ダイイング・ドリーム

江渡由太郎

第1話 朧月夜の雨

 漆黒の雲間から時折躊躇いがちに下弦の月が顔を覗かせていた。


 やがて、黒猫の眼孔の如く妖しき月光は瞼を閉じる様に完全に姿を消した。


 湿気を含んだ不快な濡れた風は長い黒髪を愛撫する。


 すると突然、アスファルトを叩き続ける横殴りの雨の夜が急に降り出した。


「雨……雨だわ……」


 大粒の雨によって女の黒く長い髪は、烏の濡れ羽色となっていた。


 傘も無く全身がずぶ濡れになってしまったが、女は一向に害さない様子で歩き続けた。


 橙色の街灯の明かりさえかき消してしまう深い闇が視界を更に狭めた。


「こんな事になるんだったら、初めから償わせておけばよかった……」


 雨音に掻き消され、己の発した言葉さえも自分の耳には届かなかった。


 屋外駐車場に停めてあった黒色の乗用車へと乗り込んで、エンジンキーを回した。


 静かなエンジン音と共に女は溜め息つき、そして瞼を閉じた。


 車のワイパーはフロントガラスに降りつける雨粒をひっきりなしに取り除こうとする。女はその音に暫く耳を傾けた。


 瞼を閉じた状態であっても、止むことを忘れた雨によって一向に視界は開けないのは容易に想像できたのだ。


「あいつは本当に死んだのだろうか!?」


 不意に脳裏をかすめた一つの疑問が、徐々に不安として確かに芽吹いた。


 それは次第に膨らみ始めて女の心を満たし、やがて女は不安という名の恐怖で溺れそうになった。


「大丈夫……あいつは死んでいたわ。間違いない。まだこの手にあいつの感覚が残っているんだから」


 肉を穿いたあの生温かい不愉快な手応えは女の手が記憶していた。


 右手を見るとそこにはまだ刃物を握っている感覚はあるが、兇器として使用した物は既に何処にも無かった。


 女はそれを何処で落としたのか思い出せずにいた。


 だが、もうどうでもいい事である。


 何故なら、全てはこの雨によって流され痕跡すら残らないはずなのだからと女は自分に言い聞かせて独りで納得していた。


「この世は地獄だわ。神なんて存在しない。心が純粋で善人ほど生きづらい世界なんてあってはいけないのよ」


 神の示す善とはいったい何なのか、神の示す個々の行為は残酷なのではないかという考えがずっと頭の中にあった。――否、神の示す理という物自体を疑問に思わない日が無かった。


 では、神は無慈悲で残酷なのかといった疑問を自問自答として投げかける。


「神が善人に対して救いを与えてくれただろうか。もしそうなら、私はあいつを許せたというの?」


 しかし、答えは返ってこなかった。


「そうね……私の手はもう血に染まって穢れている。私こそが圧倒的な悪の心を持っているのかもしれないわね」


 車内シートに体を預けたままいつしか深い眠りへと誘われていった。


 微睡みが次第に女の意識を奈落へ堕ちて行く感覚を心地良くさせる。


 あいつという存在が死と共に消え去るのかと思っていたが、相反して今まで以上に強くはっきりとあいつを意識させられた。


「何故!? 何故なの!? あいつは死んだのに。何故まだ私を苦しめるの!?」


 あいつは私を苦しめる存在だと今までそう思っていたし、そう確信していた。


 お金も奪われた挙げ句、周囲には悪評を振れ回られた。


 金銭も財産も名誉も人生の何もかもあいつに滅茶苦茶にされ、最終的には全てを奪われたのだ。


「だから、私はあいつを許せなかった。憎かった。怨んでも怨みきれない。殺しても殺し足りない」


 あいつは、“俺には時間は幾らでもあるからな”とそういつも脅してきた。


 何をしでかすか分からない危うさのあいつがもう好き勝手するのが許せなかった。


 そして、あいつは死んだ。


 あいつの命が失われていく様に、憎悪もまた失われていくと思っていた。


 残されたのは、増し続ける憎悪と罪悪感だけだった。


 毎日、あいつの事を恨まない日は無かったはずが、こんなにも簡単にそして呆気なく終わってしまうものかとさえ感じた。


「あいつの人生っていったい何だったのだろう? 皆に嫌われ疎まれ厄介者扱いされたあいつの人生って幸せだったの!?」


 一瞬、哀れみが止めどなく溢れてきたが、哀れむ相手の命を奪ったのは他ならぬ自分だという事に胸が締め付けられた。


 憎しみと愛情は紙一重で同じものなのかもしれないと初めて感じたのだ。


「神様……私は取り返しのつかない過ちを犯しました。これからどうしたら……」


 誰もが生まれながらにして善人でありたいと願い、神の子であり善行のみでその人生を終えたいと願う。


 神の導く通りの神の子であり続けたいが為に、悩みそして苦しむ。


「私はあいつを殺した。あいつの命を奪った。あいつの人生を終わらせた。なのにあいつはまだ私を苦しめる」


 肉体の死によって人は死ぬ。


 だが、それは本当の死ではない。


 本当の死とは“魂の死”即ち“存在の死”である。


 誰も亡くなった故人の事を思い出さない又は存命していた事を知らないということが、人間にとっての本当の死なのである。


 あいつから逃れようと必死に生きてきた女は、ここ先もずっとあいつの存在から逃げる生き方をすることとなった。


「私は死ぬまであいつから逃げられないのね……」


 女は夢の中ではあるが、自分が今後ずっと背負う呪縛を静かに悟ったのだった。

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