって笑い声を立てながら手を伸ばしてきたから……? 今日の授業が終わるまであの子が来なかったら、すぐさま探しに行こう、そんな事を思いつつ、ともすれば飛び立とうとする思考を授業の方に向けた。

昼も近くなってきた頃、何人かの子ども達の声が近付いて来るのをヒサリの耳が捕らえた。その中には、ひときわよく響く鈴を鳴らすような声があった。

(マルだわ!)

 すぐにでも教室の外に飛び出したい気持ちを抑えつつ、ヒサリは授業を続けながら、彼らが教室に着くのを待った。しかし生徒達の方が落ち着いていなかった。

「あ、マルだ!」

 ダビが言った。他の生徒達も声の方に顔を向けている。マルとナティの後には、三人の子ども達がついて来ていた。がっちりとした体格の少年と色黒でスラリと引き締まった体つきの子、そしてかわいらしい顔の女の子。

「オモ先生、ここで勉強したい人連れてきました!」

 マルは小さな体をピョンピョン弾ませながら嬉しそうに言った。

「あら、いらっしゃい」

 ヒサリは、マルの様子を見て自分まで飛び上がりたい程嬉しくなった。しかしその気持ちを抑え、落ち着いた様子を見せながら子ども達を見渡した。すぐに、色黒の子が以前河原で死体を焼いていた女性と一緒にいた少年だという事に気が付いた。体のがっちりした子が、ヒサリの方に一歩進み出て言った。

「ここでは誰でも、やる気のある人は勉強出来るってマルから聞いたんですが、本当ですか」

「ええ、本当です」

「お金、要らないんですか?」

「要りません」

「おらは川向こうの者ですが、それでも来ていいですか?」

 ヒサリは思わず息を呑んで相手の顔をじっと見た。少年の表情は農民らしく素朴だがしっかりした意思を示していた。

「あなた自身がここで学びたいと望むのなら歓迎します」

 そう言いつつ、ヒサリは驚いていた。この少年は見たところ決して裕福ではない。妖人のダビよりも粗末な服を着ている。この学校に来たい、と言うのはやはり学校に行きたくてもお金が無いからだろう。実際、シム先生の教えている学校に通うとなるとかなりお金が要る。しかし川向うの子が森の際地区の学校にわざわざ通いに来るなど、この国の常識からは考えられない事だ。この少年は相当な覚悟を持って来たはずだ。勇気のある賢い子だ、と思った。同時にヒサリは心に誓った。必ずこの子の期待に応えなければ、この学校に来て良かったと思ってもらうのだ、何としてでも。さらにヒサリはあとの二人の子にも声をかけた。

「あなた達もこの学校で勉強したいの?」

 色黒の少年の方は黙って頷いた。女の子はちょっぴり首を傾げながら言った。

「おら、マルみたいにおりこうさんじゃないし、出来るかどうか分かんないけど……」

「大丈夫ですよ。大事なのはやろうと思う気持ちです。それにあなたも家の仕事があるでしょうから、自分の出来る範囲でやればいいんです。女の子が勉強しようと思うなんてすばらしい事ですよ」

 するとナティが

「へへへへッ」

と大きな声で笑った。

「ああ見えて、テルミは男の子だぜ!」

「あらまあ!」

 ヒサリは驚いた。確かにこの国では、女性が男のように振舞ったり男が女の格好をすることはよくあると聞く。カサン帝国の価値観からするととんでもない事だし、ヒサリ自身にも違和感があった。しかし子供達をいきなりカサンの価値観に染め上げる事など出来ないし、そんな事はしたくなかった。

「あなた達、今、時間が取れるのなら、授業を聞いていくといいわ。あなた達空いている椅子に座りなさい。はじめは変な感じがするでしょうけどじきに慣れます」

 三人の新入りの少年達は、他の子の様子を見て自分も同じように椅子に腰かけた。

「それではあなた達、名前を教えてくださいね」

 ヒサリは改めてざっと教室を見渡した。それにしても、なんと雑然とした教室だろう! カサンの役人や軍部の偉い人が見たら目を剥くだろう。けれども私は信じている。抑えつけるのではなく、伸び伸びした環境で彼らが自主的に学ぼうと思う気持ちを育てる事が大切だ。そして絶対に成果を出す。ここの子達を、カサン本国の子らにも負けない位立派に育てよう。

「オモ先生、昨日の本、みんな読んだんですけど、意味の分からないとこあります。教えて下さい」

 普段控え目で授業中は当てられるまで決して喋らないマルが珍しく自分から言った。友達がたくさん来て気持ちが高ぶっているのだろう。

「それでは、全部分からなくてもいいから、本をはじめから私がいいと言うまで読んでごらんなさい。分からない所は私が後で説明しますからね」

「はい」

 マルはそう言って、本を読み始めた。するとざわついていた教室は急にしーんとなった。マルの声には、人を惹きつける不思議な力があった。それからマルが読み終えるまで、一人も声を出す生徒はいなかった。ヒサリ自身、息を止めてマルの言葉に聞き入っていた。

(ああ、マルの声を通して聞くまで、カサン語がこんなに美しいとは気付いていなかった…)

ヒサリはその事をしみじみと思うのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る