第11話 本物の愛





 冬は夜のとばりが下りるのが早い。

 慎司は今、明かりの灯った住宅の前にいた。

 美穂との未来も明日の大切な商談もすべて投げ出して、慎司はここに立っていた。

 玄関のインターホンのボタンに人差指を置いたが、ためらいがあった。

 もう何年も訪れていない理子の自宅だった。

「慎ちゃん?」

 と、すぐ傍で声がした。

 声がした方を向くと、路地の角で理子が口元を押さえて立っていた。

「理子……」

 万感の思いが慎司の胸の中を駆け巡った。

「どうして? ここにいるの?」

「理子に会いに来たんだ」

「なに言ってるのよ。今日は美穂さんと大切な……」

 とがめる理子を、慎司は駆け寄って抱きしめた。

「慎ちゃん……?!」

「やっと…やっと気が付いたんだ……」

「えっ?」

「おれは理子がいないとダメなんだ」

「なに言ってるの? いけないわ、慎ちゃん」

 理子は慎司の体を軽く押し返した。

「美穂さんの所に帰らないと…」

「キャンセルしたんだ」

 慎司はもう一度理子を抱き寄せた。

「美穂とは結婚しない」

「………!!」

 理子の左手が慎司の肩に触れた時、慎司はその手を取った。

 そして、左手の中指に光るオパールの指輪を、慎司は抜き取った。

「慎ちゃん…?」

 怪訝な顔をする理子をよそに、慎司はその指輪を、今度は理子の左手の薬指にはめた。

「どういうつもり?…」

「愛している。理子を愛しているんだ!」

「慎ちゃん…」

「ずっとおれの傍にいてくれ……」

 慎司は力強く理子を抱きしめた。

「おれと……おれと結婚してくれ!」

「慎ちゃん……」

 それに応えるように、理子の両手が力強く慎司の背中を抱きしめた。

「うれしいわ」

 美穂のように、キスがしたいわけでも、体を重ねたい衝動も起きなかった。

 ただ抱きしめたい。

 傍にいてこうしているだけで慎司の心は満たされた。

「慎ちゃんから抱いてくれたの、初めてね」

「これからも、ずっとおれの隣りにいてくれ」

 理子の返事がなかった。

 その息遣いに理子の躊躇ためらいいを感じ取った。

「アメリカ行きも、結婚も、全て嘘だったんだろ? ……どうして?」

「ごめんなさい……。ごめんなさい」

 理子は慎司の肩に頬を押し当てながら静かに泣いた。

 慎司は抱きしめながら理子の頭を撫ぜた。

「怒っているんじゃないんだ。理子のことだから、きっと理由があるはずだ。おれを思ってのことなんだろ? そうだろ理子?」

「………」

 返事がなかった。

「理子…?」

 理子の様子がおかしかった。

 息遣いが荒くなった。

 脱力したように手足がダラリとなった理子を、慎司は抱き止めた。

「理子? どうしたんだ理子? 理子! 理子!」

「お姉ちゃん!」

 と先ほど理子が出てきた路地の角から沙織が飛び出してきた。

「沙織!?」

「慎兄ちゃん、手伝って」

 慎司は沙織に促されるまま、呼吸の荒い理子の体を支えた。

「理子は病気なのか!?」

「話は後にして」

 沙織は理子のカバンを開いて錠剤を探し出し、それを彼女に飲ませた。

「お姉ちゃんのことしっかり支えていてね」

「分かった」

 慎司は頷きながら理子を抱きとめていた。

「この薬を飲むと血圧が下がって意識を失うことがあるから」

 しばらくして理子の呼吸が整った。

「もう、大丈夫よ」

 暗がりの中、理子の顔色はよく分からなかったが、虚ろな目で慎司に笑みを向けた。




「心臓弁膜症なの」

 久しぶりに上がった理子の家のリビングで、沙織にそう告げられた。

「弁膜症……!」

 慎司の脳裏に母・さやかの記憶が蘇った。

「理子は重篤なのか?」

「いいえ。それ自体は重篤じゃないのよ。自然治癒は望めないけど、経過観察しながら投薬治療するか手術するかを決めればいい、難易度の低い病症なの」

「じゃあ、理子は心配ないんだな?」

 慎司は理子が休んでいる二階に視線を投げかけた。

 沙織の返事がなかった。

 慎司は促すように沙織を見た。

「それが、お姉ちゃんの場合は、そうはいかないの」

 沙織は視線を落とした。

「お姉ちゃんは、感染性心内膜炎という合併症を起こしているのよ」

「感染性……膜炎?」

 初めて聞く病名だった。

「わたしも詳しい事は分からないわ。担当医の話では、何らかの原因で血中に入り込んだ病原体が、弁膜症の人の弁に感染巣を作り、弁を破壊したり、塞栓症そくせんしょうを引き起こしたりする病気らしいの。本来なら緊急手術しないといけない病気なんだけど、お姉ちゃんの心臓の弁にできた感染巣は手術できないところにあると言うのよ。だから……お姉ちゃん…手術できないの…」

 テーブルに俯く沙織の肩が震えていた。

「つまり、それって……」

 沙織は小さく頷いた。

 慎司はそこから先の事を聞けなかった。

 核心に触れるのが怖かったのだ。

(嘘だ……理子が…理子が…)


 理子の父親は仕事で、母は理子に付き添っていた。

 二人きりの静かなリビングには沙織のすすり泣きしかなかった。

 しばらくの沈黙の後、慎司が重い口を開いた。

「理子はどれくらい……なんだ?」

「一ヶ月から二ヶ月……長くて三月いっぱい……なの」

 慎司も沙織も思いは同じだった。

 ともに「命」とか「死」は禁語だと暗に了解していた。

「何で……!」

 慎司は軽くテーブルを叩いた。

「何で言ってくれなかったんだ……!」

「……言ってどうなるって言うのよ……」

 沙織は俯いたままだった。

「お姉ちゃんが慎兄ちゃんに嘘ついていたことは知ってるわよ。でも、何で嘘ついていたか……慎兄ちゃんなら分かるでしょ?」

「そんなこと……」

 そうなのだ。

 分かり過ぎるくらい分かる理子の気持ちだった。

「お姉ちゃんはアメリカで結婚して幸せにしているということで、慎兄ちゃんに安心させようと思ったの。死んだことも、お葬式も、慎兄ちゃんに告げないで……そのうち忘れられてゆく運命を……選択したのよ。慎兄ちゃんを泣かせないために……」

「忘れるわけないだろ……!」

 慎司はこぶしを握り締めた。

「理子のこと…忘れるなんて出来ないよ…」


  コトリ コトリ


 と、階段を下る音がした。

 母に付き添われた理子だった。

「慎ちゃん」

 と理子は笑った。

「理子、大丈夫なのか?」

「ええ…大丈夫よ」

 理子の笑みは力ないものだった。

 青白い顔に、痩せた体……。

(ボロボロじゃないか……)

 今にも朽ち果てそうな理子を見て、慎司は思わず嗚咽した。

「ゴメン、理子。おれ何にもできないよ……。ゴメンな……」

 理子の手が慎司の頭に伸びた。

「泣かないの、慎ちゃん」

 理子の母や沙織がいるというのに、慎司は理子の胸に抱かれて泣いてしまった。

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