2
目の前にいる女が、間ノ瀬桐花と瓜二つ──いや、全く同じ姿をしていることは篝にも理解出来る。
しかし──篝は、この女を間ノ瀬桐花として認めたくはなかった。
(桐花は、このような表情をしない。天真爛漫で、お転婆で、
ふうう、と息を吐いて、篝は己を落ち着けようと心掛ける。戸惑いを見せたところで、この女が心配する訳がない。
篝はいつでも言霊を形に出来るようにと身構えながら、女を睨み付ける。月明かりに照らし出されたその姿は美しいが、それと同時にただならぬおぞましさも身に纏っていた。
「……何故、お前が此処にいる。鬼女──いや、テクラと呼ぶのが適当か」
「──」
ぴくり、と女の片眉が跳ねた。
テクラ。それは、佐知の記憶の中で見た、外つ国の鬼──百年前に、福寿ことホフリの君に権能を奪われた存在である。
佐知の記憶の中にいるテクラは妙齢の女性の姿をしていたが、今は細かいことを気にしてはいられない。篝は構わずに続ける。
「お前は、かつて村人の少年に権能を奪われ消滅したはずだ。最後に何やら悪足掻きをしていたようだが……それでも、その権能を全盛期にまで戻すには多大な労力が要されるのだろう?」
「…………」
「お前はどのようにして甦ったのだ、テクラ? まさか己が身ひとつで此処までたどり着いた訳ではあるまい」
「……口を慎め、人間風情が」
紡ぎ出されたのは、低く唸るような恨み言。
言霊を扱う篝でなくとも、其処に含まれた憎悪と憤怒は十分に感じ取れることだろう。それだけの凄味が内包されている。
篝も、思わず唾を飲み込んだ。
かつて賢女と呼ばれ崇められ、そして裏切られて権能を奪われた屈辱を、全て人間への憎しみに還元するような相手だ。まともに話し合うことなど、出来るはずがない。
「私とて、可能ならば自力で甦ることを望んでいた。実際に、私はホフリの君とか呼ばれているあの男を侵食していたのだ。──だが、嗚呼──あまりにも、あまりにも屈辱的な姿で、私は甦ってしまった! 貴様ら人間の手で!」
「……お前を甦らせたのはたしかに人間だが、人間全てがお前の復活を望んでいた訳じゃあない。八つ当たりも程々にしておけ」
「黙れ!」
テクラは喚いた。その一喝だけで、並の人間は恐怖を覚えるに違いない。
「貴様にはわかるまい! 目覚めたと思うたら、この身に別の人格が宿っていた日の苦しみなど! あろうことか、人の子のように振る舞い、そうであることが当たり前とでも言うような顔で! 私の体は再構築されたが、あの人格は
「……なるほど」
怒りに打ち震えているテクラには悪いが、これは良い情報が手に入った──と篝は顎に手を遣った。
詰まるところ、桐花とテクラは肉体を同じにしながらも、異なる人格としてそれぞれが独立しているのだ。
もともと、この肉体はテクラのものだったのかもしれない。死に際──死んではいないが──にテクラが投げ出した血塊は、彼女の命を繋ぎ止めるものだったのだろう。それが何らかの過程を経て成長し、現在に至った。
だが、その過程において、番狂わせが起きた。──それこそが、間ノ瀬桐花という人格の誕生である。
テクラの目覚めよりも、桐花の誕生の方が早かった。それは──何という運命の悪戯であろうか。
「──まあ良い」
テクラは震える声音でそう絞り出してから、篝へと向き直る。
「貴様は始末せねばならぬ。我が前に立ったのだ、生かしておくことなど不可能。此処でおとなしく私の養分となるのならば、楽に殺してやろう」
「……断ると言ったら?」
「惨たらしく殺す」
瞬きせぬ間にも、テクラは駆け出している。
篝は直ぐ様唇を動かす。隔、と一言発した次の瞬間には、彼の前に薄く輝く障壁が生まれている。
「小癪な真似を……」
しかし、テクラは意に介した様子もなく、障壁を殴り付けて粉々に砕いた。篝の霊力によって編み込まれた障壁は、光の粒子となって空気に溶けていく。
だが、篝の目的は障壁によって身を守ることではなかった。
(時間稼ぎとしては上手くいったか)
地面を這う根に足を取られぬよう気を付けながら、篝は村の方を目指して駆けていた。
もとより、篝は己の霊力にそれほど期待してはいない。歌の形にするのならともかく、短時間で発動出来る言霊は余程の手練れでなければ強靭に紡げない。とりわけ、今までの調査で霊力を消費している篝ならば尚更だ。
それゆえに、篝は逃げることを最優先した。一対一では、さすがに不利だ。村の者たちを巻き込むのは申し訳ないが、今は非常事態。大巫辺りならば、この状況を放っておきはしないだろう。
「逃がすものか!」
背後から、鬼気迫る形相をしたテクラが追いかけてくる。八つ裂きにしてやる、という文言が聞こえたのは気のせい──と思いたいが、その可能性は低いだろう。
とんでもない相手を敵に回してしまった。ついでに言えば、とんだとばっちりである。
(……しかし、とばっちりを受けたのは彼奴も同じようなものだな)
そう、もとはと言えばテクラも被害者のようなものだ。村人を殺戮していなければ──彼女は悲劇の賢女になっていたかもしれない。
閑話休題。今は逃げることに重きを置かなければなるまい。
何度か
(もう一度身代わりを作るか……? いや、そうすれば霊力を大幅に消費せねばなるまい。倒れては元も子もないとすれば……どうすべきか)
テクラに優位と思わせないためにも気丈な風を装っているが、実のところ篝はかなり消耗している。その息は荒く、顔色も悪い。夜でなければ、不調であることが知られていたかもしれない。
げほ、と篝は一度咳き込む。胸が苦しい。自分はあと、どれ程の間を駆けられるだろうか──。
「無駄なことよ」
──追い付かれた。
そう察知するには遅すぎた。テクラが地を蹴り、自分に体当たりを食らわせたのだとわかった時には、篝は体勢を崩している。
がは、と肺から空気を吐き出すと、腹部に何やら重みがかかる。見れば、自分の上にテクラが馬乗りになっている。
「所詮は人間、限界があるのだろう? 私とは違う、醜く脆い生き物……捕らえることなど容易いわ」
「……っ、だから、どうした……!」
精一杯テクラを睨み付けると、彼女の両手が篝の首に回される。ひんやりとした感触のそれに、篝の背中は嫌でも粟立った。
「虚勢を張るか? 人間。格上の存在相手に、貴様らが勝てるはずなどないのだ。……ああ、それをも理解し得る頭ではなかったな」
「ぐ……が……っ!」
「すぐには殺さぬ。言ったろう、惨たらしく殺す──と。真綿で首を絞めるが如く、じわりじわりと殺してやる。それを望んだのは貴様だ」
首をゆっくりと絞められ、篝は苦悶する。ただでさえ過呼吸気味だというのに、息が出来なくてはどうしようもない。
このようなところで、鬼にくびり殺される訳にはいかない。篝は必死でもがこうとするが、体は上手く動いてくれない。
(何か手はないか、此処から打開する手は……!)
視界が
テクラはこのまま篝を殺してはくれないのだろう。これからも、篝は責め苦を受けなければならない。
飛びそうになる意識を、篝は気力でどうにかして繋ぎ止める。
何としてでも、この状況を打破する方法を見付けなければ。まだ霊力が枯渇した訳ではない。一か八かで試せばまだ勝機は──。
「──やめて!」
それは、一際大きな声だった。
突如として、テクラの拘束が緩む。空気を、吸える。
何が起こったのかはわからなかったが、この機を見逃す篝ではない。力を振り絞ってテクラの腹を蹴り付け、力業で彼女を引き剥がした。
「っ、く……!」
テクラの体は、いとも容易く──篝が違和感を覚える程に、篝に蹴り飛ばされて地面へと転がった。
げほげほと咳き込みながら、篝はどうにか身を起こす。まだ視界は霞んでいるが、もとに戻るまでにそう時間はかからないだろう。
──いや、それよりも、だ。
「か……がり、さん……」
ぶるぶると震えながら立ち上がるテクラの目には、先程までの苛烈な憎悪の焔はない。何処か焦点の定まらない目で、じっと篝を見つめていた。
「お……お願い。早く、早く逃げて……」
「桐花……? お前、桐花なのか?」
「ご、めんなさい、篝さん……。私、もう……」
しかし、彼女が桐花であったのは一瞬だった。
ふっとその体が揺らいだかと思うと、次の瞬間には苦しげな鬼女へと変わっている。
「ぐ……忌々しい小娘め……! この私の意識を乗っ取るとは生意気な……!」
鬼女──テクラの瞳が、篝の姿を捕捉する。
「貴様、ただでは殺してやらぬ。貴様があの小娘を呼び寄せたのだろう? でなければ、この私が一人の小娘ごときに一時たりとも負けるはずはない」
「……お前こそ、虚勢を張っているではないか。同じ体を共有しているのだから、其処に優劣などないだろう。桐花を
「黙れ! 小わっぱが知ったような口を利くでない!」
ざわり、と空気が震える。それは、紛れもなくテクラの殺気。
再び攻撃の波が来るか、と篝は気を引き締める──が。
「──っ!?」
篝の背後から、一陣の風が吹き抜ける。
当惑するテクラに向けて、それは躊躇いなく刃を振るう。済んでのところで斬撃はかわされたが、テクラにとって都合の悪い展開ということに変わりはない。
「──無事だな?」
「お前……!」
篝を庇うように、その人物は彼の前に立つ。月明かりを反射して、その青白い肌が照らし出される。
篝は心から安堵した表情で、間ノ瀬に仕える用心棒を見上げる。
「冬! どうして此処に……!?」
「貴様が寝所から脱け出したと報告があったものでな。──細かい話は後だ、殺されかけているのだろう? ならば早急にこの状況を打破しなければ」
不遜な口調は相変わらずだが、これほどまでに心強い増援はいない。まだ勝ち目が見えた訳でもないというのに、篝は先程まで見えなかった光明を見出だした気がしてならなかった。
テクラは、冬という増援をどのように受け取るだろうか。呼吸を整えつつ、篝はちらとテクラを見遣る。
「あ──ああ、貴様、は」
「……? 何だ……?」
篝が思わず首をかしげる程に──テクラは狼狽えていた。
彼女は冬を凝視したまま、一歩、二歩と後ずさる。そして、血相を変えて脱兎の如く夜の闇へと身を投じた。
「あっ、おい……!」
「……追わなくて良い。貴様とて無傷ではないだろう。深追いするのは無謀だ」
思わず追いかけようとした篝だったが、冬に制止されてはたと思い止まる。
たしかに、今の篝は満身創痍だ。深追いして返り討ちにされては本末転倒である。
ふう、と息を吐いてから、篝は冬に向き直る。間ノ瀬の屋敷から神域まで結構な距離があっただろうに、息切れひとつしていない。
「何はともあれ……冬、お前のおかげで助かった。礼を言わせてくれ」
「……別に良い。何より、いつまでも此処に留まっている訳にもゆくまい。まずは神域を出るぞ」
わかった、とうなずいてから立ち上がろう──とした篝だったが、そうする前にふわりとした浮遊感に襲われている。
ぎょっとして辺りを見回してみれば、呆れた顔をした冬がいた。どうやら篝は冬に抱き上げられたらしい。
「手負いなのだろう、貴様は。明後日の村祭りのこともある、無理はするな」
「……だからといって、これはないと思うが。両手が塞がっては刀も抜けないだろうに」
「……大丈夫だ。あれは、しばらく此処には戻らないだろうから。──とにかく行くぞ。多少の揺れは我慢しろ」
一瞬だけ遠い目をしてから、冬は歩き出す。
まさかこの歳になって、横抱きされることになるとは。篝は小さく溜め息を吐きつつも、無事に生き残れたことに対して改めて深く安堵した。
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