第95話 研がれた牙
左胸を穿たれたサンデーが、口からごぼりと黒い血を吐き出す。
次の動きを待たずに、今度は右胸にも手刀が貫通した。
ブシャリッ……
その突き刺した両手を左右に振り抜いて、サンデーの身体を引き裂いたのは、背後を取った狂犬だった。
想像を絶する修行の果てに、必殺の突きを編み出した彼は、野生の勘とも言える嗅覚を
そしてぎりぎりの間隔を保ったまま、ずっと尾行を続けていたのだ。
崖の上を飛び降りた時には流石に焦りを感じたものの、報復の一念を燃やし、岩壁にへばりつくようにして降って来たのだ。
そしてその復讐が、今ここに成就した。
「──今度は届いたぜ」
一点に力を凝縮した神速の突きが、サンデーの強固な魔力障壁を見事に打ち破って見せたのだ。
「はっ! まだまだこんなもんじゃ終わらせねぇぞ!」
一撃入れた程度で気を緩める程愚かではない。
サンデーの胸から脇を抉り取っても手を止めず、反撃を許さないままに、腹、腰、頭、首と、的確に急所を貫いていく。
声を上げる間すら無く、最早動かぬ肉塊と化した女の身体。それでも飽き足らず、四肢を切断して見せる。
支点を失い崩れ落ちた女だったものを見下ろし、狂犬は高らかに嗤う。
「ひゃはははは!! どうだ! てめぇが馬鹿にしやがった雑魚にぶっ殺された気分はよぉ!!」
ばらばらに切り刻んだ肉塊を、更に踏み潰し、ぐちゃぐちゃと丁寧にミンチへ変えていく。
「あの訳わかんねぇ黒ローブも、あのクソ騎士野郎でも倒せなかったクソアマを! 俺が! この俺がぶち殺してやったぜ!! ざまぁねぇな!! ひゃっはははははは!!」
グチャッ……ミチッ……ビチャッ……
肉が引き潰され、血が跳ねる音と、狂犬の甲高い哄笑が薄闇の中に響き渡る。
「ひゃはははは!! ひゃああああははははははあ!!」
かつてない恍惚の中で、狂犬は地面に擦り込むかのように、念入りに肉片を磨り潰す。
「くくく、ひゃひゃひゃひゃ!!」
全身に返り血を浴び、目には狂気じみた光を浮かべ、血塗れの手で髪をかき上げながら笑い続ける。その様は、まさに狂犬の名に相応しい姿であった。
「ひゃひゃひゃひゃ……」「ふふふふ……」
その時、狂犬の笑い声に重なるようにして雑音が割り込んだ。
「……ああ?」
笑いを止めて耳を澄ませる狂犬。すると、
「……ふふふ……ふふふふ……」
確かに何者かの笑い声が微かに届く。ざらざらとした雑音が混じるが、女の声のように聞こえる。
「誰だ! どこにいやがる!!」
周囲を見回し、誰何の声を上げる狂犬。その間にもノイズ混じりの笑い声は聞こえている。
「──そこか!!」
ついに声の発生源を特定し、その場所を見据える狂犬。そしてその目が驚愕に見開かれた。
たった今の今まで彼が足蹴にしていた血肉の海。
その内の一切れ残った極小の肉片。そこに、弧を描く唇が浮かび上がっている。
「ふふふふ……」
その口が震える度に、確かに笑い声が流れ出す。
「クソが! まだ死に切ってねぇのか!」
ズダン!!
その唇が浮かぶ肉片を、地面と共に踏み砕く狂犬。
「……ふふ……ふふふふ……」
しかし声は未だに途絶えない。聞こえた方向を見れば、また同じように唇が浮かび上がっている。
「こっちもか!」
ゴシャリッ!!
同じように拳で打ち据える。
それでも声は止まず、また新しく同じ物が生まれる。
「上等だ! 全部踏み潰してやろうじゃねぇか!!」
笑い声が上がる度に、地面を陥没させながら血肉を撒き散らす狂犬。
そのいたちごっこを続ける内に、次第に唇が増える速度が増してゆく。
流石の狂犬も、同時に十も二十も増殖していく小さな唇を処理仕切れなくなっていった。
『ふふふ……ふふふふ……ふふふふ……』
今や辺りに飛び散った血肉の海その全てに、歪んだ笑みを浮かべる唇が居並んでいた。
その分音量も凄まじく、洞窟内に不穏な嘲笑が渦となって響き渡る。
「どうなってやがる……!!」
息を切らして呆然とそれらに囲まれる狂犬。
思わず足を止めたその時だった。足元にぞわりとした感触が生まれる。
そちらを見やると、もぞもぞとゆっくりした動きで、足元から黒い血肉が這い登ってくる所だった。
「うおっ!? なんだこりゃあ!!」
咄嗟に足を引き抜くが、新たに付けた地面からも同じように血肉が纏わり付いてくる。
この時に、初めて狂犬の背筋に恐怖と言う感情が走った。
そしてその一瞬が、後の運命を定めてしまった。
戦慄に身を竦めたその刹那、ぶわりと一息に、膝まで血肉に飲み込まれてしまったのだ。
『ふふふふ……捕まえた……』
笑い声と共に、聞き覚えのある声が響く。
『やはり、思った通り。君はやれば出来る子だったね。今回の現界で私に傷を付けたのは君が初めてだ』
「その声は……てめぇ、こんな
今度こそ足を完全に取られ、動きを封じられた狂犬が叫ぶ。
『そもそも私に生死の概念は無いからね。君が壊したのはただの器だ。それでも十分に大したものだけどね』
さざ波のような笑い声に混じり、軽薄な声が聞こえている。
『さあ、散々遊び尽くしただろう。楽しかったかね?』
言葉が紡がれる間にも、ぞわぞわと血肉が体を這い上がって来る。手で振り払おうとするが、触れた先から絡め取られてしまった。
「クソ、クソッ、クソがあああ!!」
すでに半身を黒い物に侵された狂犬。身体は微塵も動かない。触覚すら失いかけている。
痛みは無い。まるで大量の蛆が皮膚の上をじわじわと這うように、ゆっくりと己の肉体が侵食されていく様が感じられる。
血肉だと思っていた物は、いつの間にか黒くぬめる粘液状の物に成り代わっていた。
それが触れている部位が、他の何かと置き換えられていくような、奇妙な感覚が狂犬にもたらされる。
『楽しく遊んだ後は、お片付けの時間だ。しっかり元通りにしてくれ給えよ』
その声を合図としたように、地面に広がる黒い粘液に、一斉に無数の瞳が現れた。
かっと見開かれたその瞳全てが、一点──狂犬へと向けられる。
そしてその姿を認めた瞬間、
キャハハハハハハハハッ!!
耳をつんざくような爆発的な哄笑が巻き起こり、狂犬の精神を削り取って行った。
「何なんだ……一体何なんだ、てめぇはよぉぉぉ!!」
完全に恐慌をきたした狂犬が喚くが、最早返答は無い。
その叫びは、すぐさまけたたましい笑い声に掻き消されてしまう。
無数の目と口を内包する混沌の渦へと、狂犬の身体はいとも容易く飲み込まれていった。
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