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容態がやや安定し、家族は一旦ICUの待合室に向かう。看護師が両親を呼び止めた。
「明日香さん。息子さんの所持品と運転免許証です。実は……この免許証に息子さんの意思表示が……」
血のついた洋服や靴は透明のビニール袋に無造作に入れられていた。
親父はそれを受け取ると、お袋の顔を見た。血液のついた生々しい衣服に、お袋はもう立っているのがやっとの状態だった。
親父が俺の運転免許証の裏面に視線を向けた。
「おい……母ちゃん……」
運転免許証のカードの裏には臓器提供に関する意思表示が記入されていた。
真新しい運転免許証のケースには折り畳まれた便箋が挟まれていた。その便箋を親父が取り出す。
運転免許取得と同時に、免許証の裏面に臓器提供の意思表示を記入したんだ。
それは、舞さんのように臓器移植を必要とする人に、俺も何か役立ちたいと考えた結果だった。
「母ちゃん……涼は臓器提供に同意している」
「そんなバカな……。涼は免許を取得したばかりなんだよ。そんなことを記入するはずがない」
親父は小さく折り畳んだ便箋を開いた。
『親父、お袋へ。
やっと運転免許証を取得しました。
親に相談もなく、免許証の裏に臓器提供の意思表示をしてごめん。
でも、これは俺なりに考えた結果なんだ。
お袋……覚えてますか?
俺、小学生の頃によくお袋に言ったよね。
ドーンという衝撃と、強い光が迫ってくるって。
お袋は『夢だよ』って笑っていたけど、俺はずっとその恐怖と戦って生きてきたんだ。
フラッシュバックのように蘇るその光景が何なのか、自動車学校で教習を受けはっきりとわかった。
あれは十九年前に起きた、交通事故の記憶だったんだ。
俺は事故で亡くなった翔吾さんの声も聞いた……。
その翔吾さんの想いを背負い、ある人に逢うためにこの世に生まれてきたのだと理解した。俺はずっと翔吾さんの記憶を残したまま、生きてきた。
こんな事を書いても、親父もお袋も信じてはくれないだろう。
でも、お袋……。
俺なりに、この不思議な現象をこう仮定した。
俺は切迫流産で一度命を落とし、偶然同時刻に病院で命を落とした翔吾さんに命を繋がれた。
俺の記憶の中にいたのは、間違いなく立花翔吾さんなんだよ。
万が一、俺が死に直面したら、脳死、心停止に関わらず、俺の体の臓器は、全てドナーとして役立てて欲しい。
頼んだからな……親父。
涼より』
親父とお袋はその手紙を読みながら、顔を見合わせた。
「そんな……ばかな……」
そんな話が現実にあるはずはないと、咄嗟にそう思ったに違いない。
親父も当時の事故のことはよく知っていたはずだ。テレビや新聞で、飲酒による死亡事故として大きく取り上げられていたから。
便箋を持つごつい手が、ガクガクと震えていた。
「父ちゃん……馬鹿な事は考えないで。涼は……生きてんだよ……。手術は必ず成功する……。父ちゃん……返事してよ。涼をドナーにはしないって、ハッキリ言ってよ」
お袋は親父に縋りつき取り乱した。
臓器提供の意味がわからない弟達も、それが死を意味するということだけは漠然と理解し、お袋と一緒に声を上げた。
「父ちゃんやめてよ! やめてよ!」
――俺は両親のすぐ傍にいた。
誰にも見えていないけど、俺は家族の傍にいた……。
『親父……最期の我が儘だよ。全部本当のことなんだ。……頼むよ』
そう願う俺の声は、もう両親の耳には……届かなかった。
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