2話

 大きく鼻で息を吸う。冷たい外気に、目を覚ます。ぼんやりとした視界が、徐々に、自分の現在地をわりだす。ここは…列車の中…ん…眠っていたのか、僕は…。過去を思い出す。たしか…少女…ホワイトが前に…。顔を上げ、正面に目をやるも、記憶の中の少女はいなかった。不思議に思い立ち上がる。しかし、背もたれのコンテナのせいか、寝心地は悪かったらしく、体中がきしむような痛みを感じた。腰を伸ばしながら、あたりを見回す。どうやら列車は止まっているようだ。まだはっきりとしていない視界をこすりながら、僕は、半開きになっていたコンテナの入り口に足を向けた。

 扉を開け、外に降り立つ。いっそう視界がぼやけたのは、深く濃い霧のせいだと気が付くのに時間がかかった。真っ白な空間に立ち尽くしていると、すぐ横から声が聞こえた。

「遅い。」

 目をやると、ホワイトがコンテナに寄りかかって立っていた。不機嫌そうな顔は声の通り、いや、しかし、昨夜は気が付かなかったが、とても端正な顔立ちをしていた。針のように緊張を緩めない輪郭に、どこかまだ幼さの残る大きな瞳。およそ美少女と名を打つには十分すぎた。

「何よ…じろじろ見て…気持ち悪い。」

「ああ、ごめん。」

 見とれるのもそこそこに、僕は疑問を投げかけた。

「えっと…ここはどこなんだい?」

 少女は顔を正面に向けたまま答える。

「朝からこんなに濃い霧が出てるのはあそこくらいしかないでしょ。目的地に着いたの、私たち。」

そうか…霧の都・ロンドン…。

 ゴーン、と、とてつもなく大きな鐘の音が、早朝の大気に響き渡った。ここはロンドン。時を告げるこの大きな音の正体は、容易に想像ができた。

「さて、」

 ホワイトはコンテナから背を離し、僕を一瞥した。

「行くわよ。準備して着いてきて。」

 彼女は僕の反応には見向きもせず、歩き出した。僕は急いでコンテナの中に戻って、工具達を抱える。数メートル先もはっきりしない濃い霧に邪魔をされながら、不確かな彼女の影を必死に追いかけた。


   *


 線路沿いの金網を越えて、石畳の道を歩く。静寂と霧に包まれたここは、電灯の明かりがぼんやりと宙に浮くように見え、不思議の国、まるで僕たちを迷子にさせる女王の仕業のように見えた。

 はぐれないように、ホワイトの背中を確認しながら歩く。すれ違う人はいない。いや、見えないだけかもしれないが。

 ふと、道を外れ、道沿いの路地に入っていく。建物と建物の隙間、いまだ霧は濃かった。

 脇にある階段を下る。カツン、カツン、と二人分の足音が響く。

地下一階と思われる場所にたどり着く。しかし、なぜか、見上げるとまだ空が見えた。

ホワイトは足を進める。またも石畳の道を歩く。横には霧に包まれた住宅街が見える。…ここは、地下なのか…?またも路地に入り、階段を下る。

繰り返し、繰り返し。同じような工程を踏んで、下へ下へと、降りていく。不思議なことに、どれだけ下っても、見上げれば空が見えた。

「えっと…僕たち今、下に行ってるんだよね…?」

 たまらず、前を歩くホワイトに聞く。

「うん、そう。」

 簡素な返事だけが返ってきた。

 いまだ深い霧に包まれた道を歩く。

 頻繁に空を見上げる僕を見たのか、彼女は説明を始めた。

「その空は本物よ。私たちは今、ちゃんと下っているの。地面に向かってね。」

 彼女は続ける。

「列車を降りたところは、第八階層。そして今が第三階層。ロンドンはね、全十階層で出来ている、多重高層都市なの。新時代の力を使って発展を続けたここは、人口の爆発と、大幅な土地利用のために、進化を遂げた。私たちが今向かっているのは第一階層だから、もうちょっとだけ歩くわよ。」

 多重高層都市…。ロンドンがこんな発展を遂げていたなんて知るよしもなかった。

「階層ごとに身分がもうけられていてね、高い階ほど裕福な人々と技術が集まるの。奴隷制度なんかもあるわ。一方で、下の階に行くほど、人々の暮らしは貧しいものになっていくの。第三階層から下は、低賃金で、鉄道や工場で働かされている人達のたまり場よ。ロンドンは、お金の有無で完全に棲み分けを行う社会を実現させたの。上で生まれた者は、一生ゴミを見ないで生活する一方、下の階で生まれた者は、二度とそこから出られない奴隷のような生活を強いられる。…まったく…反吐が出る…。」

 彼女は言葉を吐き捨てた。

 徐々に蒸気と石炭の匂いがまとわりつくようになり、蒸気機関の動く音がかすかに聞こえるようになってきた。

 路地に入る。今までとは違う、大きな門が出迎える、地下への階段があった。

 幅の広い階段を下る。真っ暗な階段の奥に目をやると、かすかに燈色の光が漏れ出していた。…あそこが出口なのか…?

 階段をさらに下る。真っ暗な空間を抜けて、外に出ると…

「うそ…だろ…」

 そこには街があった。いや…僕は階段の上から街を見下ろしていた。とてつもなく巨大な空間。四方を鉄の壁に囲まれ、まるで箱の中にそのまま街が入れられたような空間。天井らしきものの隙間からは、木漏れ日のような茶色の光が差し込んでいる。本当に街がすっぽりと収まっている。

 少女は言葉を紡いだ。

「ここがかつてロンドンと言われていた街。上に階層が重ねられて、今では蓋をされたみたいに暗い。まるで箱の中に入れられたような窮屈さ。昔は栄華を極めたこの街も、最下層になった今では、誰も見向きもしない地下の世界。そのままのロンドンが、この地下の大空間に閉じ込められているの。」

 僕は息をのむ。

 圧倒的な眼下に、めまいさえ覚えながら、壁に貼り付けられるように設置された巨大な階段を下る。

 ジャングルジムの一段目。階層を支える壁と、巨大な屋根(第二階層)に囲まれながら、蒸気をあげる街。

 ふと目をおくる。巨大な時計塔。かつて天を仰いだ世界時計・ビッグベンは、頭上の鉄の天井、人々の哀れな階級制度に押さえつけられているように見えた。

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