前日 ウンチの場合-3
「あのとき」の出来事は、七年が経った今でも、まるで昨日のことのように思い出せる。……妹が小学校に入学してすぐ、僕が二つ上の学年にいた頃のことだ。
「可笑しいよな〜。兄ちゃんの名前がウンチで、妹がチンコなんて」
たまたま耳にしたそんな声を怪訝に思って、男子トイレを覗き込む。そこにあったのは、同級生の男子たち数人の人だかりと、その中心で小さく震える妹の姿だった。
「ふつう、女子にチンコなんて名前つけないもんな〜」
「もしかしてお前、本当はついてんじゃねえのか〜?」
「ついて、ません」
震える声で、妹が呟いた。すると、男子たちの中からひとり、恰幅の良いガキ大将が前に出て、
「じゃあ、見せてみろよっ」
そう言って、彼女のスカートを無理やり下ろそうとする。それにも関わらず、彼女は叫び声ひとつ上げることなく、ただ呆然と立ち尽くしている。
「あわよくば」という程度に誰かの助けを期待するような、或いはとうに諦めが付いたかのような虚ろな眼差しで、どこか遠くを見つめるばかり。生気をまったくもって感じさせないその姿に、幼いながらも危機感を感じて、気づくと僕は飛び出していた。
「おい、やめろよ!」
同級生たちの視線が、一斉にこちらへと注がれる。その顔ぶれはいずれも、学年で名の知れた問題児ばかり。
「おっ、ウンチくんの登場だ」
「やーいウンチ、ウンチでもしにきたのか〜?」
心底可笑しいといったふうに、ケタケタ笑う同級生たち。その中で唯一、無感情な仏頂面をしたガキ大将がこちらを振り向いて、
「お前も見学したいのか?シスコン野郎」
彼の鋭い眼光に睨まれて、僕はほんの一瞬、躊躇した。栄養失調気味の僕なんかより随分体格のよい同級生たちや、その中でもとりわけ悪童として有名な彼なんかを相手に、まともな勝負になるはずがないではないか。
——否。それでも、やらなくちゃ。なにしろ僕は、彼女の兄さんなのだから。
「その汚い手で……」
覚悟を決めて、僕は拳を握った。
「僕の妹に触るなっ!」
今となって思い返してみれば、同級生五人を同時に相手取って、よくもあそこまで善戦できたものだ。最後のひとりが男子トイレから逃げ去っていくのを見送ると、気力だけで立ち続けていた満身創痍の身体は、瞬く間に崩れ落ちる。
「おい……大丈夫か……?」
皺枯れた声で、僕は尋ねた。その場にへたり込んだまま、立ち上がれない様子の妹は、辛うじて小さく頷く。
「よかった……」
心の底から安堵して、そう呟いていた。しかし当の彼女は、納得がいっていないようで、
「よくなんか、ないよ」
今度こそ力強く、首を横に振った。
「わたしが受ける筈だった痛みを、兄さんが代わりに受けただけ。わたしたち兄妹が傷ついたことに、何も変わりない」
「どうして、かな」潤んだ瞳から、涙が零れ落ちた。
「何も悪いことしてないのに、どうしてみんなに殴られるのかな。蹴られるのかな。わたしたち、前世で悪いことしちゃったのかな。こんなに痛いのに、苦しいのに。わたしたち、どうして……」
それに続く内容は、今でも思い出すことが憚られる。
僕がこれまで触れてきたどんな罵詈雑言よりも残酷で、幼い少女が発するには、あまりにもグロテスクが過ぎる言葉。彼女が二度と、それを口にすることのないように、これまで努力してきたつもりだった。なのに……。
なのに僕は、なんと無力なのだろう。
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