降ったり止んだり

津月こゆび

第1話


 彼女は、ぬかるみにはまって抜け出せない子供のように突っ立っていた。

実際、目の前に古い友人が突然現れたわけでも、鴉の糞が降ってきたわけでも、本当にぬかるみにはまってしまったわけでもない。

ただ、考え事をしていただけである。


 夢は、なぜ見るのだろう。なんのために見るのだろう。そして、なぜ忘れてしまうのだろう。

夢は余計なことを忘れるために見るのだとか、心の中の邪悪なものを追い払うために見るのだとか、どこかで聞いたような気がする。


 何かを忘れてしまうのは、怖い。

覚えていたくても忘れてしまうから、夢はすごく怖い。

 そして夢は、すごく変だ。

ありもしない公園に友達ではない友達、私ではない私。

 昨日、彼女の夢に変な男が登場した。

背がすごく高いその男は、真っ黒なスーツを着て、杖をついて歩いていた。真っ黒なシルクハットを深く被っていて、顔は見えなかった。

その男は彼女に向かって何か言って去っていったのだが、何を言っていたのかは思い出せない。

 あの男は、何を言っていたのだろう。


 2日前、彼女はハンカチを失くした。

 レースのついた、淡い紫の女の子らしいハンカチ。

ハンカチなら他にも持っているし、特別高価な物でもないので、そのハンカチを大切にしたりはしていなかった。

まあ大切にしていたら、そもそも失くしたりはしないだろう。

けれど、失くしたことに気づいた途端、それが自分にとってすごく大切な物だったような気がしてくるのだ。

 何故なのかは、分からないけれど。


 彼女がふと顔を上げて辺りを見回すと、傘を差しているのは彼女だけだった。

 雨が降っていたはずなのになと心の中で呟いて、彼女は傘を閉じた。

蒸し暑いな、と感じた。

彼女が考え事をしている間に、何回信号が変わっただろう。

 小さなため息をひとつついて、彼女は横断歩道を渡り始めた。


 結局、あのハンカチはどこに消えたのだろう。

どこかに落としたのかもしれないし、もしかしたら夢で見たあの男に盗られてしまったのかもしれない。


 そういえば2日前、泣いていた気がする。


 夢は余計なことを忘れさせてくれるというのが本当ならいい。彼女は歩く足を速めた。


 彼女の涙が染み込んでいるはずのそのハンカチにも、夢で見たあの男にも、もう出会うことはきっと無いだろう。



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降ったり止んだり 津月こゆび @sugeta

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