《追章》その10:とある女神と奴隷の娘


 それは今から15年以上前のこと。


 風の女神トゥルボーは高台から静かにアフラールの町を見下ろしていた。


 理由などとくにはない。


 単に退屈だったから適当に散歩でもしようと思った――ただそれだけのことである。



「……つまらぬ」



 だがそこにトゥルボーの欲求を満たしてくれるようなものは何もなかった。


 いつもと変わらない、いつも通りの風景。


 強者だけが理不尽に富を得る傍ら、弱者は声を上げることすら許されず貧しさの中で死ぬ。


 もちろん富を得ること自体を否定はしない。


 が、そのために同じ人まで売り飛ばす醜悪さにトゥルボーは心底辟易していた。



「……」



 ――ぶひゅうっ!



 辟易しすぎてつい目の前から消してしまいたくなるくらいに。



「……むっ?」



 だがトゥルボーの手から術技が放たれようとした瞬間、ふいに背後から気配を感じ、彼女は右手に集束させていたエネルギーを霧散させて振り返る。


 そこにいたのはボロ布に身を包んだ5歳くらいの幼子だった。


 いつ洗ったのかもわからない赤黒い頭髪が顔を覆ってはいるが、恐らくは少女だろう。


 それにしても汚い。


 一体どんな生活を送ってきたらこうも泥まみれになるのか。


 そう顔を顰めながら、トゥルボーは彼女に問う。



「なんの用だ? 娘。我を〝風〟と〝死〟を司る神――トゥルボーと知ってのことか?」



「……」



 トゥルボーの問いに瞳をぱちくりとさせた後、少女がとことことこちらに近づいてくる。


 そして少女はトゥルボーのスカートをぎゅっと掴み、彼女をじっと見上げてきた。



「おい、その汚い手で我に触れるでない。さっさと放さぬといかな幼子と言えど容赦は……むっ? まさかお前は……」



 外見の汚さにばかり目がいって気づくのが遅れたが、少女から感じた気配にトゥルボーは目を丸くする。


 この気配、間違いなく〝聖女〟のものだ。


 だがアフラールに聖女はいなかったはず。


 では彼女は……。



「……そうか。お前は奴隷の子か」



「……」



 こくり、と頷いた少女にトゥルボーは小さく息を吐く。



「よもや聖女となりうる者ですらそのような扱いを受けようとはな。もっとも、その身なりでは聖女であることにも気づかれなかったようだが……。しかしなんとも度し難い話だ。やはりこの場で消してくれようか」



 そう憤りに満ちた声音で再びアフラールを見やったトゥルボーだったが、



 ――くいっ。



「……なんだ? 我を止めるのか? 娘」



 少女にスカートを引かれ、不満げに彼女を見下ろす。


 すると。



 ――ぐう~。



「!」



 少女のお腹が盛大に鳴り響き、堪らずトゥルボーは吹き出してしまった。



「……っく、ははははははははっ! そうか。そんなことよりお前は腹を満たしたいと言うか」



「……」



 ――こくり。



「いいだろう。ならばお前が食い切れぬほどの料理を我が用意してやる。だがその前にまずは身を清めよ。つまりは風呂だ。わかったな?」



「……」



 ――こくり。



「ふむ、しかし無口なやつだ。お前、名はなんという?」



「……?」



 少女が不思議そうに首を傾げる。


 まさかとは思うが名前すら与えられていないとでも言うのだろうか。


 それとも久しく名を呼ばれていないせいで忘れてしまったか……。


 どちらにせよ、〝お前〟や〝娘〟では少々不便である。



「よし、ならば今からお前の名は〝オフィール〟だ。古き言葉で〝豊かな地〟という意味だが、不遇な扱いを受けてきたお前には似合いの名だろう」



「おふぃーる……?」



「そうだ、オフィールだ。女神トゥルボーの娘――オフィール。お前はいずれ世にその名を轟かせる最強の聖女となろう。ゆえにその名に恥じぬ健やかな成長を遂げよ。わかったな? オフィール」



「……」



 こくり、と頷くオフィールの姿に、トゥルボーの顔にも薄らと笑みが浮かんでいたのだった。


 どうやらしばらくは退屈しなくて済みそうだ、と。


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