早朝。澄んだ水蒸気の匂いに酔いながら、深い霧に飲まれた街路を歩く。街灯がぼんやりと足下をてらす。新調したての薄茶のコートの感触に違和感を感じながら足を進める。両脇にはビクトリア朝様式の高さのそろった建物が連なっている。建物の一階部分の商店たちは未だ眠っているのだろう。もう太陽が昇る頃だろうに、街は閑散としていた。

 この街の名前は「ダッドリー」。内陸の大都市「バーミンガム」の近郊、北西に位置する街だ。それなりに人口の多いこの街は、衣装作成などの裁縫技術で発展してきた。バーミンガムの上流階級の人々に昔から重宝され、「ダッドリーの特注ドレス」はそれだけでブランドとなった。一つのことに秀でた街のさがか、他に比べスチームマギアなどの技術革新は遅れている。未だに蒸気機関に多くを頼っているが、僕はそんな街が好きだった。

 そんなことを考えながら、先刻、初仕事を無事終わらせた僕は足を進める。目的地は、街の中心、「ダッドリー駅」の小さな時計塔。やや足を踊らせながら、朝霧に包まれた街を抜けていった。


   *


 駅の広場に近づいた時、霧を裂く汽笛の音が耳に響いた。それと一緒に聞こえた蒸気のこすれる音は、朝一番の汽車の発車を僕に教えた。

 太いパイプが重なった大きな門をくぐり、駅の中に入る。霧から解放された目に映るのは、薄闇の中列車を待つ、コート姿の男達。手にはボストンバッグを持ち、同じような丸い帽子を深くかぶっている。外とは違い、通勤の喧騒に包まれた駅を抜ける。彼らを横目に、脇の階段を上り二階へ。踏み上げる足と一緒に、コツコツと金属を鳴らす音が響く。二階はガラス張りの大広間になっており、待合室の役割を担うスペースとして使われている。壁際の切符売り場の駅員に軽く会釈をして、前を通り過ぎる。僕が向かうのは切符売り場の横、二階の一番隅っこの暗がり。そこに足を向け、その奥に存在する小さな扉に手をかける。銅の冷たさを感じながら、ドアノブを回した。


   *


 「おはようございます。」

 ガタガタと、時計塔の秒針の鳴らす音が部屋に響く。ここは、幅二十メートルほどある大きなドーム状の部屋で、時計塔の内部、時を刻む針の裏側に存在する空間だ。真ん中には机と椅子が置かれており、そこには一人の老人が座っていた。

「うん、おはよう。」

 老人は僕に振り向きもせず挨拶に答える。

「今日もよろしくお願いします。」

「はいはい。」

 まるで興味の無いかのように答える。いつも通りの会話を終わらせ、僕は壁に掛かっている作業服に着替える。作業用の帽子とゴーグルを身につけ、工具の入った箱をクローゼットから取り出す。

 これから行うのは「時計塔の調整作業」。歯車仕掛けで動いている時計塔の時計のメンテナンスだ。時計技師としての仕事を探していた時に見つけた「時計塔の調律者求む」の張り紙。それに応募し、ここに採用されることになった。採用と言っても就職では無く、朝と夜の二回、毎日決まった時間に時計塔に訪れ、決まった行程で点検するだけなんだけれど。それでも僕にとってはとても勉強になる。こんなに大きい歯車仕掛けの時計を内部から見る機会なんてそうそう無い。給料もある程度出るので、ある種、幸運だった。

 椅子に腰掛けている老人を紹介しなきゃね。彼はこの時計塔の管理者。本当は彼がこの点検をする役割を持つ。面倒くさい、などといったふざけた理由で駅前に求人を出したとは考えたくないが…。まあ、でも彼はれっきとした時計技師の資格を持っている。大きな仕事をいくつもこなしている有名な時計技師らしく、僕も彼の名前を何回か耳にしたことがあった。そんな人が管理をサボっているのには、なにか理由があるのか…。

 彼が僕の方を向いた。真剣なまなざしで見つめられる。

「…どうしたんですか?」

 彼は神妙な面持ちで、腕を突き出した。手には空になったブリキのコップ。

「…コーヒーのおかわりを入れてきてくれないか?」

 仕事前の僕は、彼に笑顔で答えた。

「僕はあなたの執事じゃありません。」

「えぇ…ケチ…」

 まったく、どうしようも無い人だな。

 ため息をつきながら、僕は時計の歯車を見る前に、コーヒーを作る準備を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る