第6話 あらしのあとに

 想定より天城が早く帰ってしまったので、晩飯は結局俺が作ることになった。タケノコとピーマンがあったのでサクッと青椒肉絲もどき。牛肉がなくて豚肉でだけど。

 十九時近くになって、そろそろ雪音姉貴に配膳を手伝ってもらおうとエプロンを外したところで、ふと桜花姉ちゃんが台所に来たことに気づく。


「お、オトくん……あのね……」


 やや俯き加減におずおずと切り出す姉ちゃん。よく見るとその後ろには膨れ面の姫夏の姿もある。

 何となく察しはついた。


「昨日のこと?」


「え、ええ……一方的に決め付けて、ひどいこと言ってしまって……ごめんなさい……」


 ぺこと頭を下げられる。垂れ下がった前髪で表情は完全に隠れてしまった。


「わかってくれたならいいよ。俺も同じ立場だったらまあ……ね」


「許してくれる……?」


「うん」


「よかった……ありがとう、オトくん……」


 そうして頭を上げた桜花姉ちゃんの表情は凪いだ海のように穏やかだった。昨日見たあの血走った目はなんだったのかというくらい。

 それから姉ちゃんは後ろの姫夏を促し、前に出させる。それでも姫夏は膨れたままで俺と目を合わせようとしない。


「ほら姫夏」


 少し声色を固くして再度促す姉ちゃん。彼女を怒らせると怖いのは姫夏とて重々承知、ばつが悪そうに俺から目線を逸らしつつもやがて口を開いた。


「その……昨日は悪かった。ロリコンじゃないって信じる、さっきも言ったけど」


「まだ謝ることあるでしょ」


「う……で、でもそれはコイツがヒメカの……」


「そうなった原因は姫夏にあるでしょ? それもオトくんはわざとしたんじゃないのに」


 どうやらさっきの……「鷲掴み」から殴られた流れを言っているらしい。まだ脳髄の奥に衝撃の余波が痺れとなって残ってはいたけど、俺としてもまあある程度は致し方なしというか、いろんな意味で複雑な気はする。いや、もう少し優しく殴ってくれたってよかったとは思うけど。


「むむ……それと、殴ってごめん……これでいい?」


 渋々、といった素振りで姫夏は言った。まあ本心では反省しちゃいないのだろうが、姉ちゃんに諭されていたところまで含めてこの光景は昔からお決まりのパターンでもある。慣れっこといえば慣れっこ。

 姫夏と俺とは特に歳が近いこともあって、小さい頃から傍若無人に振る舞われることが多い。そのたび桜花姉ちゃんに仲裁してもらっていたものだ。


「ああ、もういいよ。それよりもう飯だから、食器出しといて」


「あ、オトくん。もうひとつだけ確認したいんだけど……」


「ん?」


「その……さっきのあの子は、本当はオトくんのカノジョ、とかじゃないのよね?」


「え、ああ、うん。天城は中学からの同級生ってだけで、全くもってそんなんじゃない」


「ほんとのほんと? オトくんほかに恋人とかいないのよね? 経験ないのね?」


「認めたくない気もするけどそうだよ……いた試しすらない」


「そう……そうよね、当然よね……よかった……」


 心から安堵したように胸をなでおろしている姉ちゃん。何でか俺が童貞でいて安心してくれる人間などこの世で彼女ただ一人のようなものだろう。複雑極まりない。


「……お姉ちゃん、オトくんがいつの間にか手の届かないどこかへ行っちゃうんじゃないかと、そんな気がして……」


「むぎゅ」


 かと思っていたら、すっと歩み出てきた姉ちゃんが両腕を俺の頭の後ろへ回して引き寄せてくる。たった今なでおろしていた胸に顔をうずめる形となった。

 とても暖かく、とても柔らかく、とてもいいにおい。大きさだけならあの姫夏のそれさえ凌駕する。


 そう、俺は反射的に桜花姉ちゃんと姫夏とを比べてしまっていた。大きさのみならず、五感で感じられる要素全てを照らし合わせている。


 おかしい、しばしば姉ちゃんにこうして抱きとめられることはあったはずなのだが、こんなにも意識したことはない。つまり俺は桜花姉ちゃんさえ意識している。姫夏だけでなく、またしても実の姉に「何か」思うところがあると気づいている。


 そもそも最後にこうして抱きしめられたのはいつだったか。今までにも俺はどれだけ姉ちゃんのおっぱいの感触を実感する機会があった? わからない。そこにあるのが当然というか、おっぱいがというより姉ちゃんそのものの柔らかさだと思っていたというか。


 ……いや待て待てよちょっと待て。さっきから何を考えてるんだ俺は。


「ね、ねえちゃん……はなして……」


「え? どうして?」


「どうしてって、いやその……」


「姉弟なんだからいいじゃない」


「いやきょうだいだからこそというか……」


 桜花姉ちゃんは俺の心情など毛ほども読み取ってくれそうになく、眼鏡の向こうの瞳をぱちくりと瞬かせている。

 いろいろと困った挙句、姫夏に視線を投げる。何とかしてくれと。ところが彼女はそこから動くこともなければ、どこか怪訝そうな面持ちで自身のあごに手をあてている。


「な、なんだよ……」


「いやオマエ、さっきアネのムネでコーフンするわけないとか言ってたけどさァ」


「お、お、おう、あたりまえだろ」


「もしかしなくてもウソついてね? ばっちり鼻の下伸ばしてんじゃねェの現在進行形で」


「そそそそそそんなわけないだろそんな桜花姉ちゃんで!」


「え?」


 腕の力を緩めて俺を胸から少し離す姉ちゃん。解放してくれるのでなく、俺の表情を見下ろそうとそうしただけらしい。すぐそこにきょとんとした顔がある。

 厚縁の眼鏡のせいでやや地味というか、野暮ったい印象を与えることもあるが、よく見れば姉ちゃんだってかなりの美人に分類できるはずなのだ。実際、学生の頃はイケイケなグループに属してたのもあってかモテまくったとも聞く。


 美人で、巨乳で、優しくて……。


 ……でも、けど、姉だ。


 姫夏も、なんなら雪音姉貴も含めて、俺にとっては彼女たちが「女」である以前の前提がある。

 正直言って、その「前提」ってなんだっけ? と揺らいでいることに気づいた今日ではあったけど。それでも自分に言い聞かせるように、俺は桜花姉ちゃんから目を逸らし、姫夏に向けての台詞というつもりで言った。


「お、桜花姉ちゃんは特に、俺にとっては母親みたいなもんで……母親に興奮するとかもっとありえねぇし……」


 歳の差は十一。俺だけじゃなく、姫夏の世話をしてくれたのだって桜花姉ちゃんだった。こいつだって姉ちゃんには似たようなイメージを抱いているはず。

 「オトくん」なんて呼び方もずっと前からのものだし、なんなら着替えを手伝ってもらったり、一緒に風呂に入ったりもしていたし……。あいや、それはさすがにうんと昔のことだけど。


 けど小学校に上がるかどうかぐらいまではそうしてたはずだから、計算すると俺は当時高校生くらいの桜花姉ちゃんのハダカを日常的に見ていたわけだ。

 でも、だからなんだと思っていた。いや考えたことはなかったけど、もしそのことについて聞かれたらそう答えていただろう。

 だって子供だったんだし、そもそもどんなハダカだったとかよく覚えてないし。


 けど今にして思い返すと、俺は桜花姉ちゃんのハダカがどうだったうんぬん以前に、毎日のようにハダカをすぐそこで見ていた時期があった環境そのものに、なんとも形容しがたいあるいは言い訳として出力しがたいもやもやを抱えることになった。


 ……いやいやいやいや。そうして悩むこと自体がおかしいんだ。


 だって姉なんだから。


 母親みたいなものなんだから。


 興奮するとかありえない。


 そこに理屈とかロジックなんてものはいらない。そういうものだからそういうことなのだ。


「ふーんハハオヤね……じゃあユキ姉にも同じことされたら?」


 だが納得いかないらしい姫夏がなお追及してくる。 


「え? ゆ、雪音姉貴はもっとねぇよ。昔から男勝りっていうかボーイッシュでさ、なんつーかその……兄貴っていうか」


 女じゃない風に見てるわけじゃないけど。もちろん前提は姉ということにあるけど。


「オカ姉がハハオヤでユキ姉がアニキかァ、んじゃヒメカは?」


「え? え? えーと……犬?」


「うぉぉぉぉぉぉい!?」


 少なくとも姉だと思ったことはあんまりない、いろんな意味で。


「まあまあ姫夏、ワンちゃんなら可愛くていいじゃない」


「ペットだよペット! つまりコイツはヒメカを下に見てやがんだッ! 弟のくせに!」


「下ってつもりはないけど」


「ヒメカが上に決まってんだろ姉なんだから! オカ姉だってハハオヤとか言われて悔しくないの!? コイツに女扱いされてないってことだよ!?」


「べ、別に私は、そんな……」


 それに姉ちゃんは一瞬困惑した表情を見せたかと思えば、薄っすら頬を桜色に染めて、眼下の俺を慈しむように見やってきた。


「お母さんみたいって言われるのも、それはそれで嬉しいというか……それにだからといって、女の子として見られてないってわけじゃないでしょ?」


「い、いやあの、やっぱり俺は母親をそういう目で見ることはないかなって」


「『お母さんみたい』であって『お母さん』じゃないよね? もう、ほんとのお母さんのこと蔑ろにしちゃダメだよ?」


「そういうつもりじゃないけど」


「それに……私も姫夏もそれに雪音も、れっきとした女の子なんだから。オトくんがそんな当たり前のこと忘れたり、ひどいこと言うはずないもの。ね?」


「えっあっうん」


「違う気がする……ヒメカとオトアキがしてた話となんかずれてる気がする……」


 心底疲れたという風に肩を落とす姫夏。付き合いきれないとばかり踵を返していった。


「あ、こら姫夏! もうすぐ晩ごはんなんだから手伝わなきゃダメでしょ!」


 あっと気づいた桜花姉ちゃんがようやく俺から離れ、姫夏の後を追いかける。台所を出て二人の姿が見えなくなったところで「顔はやめてーッ」とか訴える声が聞こえてきた。アホか。


 はあ、と軽くため息をつくと、顔の周りに滞留していたフローラルな香りが鼻をくすぐった。もしかしなくても、それは姉ちゃんのにおい。

 顔が押し付けられていたのは胸だったから、このにおいは特に姉ちゃんのおっぱいからしているはず……。


 ……飯にしよう。

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