3
夜霧が案内した先は、湧水の流れる建物の裏手であった。手入れはされているようだが表程重視されている訳ではないようで、所々雑草が伸びているのが目につく。
「まずは喉を潤したいな。下ろしてくれ」
大巫の前でのしおらしさは何処へやら、すっかりいつもの調子に戻った夜霧はそう指示を出してくる。
普通に元気ではないか──と突っ込みたい気持ちを抑えて、篝はそっと夜霧を地に下ろしてやる。先程転倒してはいたものの、歩く上で特に支障はないようだった。運んで欲しいというのも方便だったのだろう。
夜霧はゆっくりと歩を進めると、細く流れ出る湧水を手に汲んだ。そして、両手を口元に持っていって喉を潤す。
「美味いぞ、お前も水分補給したらどうだ」
「……ならば、ありがたくいただこう」
山育ちではないため、湧水を飲むことに抵抗がない訳ではなかったが、勧められたからには断ることも出来ない。
篝も夜霧がしていたのと同じように、両手を受け皿にして湧水を溜める。ある程度溜まったところで、澄んだ湧水をぐいっと飲み干した。
「──美味い」
「だろう?」
それは、想像していたものの何倍も美味く、喉の渇きを潤した。
水に味はない。これまで篝はそう考えてきた。
しかし、この湧水は今まで飲んできた水とは全く違う。何処までも冷たく、澄みきっていて、渇いた我が身に染み渡る。
ずっと立ち続けで神楽舞の練習をしていたこともあるのだろう。篝は思わずほう、と息を吐いた。
「
気付けば、横に佇んでいる夜霧がうんうんとうなずいている。自分と同じくこの村の出身ではないだろうに、何処と無く先輩風を吹かせている風が否めない。
せっかくなのでもう一杯湧水を飲んでから、篝は夜霧へと向き直る。
「……して、俺を此処まで導いた理由は何だ。わざわざ方便まで使ったんだ、余程伝えたいことでもあるのだろう?」
「おや、やはり気付かれていたか」
お前も油断ならないね、と夜霧は笑う。篝からしてみれば、彼女の方が油断ならない人物である。
「まあ、お前の言う通りだよ。篝、お前とは色々と話しておきたくてね。──ああ、でもひとつだけ言わせてくれ。先程転倒したのはわざとではないよ」
「当たり前だろう。わざとだったなら承知しないぞ」
「手厳しいねえ、お前は」
にこにこと笑っていた夜霧だったが、その笑みはすぐになりを潜める。代わりに浮かぶのは、抜け目のない策士の顔。
「──篝。お前は、この村をどう思う?」
問いかけは、至極単純明快なものだった。
金峰村についてどう思うか。それは、決して村人たちの前で口にしてはならない問いだろう。
篝はこれまで、何人かの金峰村評を耳にしてきた。疎ましく思う者、行く末を案じる者──。人によって、その目に映る金峰村はそれぞれ異なっていた。
そろり、と篝は辺りを見回す。誰かに聞かれていたらまずい。咎められるどころの話では済まない可能性もある。
「……俺は、この村に違和感を覚えている」
声を潜めて、篝は答える。夜霧にしか聞こえることのないように──と、注意深く、慎重に。
夜霧はふうん、と相槌を打った。少なからず興味を抱いているようにも聞こえた。
「それはどうして? 具体的には、どういった部分に違和感を覚えているのかな」
「──役人がいないんだ、この村には」
──即答する。
夜霧の口角が、僅かにつり上がる。何か面白いものを見つけた時にこういった表情をする──と、今朝かよから教えてもらった時のそれに酷似していた。
篝は声量を抑えながら続ける。
「どれだけ辺鄙なところであっても、人々が住まう共同体があれば、それに則して役人が送られる手筈になっている。税の徴収や人々の統制、また飢饉や災害が発生した際にお上へと伝えなければならないからな。送られる役人によっては過酷な条件を突き付けてくる者もいなくはないのだろうが、それとは逆に飢饉や災害の被害を最小限に抑え、民に慕われる者もいる。共同体の秩序を保つためには、彼らを統制し、従え、そして見張る役割も兼ねた存在が不可欠だ」
「たしかにね。その言い分はわかるよ。お上からの命令を受けた役人がいなければ、こういった小さな村は存続の危機に瀕することもあるだろう」
最近は特に世の中が荒れていたからね、と夜霧はうなずく。
ほんの五年程前まで、この国には幕府というものが存在した。だが、三百年近く続いたそれは徐々に基盤が弛み、最終的にはかつて幕府と対立、そして警戒された大名の統治下──すなわち外様と呼ばれる大名の治める土地を中心とした者たちによって終焉を迎えた。
幕府の体制が揺らいでいた時期と比較すればまだましなのだろうが、それでも世の中が不安定なことに変わりはない。旧幕軍との戦は三年前に終結したが、その余波も決して少なくはないだろう。戦に際した土地は踏み荒らされ、まともに機能するにはそれなりの時間を要することと思われる。
そういった状況下において、金峰村のような小さな村という存在は極めて危うい──と篝は考える。
「この辺りの土地については、はっきりと言えないが……。ただでさえ安定しない世だというのに、災害や冷害が重なれば小さな共同体は容易く滅びる。近隣の村と交流があるのならまだしも、金峰村は完全に外界との関わりを遮断しているように思える。地域差はあれど、山間部という土地は災害も起きやすい。だというのに、この村は──少なくとも百年は存続していると見た」
顎に手を遣りながら、篝は思案する。
外界との関わりを忌避し、周囲に同じような共同体がある訳でもない。だというのに、最低でも百年間は維持されている。
先程歩いている最中に何度か村の風景を目に焼き付けておいたが、外観は
(しかし──どうにも納得ならない)
可笑しい、と感じたのは風景ではない。ぞろぞろと歩く自分たちを見つめる、村人たちの姿であった。
「──夜霧。つかぬことを聞くが、お前は田舎の出身か?」
このようなことを聞くのも
夜霧はふうむ、と唸ってから答える。
「そうだね、町──と言うには幾らか静かだったかな。漁村と表現するのが妥当なところだろうね。北陸だから、暖かくはなかったけれど」
「そうか。わかる範囲で良いんだが、故郷の村の平均的な年齢層はわかるか? 所感で構わん」
「年齢層──ね」
暫し、夜霧は沈黙する。かつて暮らしていた郷里を思い起こしているようだった。
「時勢の問題もあるのだろうが……子供は少なかったかな。食い扶持を稼ぐには、色々と難しい時代だものね。間引かれた子もいると聞いたことがある」
「では、高齢者はどうだ? 何歳くらいが最高齢だった?」
「高齢者か……。長生きした、と聞いたのは七十を少し過ぎたくらいだったかな?それでも、高齢者はあまり見掛けなかった気がするね。人間五十年とはよく言ったものだよ。五十を過ぎて生きている人は少なかった。田舎の若者は出稼ぎに行くから老人ばかりと思われがちのようだけれど、実際のところは働き手になる年齢層ばかりさ。そうでもなければ、死んでしまうのが常だからね」
「……なるほどな。有益な情報、感謝する」
夜霧の故郷が必ずしも平均的とは言えないが、特に変わったところもない平凡な漁村であったことは確かのようだ。篝の周囲とも、然して差異はない。
篝は顔を上げる。定まらぬ視線の夜霧の方を向き、声を落としながら告げる。
「お前の郷里を手本とするのが正しいかはさておき──この村は、恐らく長寿……しかも子を間引く事例が少ないと考えられる」
「──ほう」
夜霧が顔を近付ける。篝の話により強く興味を抱いたようだった。
「まず、俺は初日に村の者たちが集められた寄合を見たんだが、村の有力者は軒並み老人だった。最低でも六十は越えているような老人ばかりが、村の彼是を取り仕切っているように見えた。桐花──いや、間ノ瀬家の娘からも、この村は老人によって主導権を握られていると聞いている。恐らく、この村の者は事故などの例外を除けば長寿なのだろう」
「たしかに、大巫様もそこそこお歳を召していらっしゃるものね。高齢者というものはそれだけで敬われるきらいもあるのかもしれないが、それにしても有力者のほとんどが高齢者とは……」
「それだけじゃあない。この村の祭りは、三年に一度行われるそうだな。その度に神楽舞の舞い手となる、若い娘を選出出来ているという事実もまた、普通ではない」
三年に一度行われるという村祭り。初めこそ豊穣と平穏を祈るものだったようだが、近年に入ってから舞い手が不審死を遂げるというおぞましいものへと変成した。三年ごとに村人は舞い手──とは名ばかりの生贄を選出しなければならず、その結果が篝や夜霧、かよといった身代わりの舞い手だったのだろう。
だが、それまでの舞い手はどうしていたというのだろうか。
外界と接触してまで身代わりの舞い手を選出したのは、今回が初めてと聞いている。桐花が村の有力者たちを疎むのも、人身売買に手を染めたが故に違いない。
だとすれば──これまでの舞い手は、全て村人たちの中から選んでいたということになる。
「三年という間があるにせよ、三年ごとに三人も若い娘を失っていては、次代の舞い手がいなくなってしまうだろう。外界から隔絶された村であるならば尚更だ」
「……けれど、先代まで村祭りは金峰村の内部のみで止められていたというよ。今年のような状況は異例だと、大巫様もおっしゃっていた」
「つまり──この村は、飢饉や天災に見舞われていないのだろう」
すぐに信じられる話ではない。だが、それ以外に理由は見つからない。
「蓄えがあれば、子を育てるにも余裕が出来る。食べ物が足りず、子を間引くという行為もせずに済むだろう。老人が多いのも、きっとそれゆえだ」
「たしかに──高齢者はいずれ労働力としても数えられなくなってしまうし、家族にかける負担も大きい。漁村だとそういうことはないけれど、山間部ならば山に高齢者を捨てることもあるらしいからね。
「しかし、金峰村では老人を有力者として担いでいる。此処にはそもそも、口減らしのために老人を捨てるなどという考えを抱く者はいないのだろう。──それだけ安定した暮らしが、此処にはある」
食料を奪う飢饉や災害、そして税収がない。そう断定するにはまだ早いが、可能性としてはあり得ない話ではない──と篝は考える。
金峰村は山中に所在する。平野部よりも、村を脅かす要因は多いはずだ。
しかし、村人たちに飢えた様子はなく、家々や田畑が荒れている訳でもない。異形とも取れる獣が下りてくることはあるが、ああいったモノが来襲するようになったのも近年のことで、それ以前は猪や熊といった馴染み深い獣ばかりだったという。
外界との交流を避け、平穏な暮らしを享受する村人たち。彼らにとってはそれが普通だったのだろうが、余所者である篝としては違和感を拭いきれない。
「この村の安寧が何によって成り立っているのかはわからんが──一先ず気にかけておいて損はないはずだ。村祭りの災禍にも、何か関連しているかもしれないからな」
「ふむ……それもそうだね。私は村の運営に関わるような家の出ではないから、大それたことは考えられないと思うけれど──それでも、篝。お前の言っていることはわかるし、この村が普通ではないと理解は出来るよ」
「わかってはいるだろうが──このことは、くれぐれも他言無用で頼むぞ。出来れば、かよにも伝えない方が良い。あいつを疑う気はないが、情報が漏れては堪ったものじゃあない」
「大丈夫、その辺りに関しては任せて欲しい。こう見えて、隠し事は得意なものでね」
注意深く告げた篝に、夜霧は口元を袖で隠しながら首を縦に振った。いまいち真剣さに欠けるが、彼女の性格からしてうっかり情報を漏らす──ということはないだろう。
さて、と夜霧は切り出す。す、と篝の前に白魚のごとき手が差し出される。
「そろそろ戻ろうか。あまり長居していたら、かよが可哀想だものね。疲れは取れたから、帰りはちゃんと歩くよ」
手を引いてくれ──と、夜霧は伝えたいのだろう。そういえば、移動する時はかよに手を引かれていた──と篝は過去の夜霧を思い出しながら納得した。
そっと夜霧の手を取ってみれば、それは陶磁器のようにすべらかで、ひんやりとしている。先程真水に触れたこともあるのだろうか。強く握れば、折れてしまうのではないか──と錯覚させる程に、その手は儚く可憐だった。
「──夜霧」
歩き出す前に。篝は夜霧の伏せられた瞳を見遣る。
「……神楽舞が難しければ、事情を大巫様に伝えるべきだと思うぞ。お前が此処に来たのは、好き好んでのことじゃあない。大巫様は厳しいお方だろうが、お前の話を頭ごなしに否定する程狭量な方とも思えん。無理をするくらいなら、一度話せることは話してみるべきじゃないか」
舞の練習でたどたどしく動く夜霧は、控えめに言って無視出来るものではなかった。いつ転倒するのかわからない危うさに加えて、望んで舞い手になった訳でもないのに叱責される光景を見れば快さとは真反対の気が湧き起こる。
お節介だということはわかる。だが、それでも一言言ってやらねば気が済まなかった。
夜霧は暫し沈黙してから、ふ、と口元を綻ばせた。そして、篝に取られていない方の手で口元を押さえると、たおやかに微笑む。
「篝は心配性なのだね。こんな素性も知らぬ女をわざわざ案じるだなんて、お人好しにも程がある」
「心配性で結構。用心はしないよりもした方が良いものだ」
「ふふ、大した性格だ。──心配せずとも、大巫様に話はつけるつもりだよ。それに、たしかに私の視界はお前やかよよりも狭いかもしれないが、これでも全く見えていない──という訳ではないんだ。舞くらいなら、少し頑張れば何とかなるさ」
篝の心配とは裏腹に、夜霧の言葉尻は存外軽い。本人としてはあまり気にしていないのか──はたまた、己の視界に関しては既に割り切っているようだった。
これ以上の詮索は野暮だろう。そう感じた篝は、夜霧の手を引いて歩き出す。
(俺は、お人好しなのだろうか)
お人好しにも程がある、と夜霧は言った。それがどうにも、篝の胸に引っ掛かってならない。
雑念を振り払うように、首を横に振る。遅れたらならないと己に言い聞かせながら、篝は大広間に向けて歩を進めた。
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