第96話 魔女のお茶会再び

 狂犬の身体全体を覆った黒き混沌は、収縮を繰り返しながらその身を大きく悶えさせていた。


 表面がぐにゃぐにゃと波打ち、至る場所からぼこぼこと泡が立つように膨らんでは萎んでいく。


 全身にびっしりと散らばる目は絶えずまばたきを繰り返し、無数の口からは哄笑が溢れ続けていた。


 どれだけ経っただろうか。やがて闇の塊は次第に輪郭を安定させ始め、人型と思しき形状を取る。

 その頃には無数の口と目の群体は鳴りを潜めていた。

 ただ真っ黒な人の形をした闇が佇むばかりだ。


 顔に当たる部分に、一対の目が浮かぶ。

 それは今にもゆっくりと開かれようとしていた。




 ────




「何だあれは……今のは……湖にいた化け物なのか……?」


 大きな水晶玉を見詰めていたアシュリスが、途切れ途切れに呟く。


 ここはガーグ族の集落傍の防衛戦本陣。その天幕の一つである。


 自らの仕事を終え、各戦線の状況確認や指示を飛ばしていた彼女だが、ふと異常な疲労を感じた後に、凄まじい魔力の振動を察知した。

 すぐさまソルドニアに施していた追跡の魔術の座標を辿り、その場所へ水晶玉を通して遠見の魔術を発動させた。


 そして一連の出来事を見せ付けられ、呆気に取られて見入ってしまっていたのだ


 狂犬を飲み込んだ物は、湖でサンデーに捕獲された黒い化け物に酷似していた。


 その塊は、今や人型を成そうとしている。

 そして開かれた黒い瞳が、真っ直ぐに正面を見据えた。


「──はっ!?」


 その目と視線が交わった気がして、水晶玉を覗き込んでいたアシュリスは、咄嗟に椅子から立ち上がって身を引いた。


(視過ぎた……!?)


 動転の内に腰が抜け、耐え切れずに身体がぐらりと仰向けに倒れる。


 ──が。

 床へ打ち付けられる事は無く、代わりに、何か柔らかい物が彼女の身体を受け止めた。


(何が起こった……?)


 後ろを振り返ると、そこには見覚えのある巨大なパンダのぬいぐるみの顔があった。

 確か、ガーグ族との会談の際に、サンデーが腰かけていた物ではなかったか。


(──では此処は!?)


 見回すと、やはり覚えのあるピンク色が広がる、少女趣味の空間だった。


「──覗き見とは、騎士団長君と同じくお行儀の悪い事だね?」


 聞き覚えのある声が、パンダの裏側から響いてくる。


 ゆっくりと姿を現した人物を見て、アシュリスは目を瞠って思わず叫ぶ。


「……エミリー殿!?」


 巨大なパンダの陰から悠然と歩み出てきたのは、薄っすらと笑みを浮かべたエミリーだった。


 アシュリスを激しい混乱が襲う。


「何故貴方がここに!? 洞窟にいたはずでは!?」

「まあ落ち着き給え。時間はたっぷりとある。ゆっくりとお話ししようじゃないか。今お茶も淹れさせているよ」


 エミリーが、見せた事の無いにやにやとした笑みを湛え、アシュリスから見て右手のソファへと腰を下ろした。


「さて。大体の事情は視ていたのだろう? 儀式の不発から、私の身体の破壊まで」


 その言葉に、アシュリスの平静が少しばかりだが戻って来る。


「今、『私の身体』……と言いましたか? もしや……今喋っているのはサンデー殿なのですか?」


 姿形は完全にエミリーの物だ。声も彼女の物で間違いない。しかし冷静になれば、口調が完全に別物だ。


「察しが良くて助かるね。その通り。器があんな事になってしまったのでね。一時的に助手君の身体に避難していると言う訳だよ」


 薄い笑みを浮かべて話すエミリー──の姿を借りたサンデー。


 常にほんわかとした優しい笑みを浮かべるエミリーとは全く別人のような表情が、強い違和感を感じさせる。


 よくよく見れば、エミリーが常時身に着けているペンダントに、三つの炎が灯っている。三角形をかたどるような配置の炎の中心に、目のように見える模様が浮かび上がっていた。


「それが……貴方の本体と言う事なのですか……」

「ふふふ、少し違うね」


 力無く呟くアシュリスへ、サンデーは頭を振って見せた。


「私の本体はこの世界に持っては来られない。このペンダントは只の依り代さ。そして現界するには器が必要なのだよ。丁寧に作った人形に受肉していたのだが、今回ああいう事になってしまった」


 言いながら、アシュリスと共に転移させていた水晶玉を指差す。

 その中の映像では、人型の影が次第に色付き始めている所だった。


「長く旅をしていると、時々ああいった逸材と遭遇する事もあってね。一度器が壊れてしまうと、直すのに時間がかかる。こうしてこのペンダントを媒介として、助手君の身体へ意識だけ緊急避難させて貰っていると言う訳だ」


 炎を宿すペンダントを、そう言って指で示して見せる。


 アシュリスの顔に、次第に理解の色が浮かぶ。

 エミリーには手記を書かせると言う名目の他に、こういった緊急時にスペアの器としての役割も与えられていたと言うのか。


「しかし今回は幸運だった。湖で捕まえた子だが、実は自由に形態を変える力を持っていてね。今は器の修復を頼んでいるのだよ。黒ローブの子はその力に気が付いていなかったようだけどね」


 くくく、と普段のエミリーならば絶対にしない笑い声を漏らす。


「壊してくれた本人には核になって貰ったし、思った以上に早く直りそうだ。僥倖ぎょうこう僥倖。ああ、一応言っておくが彼は生きているよ。私の中で共に生きていく事になるだろう」


 楽し気に笑う様は、確かにサンデーの仕草そのものである。


(不殺の英雄が時折姿を消すのは、器を修復している期間が有ったからなのか……)


 アシュリスが思考している間にも、サンデーが言葉を続ける。


「そうそう、ついでに彼も回収しておいた。命に別状は無い。安心し給え」


 そう言って正面──アシュリスからは左手にあたるソファを差す。そこにはいつから居たのか、ソルドニアが気を失ったまま、力無くもたれていた。


「彼も失うには惜しい人材だからね。説得に時間がかかりそうで、こういう形にはなってしまったが。これも直しておいたし、無事という事で許してくれ給え」


 からんと、テーブルの上に投げ出されたのは、サンデーが味見をするために折ったはずの「光輝」だった。

 確かに噛み砕かれたはずのその刀身は、何事も無かったかのように元通りになっている。


 友人の安否が確認出来、ほっとしたのも束の間、アシュリスの胸に更なる思考の波が押し寄せる。


(神器ですら、こうも簡単に修復してしまうとは……)


 しかし彼女ならば、とすとんと胸に落ちる物がある。


 納得と共に、それにしても、と言う思いがアシュリスの心に去来する。


 人と全く区別の付かない人形を創り出し、意識だけを憑依させる。

 依り代が壊されれば同行者に乗り移る。

 見渡す限りのこの空間を苦も無く創り出し、水晶玉の中で変化を続けるあの身の毛のよだつ化け物をも、容易く支配してしまう。


 どれ一つ取っても、最早魔術の範疇には収まらない。

 これこそ悪魔が歪めた法則、即ち……


(──本物の『魔法』ではないのか!)


 それを行使できる存在など限られている。まさしく「神」、あるいは「悪魔」なのだろう。


 そんな強大な存在を目の前にして、アシュリスの身に激しい恐怖が襲い来る。


「貴方は……貴方の目的は何なのですか……?」


 思わず尋ねるアシュリスに、サンデーは悠然と微笑む。


「勿論、観光だとも。聞いていたのだろう?」


 確かにアシュリスは司教とサンデーの問答を視ていた。

 そして、今までのサンデーの英雄的行動も実体験として知っている。

 しかし、ある種の疑念がどうしても払拭できない。


 何かの弾みで、気紛れに世界を滅ぼす側へ回ってしまうのではないか。


「本当に……本当にそれだけなのですか……?」


 安心出来る言葉が欲しい。自分を納得させるだけの理由が欲しい。


 アシュリスのそんな一念を感じ取ったのか、サンデーが考える素振りを見せる。


「ふむ。まあ自覚はしているのだよ。私は迂遠な言い回しを好むせいで、誤解を受け易いのだという事は。嗜好は変わったとは言え、性格まではなかなか変わるものではなくてね」


 その時、以前見たメイドの少女が音も無くティーセットを運んで来た。


 それぞれの前へと、ふわりとした香りの漂うカップを置いていく。


(この少女も、器の一つなのだろうか)


 サンデーに似た顔を持つメイドが横に寄った時、アシュリスはそんな思いを抱いた。


「さあ、喉が渇いたろう。少し休憩しようじゃないか」


 言いながら、既に自分はカップに口を付けている。


 アシュリスも倣ってカップを持ち上げる。


「この香りは……」


 覚えの有る香りに軽く驚きながら、薄い紅色の液体を啜る。


「これは、湖畔の町の花のお茶……ですね」

「その通り。気に入ったのでお土産に買っておいたのだよ」


 サンデーは香りを楽しみながら、カップをゆっくりと傾けている。


「今の私は、このように心の安らぐ物を創り出せる君達を、とても尊敬している。かつて君達の祖先が、邪神と呼びんだ私をして、このような優しい気分にさせてくれるのだ。これを素晴らしいと言わずに、何と言おうか」


 それは、普段の軽薄な響きの無い、アシュリスにも理解出来る程の真摯な言葉であった。本心からの、最大限の賛辞なのだろう。


 その言葉が、茶の香りと共に身体に染み込むような感覚に、アシュリスの恐怖と緊張が僅かにほぐれて行った。


「少しは落ち着けたかね?」

「……はい」


 それを見計らったようにかけられた声に、アシュリスは小さく頷く。


「さて、君には選択肢がある。今ならば、私に関しての恐怖の記憶を消して、今まで通りの日常へ戻る事が出来るよ」


 顔には穏やかな笑みを浮かべているサンデーだが、その声に、今までに無い真剣さが宿ったように感じられた。


「しかしそれを拒み、私の話の続きを聞く事も出来る。ただし、この話を聞いた者は発狂してしまう事も多いのだがね」


 そこで目を閉じて一拍置くと、サンデーは目を開いてアシュリスへと向き直った。


「君はどちらを選んでも良い。どうするかね?」


 黒い闇色の瞳に正面から見詰められ、アシュリスは即答する事が出来ずにいた。

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