其の三十二 色恋暴挙――、恋は盲目とはよく言うが、猪突猛進を止める勇気なんて誰にもなかったりする


 錆びついた鉄の扉のドアノブに手を掛けて――、すぐにまた離す。ふぅっと一呼吸を挟み、でも心臓の鼓動は止まってくれない。足がガクガクと震えて、私――、『春風杏々香』の頭の中に、大昔の記憶が呼び起こされた。中学生の時、始めて市の水泳大会で飛び込み台に立ったあの時――


「……あまりにも緊張して、笛が鳴る前に落っこちちゃったんだよね……」


 ボソリと独り言を漏らして、クスッと自嘲する。再びふぅっと長い息を吐き出し、静かに目を瞑ると、瞼の裏で癖の強い茶色の髪がフワッと揺れた。


 ――俺だってできたんだから、お前にも、できるだろ?――


「……ヒマリ」

 ――ありがとっ……



 ケラケラと笑う幼馴染に背中を押された私は、

 ギュっと目を瞑ったまま、

 屋上への扉を、ガチャリと開け放った。




 ふと目を開ける。眼前に広がるのは、


 果ての無い青空と、

 まっ平に広がる灰色の地面と、

 そびえ立つ緑色の鉄網フェンスと――


「……あ、あれ――」



 ――果たして、『無人』。

 誰も居ない屋上、ボーッと突っ立っている私の前髪を夏風がさらって、その顔からみるみる体温が失われていくのを感じた。


 ――もしかして先輩、私と会いたくなくて、屋上にも、来なくなっちゃって……


 マイナス思考が全身を駆け巡り、石像みたいに私の身体が固まっている。ふいに、不安に耐え切れなくなった私の瞳から、じわりと涙が滲んで――


 ――ドンッ!――


「……純情かっ!」



 ――果たして、『いたいっ』

 ――「後ろから誰かに背中を押されたのだ」と理解した時には私の身体はつんのめっており、石化の呪いが強制解除された私は派手にすっころんだ。



「……み、御子柴先輩」

「なに今の顔~~、ヤダ~、切なさぜんか~いっ! 春風ちゃん、エモすぎ~っ!」


 ――四つん這いになりながら後ろを振り返ろうとした私の身体に、どこから現れたのかもわからない『御子柴先輩』が抱き着いてきた。すりすりと頬を無遠慮に摺り寄せながら、私の上半身をまさぐりながら――


「あ、あの……、胸さわるの、止めてもらっていいですか……」


 鼻先三センチメートルの距離、彼女は猫のように笑った。ゴメンゴメンと漏らしながらスッと立ち上がり、わたしも彼女にならうように身体を持ち上げる。

 まっ平に広がる灰色の地面の上。手を後ろに組んでいる御子柴先輩は片足に体重を預けており、首を斜め四十五度に傾けながら、クスッと再び笑って――



「――シヨウなら、居ないよ?」

 まっすぐに私の瞳を見つめながら、そんなことを言う。



「えっ……」

「今日はここには、来ないと思う」


 思わず力ない声をこぼしたのは『私』で――、御子柴先輩がニュースキャスターみたいに淡々と言葉を紡ぐ。ふと、夏風が私たち二人の間を流れて、フワッと私の前髪がなびいて、御子柴先輩の短いスカートが少しだけ翻って――


「……やっぱり、冬麻先輩、私のことを避けて――」


 胸の中に広がるどす黒いモヤを吐き出す様に、地面に目を落とした私の口から声が漏れ出る。戦いの前から敗北を言い渡された女騎士がガクンと肩を落として、手に持っていた聖剣をカランッと地面に落として――



「……あっ、違う違う」

 ――ふと顔をあげると、ヘラヘラ笑っている御子柴先輩がブラブラと自身の眼前で手を左右に振っていた。


「アイツさ、さっき階段で派手に転んでさ、手、怪我したんだよ」



 世界が一瞬だけ止まって、私の意識が彼女の言葉に支配される。



「……えっ?」

「――まぁ、自分の不注意だったんだけどね、……指、思いっきりぶつけちゃったみたいで、……とりあえず保健室行ったんだけど、腫れがひどいから、このあと近くの大学病院で精密検査するみたい」


 どす黒いモヤが再び私の胸の中に広がって、頭の中に映し出される嫌なイメージがこびりついて離れない。学校の廊下に横たわり、手首を抑えながら、苦しそうな顔を浮かべる先輩の顔。そして、次に発された御子柴先輩の台詞が――


「――もしかしたら、もうサックス吹けなくなるかもね?」



 ――グワンと私の脳みそを揺さぶって、私は今見ている景色をうまく認識することができなくなった。



「……それって――」


 絞りとられた果実の汁みたいに声がこぼれて、グルグルと回る世界で私は平衡感覚を失う。ふいに身体がよろけて、拙い足取りでなんとか体勢を保つ。


 何層も色を重ねた油絵のような、淡く描かれた水彩画のような、

 夏の青空に溶け込む先輩の姿に、大きなヒビが入って――



 ――先輩が……。

 ――先輩が、先輩が、先輩が、先輩が――


 ――手を、怪我した……? サックスを、吹けなくなる……?

 ――なんで、どうして……



 ――そんなことになったら、先輩は、先輩は……ッ!



「……ねぇ」


 ――ハッと意識が戻ると、鼻先三センチメートルの距離に御子柴先輩の顔があった。妙に艶めかしい表情の彼女が、クスッとイタズラを思いついたように笑って――



「…………えっ?」


 彼女の唇が、私の唇に重なる。



「……なっ! なっ、なっ、なっ、なにを……」


 ――全身が硬直することおよそ五秒間。すぐに状況を理解することができなかった私は条件反射で身体を引いて、ペタンと灰色の地面にへたりこむ。思わず口元を手で押さえて、ゆでだこのように顔を真っ赤にして――


「――春風ちゃん」

「……はい?」


 眼前の御子柴先輩は相変わらず子供みたいに笑っていた。自分の名前を呼ばれ、マヌケな声を返すことしかできなかったのは『私』で――



「アイツのこと、頼んだよ」

 ――そう言って表情を崩した先輩の顔は、どこか寂しそうだった。




 果てのない青空が二人の少女を見下ろし、まっ平に広がる灰色の地面はいつも通り無表情だ。

 薄ぼんやりしていた視界がみるみるクリアになっていく。どす黒いモヤが立ち消え、代わりに全身を駆け巡ったのはドクドクと波打つ心臓の鼓動で――



「――は、ハイッ!」


 弾けるように立ち上がった私はくるっと踵を返し、

 錆びついた鉄が擦れる音が、がらんどうの屋上に響く。


 猛ダッシュを始めた私が向かう、大好きな人の元へ――




 ――バタンッ!

「先輩ッッ!」


 ――放課後。自由へと解き放たれた若人たちが、有り余るエネルギーを思うがままに発散させる無限の時間……、保健室の扉を無遠慮に開け放ち、ハァハァと肩で息をしている私の目に飛び込むは――

 ポカンと口を大きく開けてこっちを見ている『保健室の先生』と、ポカンと口を大きく開けてこっちを見ている『先輩』の顔で……、その白い左手には、白い包帯がぐるぐると巻かれていた。


「は、はるか――」

「……先輩ッ!」


 私の登場から遅れること十秒ほど、私の名を呼ぶ先輩の声をさらなる大声で上書きした私は、うるうるとその目に涙を浮かべながら、思わずガバッと先輩に抱き着いた。


「なっ……、ど、どうした!? と、と、と、とにかく落ち着――」


 ぎょっとした表情で顔を真っ赤にしている先輩は、言葉と裏腹にそもそも自分が落ち着いていない。でも、それ以上に何も考えられなくなっているのは『私』で――、私はボロボロと涙の粒をこぼしながら、ぎゅうっと先輩の身体を強く抱きしめて、溢れる感情が、剥き出しのまま口からボロボロとこぼれていく。


「ごめんなさい! 迷惑かもしれないけどっ! 先輩は私を避けているかもしれないけどっ! ……でも、先輩が手を怪我して、サックスを吹けなくなるかもって聞いて、私、私、居てもたっても居られなくなって……」

「は、春風……?」


 私は子供みたいに喚き散らしており、先輩は困惑したトーンの声を漏らした。でも、相変わらず私の耳には何も聴こえていなくて、私の目には何も見えていなくて、ただただ、こみ上がってくる想いが爆発していて――


「――だから、だから、私には何にもできないけど、せめて、先輩の、傍に居たくて――」

「……あの~~、水を差すようで、悪いんだけどさぁ」


 ポツンと、まっ平な水面に小石を放るように、

 罰の悪そうに声をあげたのは、『保健室の先生』だった。


「……冬麻君の怪我、ただの突き指だから、一週間もすれば治ると思うよ?」




「――えっ?」


 マヌケな声が勝手に漏れ出て――、目が点になっている私がふいに顔を上げる。鼻先十センチメートル……、真っ赤な顔で、だけど明らかに困惑した表情を見せているのは『冬麻先輩』で――


「……あれ、だって、私、御子柴先輩から……」

 震える声で、私が疑問符を放り投げたかと思うと、


「……なるほど、な――」

 ――全てを悟ったような顔で、冬麻先輩が苦い表情を見せる。



「……春風、一つ教えてやろう。アイツが笑っている時は、大概、悪だくみを企てている。……奴の口から、およそ真実は語られないと思え」




 ――果たして、『ヤ・ラ・レ・タ……』


 空気人形に針を刺したように、溢れた感情が湯気となって私の顔面から漏れる。行き所を失った私は完全に言葉を失っており、できることといったら、マヌケ面で乾いた笑いを浮かべるくらいで――


「……あ、アハハ」



 ――果たして、『気まずい』。

 相変わらず口をポカンと開けながらこっちを見ているのは保健室の先生で、冬麻先輩は恥ずかしそうに明後日の方向に目をやっていて――


「……あの、私、私……」


 もごもごと口をごもらせる私の精神状態は、

 あらゆる意味で限界点に達した。


「――大変失礼しましたッ!!」

 ――そんな捨て台詞を最後に、弾けるように保健室を飛び出し――



「……ま、待てッ!」

 ――飛び出し、『そびれる』。


 今まさに扉を閉めやろうと手を掛けた私の手がピタっと止まり、耳に飛び込んできたのは先輩の声だった。ガタッと丸椅子から誰かが席を立つ音が聞こえて、ぱたぱたと上靴が擦れる音が遠慮がちに聞こえてきて、一握りの勇気を振り絞った私が、静かに後ろを振り返ると――



「――その、心配してくれて、ありがとう……」


 ポリポリと頬をかきながら、恥ずかしそうに視線を外す『大好きな人』の顔がそこにあった。



 ふいに、思い出す。



 ――言わなきゃ……、逃げちゃ、ダメだ……

 向日葵との約束を、双葉に告げた決意を。


 ――告白……、しなきゃ――

 一握りの勇気を振り絞って、私が口を開くと――


「あの、先輩、私――」

「は、春風、その……、話したい、ことが――」


 その声が、『大好きな人』の声と、重なった。


「……えっ?」

「……むっ?」


 廊下で雑談に耽っている生徒たちの声が遠慮がちに耳に流れて、外のグラウンドでは運動部員たちの掛け声が空に響いていた。私と先輩を囲う一メートル四方の空間に薄いヴェールがまとわり、その場所だけ完全に刻が止まってしまったみたいで――


「……あの~~、水を差すようで、悪いんだけどさぁ」


 おもむろに、リモコンの再生ボタンをポチッと押すように、

 二人の世界を再び動かしたのは、『保健室の先生』だった。


「……アンタ達高校生だし、青春するのは自由だけど、三十過ぎで未婚の私がいないところでやってね?」

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