うさぎ荘青春スクランブル!

鶴守 樹

プロローグ

 二人だけのこじんまりとした事務室にて。


 「部長……すみません」


 内間さんが俺の机の前に立っている。彼女の沈んだときのすみませんは、何か失敗したときのサイン。想像するとちょっと怖い。


 「ど、どうかした?」


 「その……ばたばたしてたら、給与の送信期限忘れてて、振込間に合いませんでした!」


 俺に深々と頭を下げる内間さん。


 「え?」


 「す、すみません!」


 しんとした空気が訪れる。


 「あ、あれから、人数増えたよね?」


 おずおずと差し出される明細。彼女の親指が視界に入ると、爪をピンク色に染めていた。


 「ちょ、ちょっと待ってね。考えるから」


 ミスった。内間さんに声を掛けるの忘れてた。あぁ。ママ、また怒るだろうなぁ。


 「内間さん、まだ銀行間に合うから、振込用紙、人数分よりも多く持って帰ってきて」


 「は、はい」


 内間さんは、今にも泣きそうな顔をして走って出て行った。


 ――――はぁ、何て言い訳しようかな。役員室と書かれたプレートの前まで足を進め、佇んでいたが、意を決し扉を開けた。


 「ママ。ちょっといい?」


 「ん? 何かあった?」


 妻ことママは二枚のモニターを見ながら、カタカタとキーボードを叩いている。


 「あ、あのー。それが……給与の送信期限過ぎちゃって、振込用紙書かないといけないから、今日は遅くなります。保育園お迎えお願いします」


 ママは手を止めて、眉間にしわを寄せた。始まるな。


 「また? 何で同じ間違い繰り返すの! 振込手数料もったいないし、銀行さんにも迷惑かけるのよ! 従業員からクレームが来るじゃない! まだ振り込まれてないって。朝から引き出せるようにしとかないとダメだって、なんとか法が言ってるんでしょ?」


 「……労働基準法です」


 「それ。分かってるじゃない。何でそんな大事なこと忘れるの? ほんと、おっちょこちょいなんだから。今、組合と揉めてるの知ってるでしょ? デモみたいなことされてたいへんなんだから、変な問題起こさないでよ。あたしが恥ずかしいじゃない! まったく。今日あの子に相談する内容が増えたわ。料金増えなきゃいいけどね」


 「ご、ごめん。内間さんが」


 「内間さんのせいにしない! 面倒見るのがパパの仕事でしょ! パパが不器用だから、細かいことができる人が欲しいって言うから採用したんでしょ。責任持って育てなさい!」


 「……はい」


 はぁ。やっぱり怒った。俺は悪くないんだけどなぁ。


 「二回目よ。また訓告ね。はぁ。いいわ。母さんが戻ってきたら、迎えに行く」


 事務室に戻り、自分の作業を終える。内間さんが帰ってきた。二人三脚で、振込用紙に従業員の口座と振込額を記入する。振込用紙って枠が小さいから書くの苦手なんだよなぁ。


 「あっ、これはダメです。枠からはみ出てます。ふふ、部長、こういう作業苦手でしょ」


 てめぇは笑える立場か? 俺が事故ったじゃねぇか。からかってんじゃねーよ。ったく。


 「内間さん、少し休んでいいよ――――」


 窓から外を覗くと、遠くに見えるビルの頂上に、夕日が隠れようとしていた。


 保育園行きたかったな。よし、はーちゃんが起きてる間に終わらせよう――――。


 作業を終え、オフィスに鍵をかける。日は沈んでいた。鼻歌を歌いながら、足早に駅に向かう。列車に揺られ南に下り、JR逢月(あいげつ)駅のプラットフォームに降りて改札を出た。スマホの時計を見る。


 ――――あっ。今日だ。よかった。気がついて。


 駅前のコンビニに立ち寄る。俺がここに来てから十何年店員が変わってないなぁ。オーナーかな?


 ともに新発売の缶チューハイ二本とかぼちゃケーキとおまけにバナナを買う――――これでママ機嫌直してくれるかな? 早歩きで家に向かう。池を囲んだ公園では、ライトアップされた桜の下で、花見客が騒いでいる。マンションが立ち並ぶ住宅街に入ると、ぽつんとある廃墟のようなアパートの二階から、今日も賑やかな声が外に漏れている。その裏にある平屋の一軒家が、我が家。


 「ただいま――――」


 玄関で靴を脱いでいると、我が愛しの子、はーちゃんが走ってこっちに向かってくる。抱っこする。


 「おかえり。給与は間に合いそう?」


 少しだけ笑顔を見せるママ。機嫌は直ったみたいだ。


 「明日朝一で銀行にもっていくよ。保育園は、今日は何かした?」


 「特に言ってなかったわよ。今日はこけて泣いたみたい」


 「へえ。はーちゃん、こけたの? 痛かった?」


 「……うん……ばな」


 「バナナ買ってきたよ」


 「ダメだって。もう歯を磨いたんだから。ご飯作ってるから、パパも食べて」


 「うん。ありがとう。はーちゃん、ばな、ダメだって」


 「ばなないない! う、うわあぁぁぁん」


 「二重否定した。すごい。あげてもいいんじゃない? かわいそう」


 「感心しない。余計なことしないの。我慢しなくなるでしょ」


 「はい。ごめんね。はーちゃん」


 赤ちゃんの泣き声が、夜分の住宅街に響く。

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