第59話 黒き混沌
黒い粘液のような物が、辺り一面に広がっている。
表面はてらてらと仄かに光り、水面にどす黒い油が張っているかのようにも見える。
ここが湖だったと言われて、誰が信じるだろうか。
湖水は完全に黒い粘液に覆われ、ゆらゆらと波打つように蠢いている。タールのように真っ黒なため、水面下は全く見通せない。
時折、ずるりと一部分が突出して触手のようなものを形成する。それが見る間に岸を超えて伸びて行き、湖畔に生える樹に絡み付いては、雑草でも引き抜くようにあっけなく黒い湖面に引き寄せ飲み込んでいく。
その衝撃に驚いて飛び立った鳥にも素早く巻き付いて、同様の運命を辿らせた。
そんな光景が、周辺のあちらこちらで続けられている。
「まったく……何なのよあれは」
アルトは少し離れた高い樹の上方に立ち、その様子を双眼鏡で観察していた。
その姿は、巨大、の一言に尽きる。
この島ではあらゆる物が巨大化する法則でもあるのだろうか。金毛羊然り、ガーグ族然り。
しかしこれについては規格外すぎるだろう。
現時点ですでに、小さな村など一飲みに出来るのではないだろうか。
その黒い粘液は、岸辺のあらゆる動植物に手を伸ばし、引きずり込みながら、下流へとゆっくり進んでいる。
進むと言うよりは、成長した分が湖に収まらなくなり、河へと溢れ出している、という事だろうか。あまり能動的に動いているようには見えない。
アルトの観察は続く。
「……うっわ、キモ」
粘液の表面をじっくり確認したアルトが、心底嫌そうに吐き捨てた。
黒い粘液の表面には、よく見ると無数の目玉や口が点在していたのだ。数えるのも馬鹿馬鹿しい程の、夥しい数だ。
それらが無規則に開いたり閉じたりを繰り返す様は、嫌でも戦慄と嫌悪を掻き立てられる。
得体の知れない物への、根源的な恐怖だ。
「……もういいか。これ以上見てても何もわからなそうだし」
怖気を断ち切るように双眼鏡から目を離すと、腰のポシェットにねじ込みながら、樹を枝伝いに降りて行った。
「見てきたわよ」
「おう、お疲れさん」
樹の根元で待っていたナインが、労いの言葉をかけて来る。
「で、どんなもんだ?」
「どうもこうもないわ。あんなもの見た事無いし、なるべくなら、もう見たくもないわね。夢に出てきそう」
今見た物を記憶から消去したい思いを抑えて、淡々と報告を始めるアルト。
その場には複数のグループが待機していた。
早朝にガーグ族の案内で森へ入ったアシュリスと配下の高位魔術師3名、魔銃隊5名。護衛として依頼を受けた竜閃の二名。
そしてガーグ族からは族長以下、近衛の亜人兵が5名だ。
ソルドニアはフロント防衛の任がある為、動く訳にはいかない。
「我らが確認した時点より、更に育っているようだな」
族長が重々しく口を開いた。昨日サンデーが振る舞った茶の効力が及んでいるのか、アシュリスとだけではなく、他の人間とも会話が成立していた。
同様に、アシュリスにも他のガーグ族の言葉が解かる為、グループ間の意思疎通に問題は無かった。
「スライムの亜種という線は無さそうか。奴らに眼球等の器官があるとは聞いたことが無い」
報告を聞いたアシュリスに落胆が浮かぶ。
「あれは物理攻撃が効きそうな感じは無いですね。魔銃隊も選んだのは正解でしょう」
アルトが言いながら、アシュリスの背後で整列している部隊を見やる。
魔銃の名手として名高いアルトの視線を受けて、彼らの姿勢がピンと伸ばされた。
魔銃隊とは、アルトの持つ小型魔銃ではなく、1世代前の長銃式魔銃の扱いに長けた特殊部隊である。
いち早く兵器としての有用性を見出したソルドニアによって、弓矢に代わる射撃武器として採用され、訓練が進んでいる部隊だ。
拳銃式と比べて長大で、取り回しが悪いが、それを補って余りある射程と威力を誇る。遠距離からの狙撃に向くタイプの銃である。
アシュリスが事前の情報から、物理攻撃はほぼ無効だろうとの推論を立てて選抜したメンバーだった。交戦する事になった場合、現場判断に優れたアルトが指揮を執ることになっている。
「族長殿。火による攻撃は無効化されたのだったな?」
「うむ。松明を投げ込んだが燃えもせずにそのまま飲み込まれた」
「出力の問題も有るかも知れないが……まずは凍らせて砕くか、雷撃を撃ち込むか、だな」
「了解。ほら、充填開始。半々の割合でね」
アルトの指示が飛び、魔獣隊がマナバッテリーに魔力を込め始める。
「凍りさえすりゃあ、俺らがかち割ってやれるんだがな」
ガーグ族を振り仰いで親指を立てて見せるナイン。ガーグの戦士達もそれを真似して鉤爪を立てて見せた。
彼らは脳筋同士でウマが合うのだろうか、不思議と身振りだけでそこそこの意思疎通ができていた。
「何度も言うが今回は様子見だぞ。特にお前達戦士はあまり前に出るな。掴まれば救出できる保証が無い」
釘を刺すようにアシュリスの声が飛ぶ。
「わかってまさぁ。俺らは領主殿と後衛の警護、いざって時の盾ってね」
「なら良い。……サンデー殿は来ていないが、あまり悠長にしている暇も無い。進むとしよう」
アシュリスの号令で、一行はしばし河沿いを遡って行くのだった。
上流に向かうにつれ、先頭を行くアルトの耳が聞き慣れない音を捉え始める。
「何この音……」
しばし列を止めるように合図をし、耳を澄ませるアルト。
確実に、今向かっている方向から聞こえている。
キャハハ……キャハハハハ……
子供のような甲高い笑い声に思える。
聞いている間にも、その音量は徐々に上がってきている。
「近寄ってる……!?」
アルトは近くにあった大木へするすると登って行くと、前方を確認した。そして、その眼が驚愕に見開かれる。
先程見たばかりの黒い粘液は、水面を覆うように平らだったはずだ。
それが今はどうだ。平面から立体へと張り出すように、大きく波打ちながら膨れ上がりつつある。その高さは周囲の樹々とほぼ変わらない程だ。
高さを増したことでより遠くまで触手が届くようになり、周囲の樹々をなぎ倒しながら膨張を続けている。
「成長が加速してる!」
アルトの叫びに、アシュリスが素早く反応した
「皆伏せていろ! ここに簡易な
言いながら地面に手を付き、魔力を集中させる。
すると、一行の立っている地面が隆起を始め、樹々よりも高い壁がそびえ立った。河を超えた対岸までも覆い、城壁とも言えるような作りだ。
高さを確保したことで、全員の目にも「それ」が確認できた。
一瞬ごとにどくんどくんと脈打ち、収縮を繰り返している。まるで球根から多数の根が張り出すように、無数の触手を振り回しながら、周囲の物を分別なく取り込んでいく。
心なしか、意思を持って河を下り始めたように見える。
無数の目玉を激しくまばたかせ、無数の口から際限なく哄笑を垂れ流すその姿は、まさに恐怖と混沌の具現であった。
最早それは動く小山と言って差し支えない威容である。
歴戦の戦士であるガーグ族も一歩足を引き、魔術師や魔銃隊は完全に腰が引けている。叫び出して逃げないのは褒めても良いくらいだ。
「総員戦闘準備! 様子見などと言ってられん! ここで止めるぞ!」
戦力の多寡は今更言ってもどうしようもない。そもそもただの兵士をいくらぶつけようが、あれの前には無駄だろう。今いる少数精鋭でなんとかするしかないとアシュリスは判断した。
そのアシュリスの一喝によって、喪失しかけた戦意を取り戻した一行は、各々の役割を思い出して戦闘態勢に入って行った。
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