於菟奇譚

辰井圭斗

――

『冒険家オットオが囚われの身になってから三年が経ちました。一直ずっと冷たい牢獄の中に閉じ込められ、焼きごてを当たられたり、水責めに遭ったりします。逞しかった彼のからだは傷だらけになり見る影もなく瘦せ衰えました。牢屋には高い高い所に一つ四角い穴が開いていて其処そこから空が見えます。オットオは其れを見て、かつて漂った南洋の日差しを思い出します。或いは時折風の音が聞こえて、オットオはその度黄塵こうじんを含んだ支那の嵐を思い描きます。しかし――彼が此処ここから出られる当てはありません』



「あれ、ひさしさんのところのオットオ君随分可哀想かあいそうなことになっているじゃないか」


 寅吉とらきちさんは、私の小説を読むとそう言って口をへの字にした。


「僕はオットオ君の爽快な冒険譚が好きなんだよ、だってのに」


 其のままパラパラと雑誌をめくると、一旦閉じて枕元に置いた。私が訪ねて来てから寅吉さんは敷布団の上に横たわったままだ。昔は私相手でも紋付を着て出て来なければ気が済まなかった男なのに。「具合は如何どうだい」と訊くと「別段変わらないよ」と言った。そんなあからさまな嘘もそう無いだろうと思うが、そう云う意地を張る男だった。


 今日は日差しが強いから部屋の中の影が濃い。障子は全て開け放たれていて縁側の先にある庭や彼方の入道雲がよく見えた。


「今日は暑いねえ。部屋に居たって暑い。氷が欲しいよ」

「病人があまり躰を冷やしちゃ不可いけないよ」


 寅吉さんは更に口を曲げた。仕舞ったなと思った。寅吉さんは病人扱いされるのを好まない。寅吉さんのそれが一種の死病であるだけに尚一層そうだった。話題を変えようと思って私は不意ふと、布団近くの襖に立てかけてある木の板を認めた。


「寅吉さん、あれは何だい?」

「机」


 澄まして答えられた。


「ほら、机はちゃんとしたものが有るけれども座るのが面倒じゃないか。然し寝転がったまま布団や畳の上で原稿を書くのは都合が悪い。だからあれを敷いてその上で書くんだ」

「まだ書いているの」


 驚いた。寅吉さんと私は同人だが、寅吉さんは病を得てから雑誌に小説を載せなくなった。寅吉さんは布団の上に頬杖をついて板を眺める。


「安藤君と相談してね、連載はしないが書き下ろしをすることにした。今長篇を書いているよ。如何あっても少年に夢を売るのが僕等の仕事だ。いもの書くよ」


 だから、久さんもあまり暗いものは書かないように、そう言われて私は苦笑いしながら「大丈夫、次回お楽しみに」と答えた。


 帰り際、妹のおりんさんが玄関まで見送ってくれて、私は彼女に会釈してからそそくさと寅吉さんの家を発った。「久さんがいらっしゃると、兄は張り切るんです」そして、後で具合を悪くします、以前あの妹が小さくそう言ったから、私はあまり寅吉さんを訪ねないようにしている。ただ、月に一度出される私達の雑誌ばかりが免罪符だ。


 日が痛むように照りつけてくる。私は思わず氷が滑らかに口腔を滑るのを想像して、嗚呼可哀想なことを言ったと、そう思った。



『ある日のこと、オットオは出されたスウプを啜っていました。相変わらずスウプは水のようでした。しかし、そんなものでも食べなければ死んでしまうのです。それに何度も匙を突っ込んでいた時、オットオの脳裏に閃くものがありました。オットオはその匙を隠しました。後で獄卒にぶん殴られましたが、耐えて床に突っ伏したオットオの口元は確かに笑っていました。

その晩、無明の夜、オットオは床でぐらついていた石畳を外すと、下にあらわれた土に匙を突き立てました。そうして外に向けた隧道トンネル造りが始まったのです』



「匙で? 隧道? 久さん、こりゃ幾ら何でも荒唐無稽だよ」

「そういう人が実際に居るんだよ」


 今日は私が澄まして答える番だった。やはり今日も敷布団の上に転がっている寅吉さんが、もう一度私の小説を読み返しているのを視界の端に置いて、私は部屋をぐるりと見回した。


「何か、雰囲気が変わったね、この部屋」

「そうかい? 何一つ動かしちゃいないよ」


 確かに、机の上の文鎮一つ動いてやしなかった。気のせいかと思い視点を転じた所で寅吉さんの枕元に積み上がる原稿の山が目に入った。


「これ、例の原稿かい?」

「そうだよ」

「読んでも?」

「駄目駄目、あと半分有るんだ」


 半分……と、生唾飲んでそれを見てしまう。この量はさぞ安藤君を困らせるのではないだろうか。此処からの帰り道、一寸ちょっと安藤君の処に寄ってみようかしらと思案した。


「久さん、頼みがあるのだけど」


 寅吉さんは私に向かってにこにこしていた。


「庭から竜胆リンドウの花を取ってきてれないだろうか」


 意図を測りかねたけれども、そんなものはお安い御用であって、私は畳から立ち上がると庭に出た。もう外は随分涼しかった。鱗雲が見える。私は少し離れた庭の一隅に竜胆の青い花を見つけて、その茎を手折った。


 持ち帰ったそれを渡すとき伸びた寅吉さんの腕が殆ど骨と皮ばかりの細いものになっているので、私は恐らくサッと青ざめたが、寅吉さんはそれには構わず竜胆の花を手に取ると匂いを嗅いだ。はなびらが寅吉さんの痩せこけた顔に触れた。


「久さん、秋だね」


 花を顔に寄せたまま、そうぽつりと言った。


「僕達みたいなのはね、夏の終わりが分かれ目なんだ。夏が終わって、嗚呼過ごしやすくなってきたな、という所でポックリ死んでしまうんだ。久さん、僕は乗り切ったよ」


 私はそれにどう答えていいのやら分からなかった。只、「そんなに沢山書いている人は死にやしないよ」と、そう言った。


 帰り道、安藤君の処に寄った。長居する積もりも無かったから軒先で話した。


「寅吉さんの処に行ってきたんだが、例の書き下ろしの原稿、山のように書いて居たよ。まだそれで半分だって言うんだ。一体あれ如何する積もりだい?」


 安藤君は困ったように笑った。


「三号分くらい寅吉さんの特集号にするしか無いでしょう。けれど……」

「けれど?」


 そこで、薄暮の中、声が潜められた。


喀血かっけつの話はお聞きになりましたか」


 当惑する。


「聞いちゃいないよ。何だいその話は」

「寅吉さん、血を沢山お吐きになったんですよ。五日ばかり前でしょうか」


 そこで、ぱっと鮮やかに寅吉さんの部屋が思い出された。雰囲気が変わったと思ったが、そうか、と。彼処あそこは綺麗過ぎたのだ。屹度きっと飛び散った血をおりんさんあたりが隅々まで拭き清めたに違いない。暗然とした。


「この秋、つだろうか」


 私の言葉に安藤君は首を振りもしなかったが頷きもしなかった。



 次に寅吉さんを訪ねた時は、もう土気色をしてひどく息がつらそうだった。私が布団の横に座っても目を開けなかった。ただ、起きてはいるようだったので声を掛けた。


「寅吉さん、私だよ。雑誌を持って来た」


 寅吉さんの口許が僅かに動く。


「もう……目が霞んで……よく見えない」


 寅吉さんの枕元に置かれている原稿は薄っすらと埃を被っていた。他の処は掃除されているから、きっとあればかりはおりんさんに触らせないのだろう。前に見た時から幾許いくばくも枚数が増えていないようだった。


「久さん、もう駄目だ」


 その余りにも率直な言葉を、私はこの男から初めて聞いた。そして、屹度その言葉は正しいのだと思って――私は土気色の顔から目を伏せると持って居た雑誌を捲った。自分の小説が載っているページを開いた。


「寅吉さん、梗概あらましを言うとね、オットオの隧道は一年後に完成するんだ。ついに牢獄の外に出たオットオは夜の清浄な空気を目一杯吸って、天球を飾る星々の下歩き始める。そうして、冒険を再開して次の夏には埃及エジプトにいる。オットオが脱獄の昔語りをすれば、埃及の茶店でも大喝采。それに満足しながら明日は金字塔ピラミッドを見に行こうと考える処で今月はお終い」

「……良いね……そう来なくっちゃならない」


 私は雑誌を閉じると、そっと寅吉さんの枕元に置いた。正座している自分の膝の上で握り拳を作る。


「寅吉さん、於菟おとって知っているかい? オットオの名はそこから取ったんだが」

「…………いや」


 私は微笑む。


「於菟ってのは虎のことだよ。寅吉さん、これ実はあんたの物語なんだ」


 寅吉さんの目が開いた。少時しばらく其の儘天井を見つめる。それから、「非道ひどいなあ、非道い」と呟いた。寅吉さんの目が此方こちらと合って、細められた。


「最初から読み返さなきゃならん」

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