70 気味が悪いの…

 家に帰ったらまずシャワーを浴びる。自分は汗をかかないが、職場でトレーニングする人の指導をするので、汗の匂いをリセットしたかった。


 風呂場から出て髪を拭きながら、シヴァはスマホを触った。仕事中や移動の時はマナーモードにしているので、亘から着信があったことに気づかなかった。


 すぐに折り返しの電話をすると、泣きそうな声をした亘がでた。


「どうした?亘」


「シヴァさん、ミシェルがいないんです!帰ったらいなくなってて、辺りを探してるんですけど…いなくて!」


 それを聞いてシヴァはすぐに服を着て、車でミシェルの家へ向かった。






 潮風に吹かれながら、茫然と海を眺めているミシェル。ここまで適当に歩いてきたが、ここから何処へいけばいいのかわからない。

 自分は迷子だ。

 行く道も戻り方もわからない。1度死んだらリセットされるのかと、揺れる水面を見ていると声を掛けられる。


「ミシェル。何してるの、こんなところで?」


 振り返ると茶髪の女が立っていた。野暮ったい格好だが、容姿は綺麗めだった。同種だろうと予想したが、ミシェルはそれ以上の分析をやめた。

 彼女が何者だろうとどうでも良かった。


「悪いけど、私…あなたを知らないの」


 脱け殻のような様子のミシェルはふらふらと立ち去ってしまう。ケリーはしばらく見つめていたが、呼び止めたりはしなかった。







 ケリーから連絡をもらった亘はシヴァの車で港にある親水公園へ向かった。日も暮れた園内を外灯を頼りに人影を探す。すると、ベンチに腰掛ける金髪の女性が遠目に見えてきた。


 駆け寄ってきた亘に振り向く事もなく、話しかけても黙ったままのミシェル。亘はミシェルの心境を察する事ができないまま、手を引いて連れて帰る事しかできなかった。


 シヴァの車で家へ戻り、亘は夕食と風呂を済ませる。ミシェルはソファに座ったまま放心していたが、入浴を勧めると立ち上がって部屋へ向かおうとした。


 すれ違う瞬間、彼女の服から何かが落ちる。拾い上げると手紙のようだった。


「ミシェル、落としたぞ」


「返してっ!」


 ミシェルは亘の手から手紙を奪い取る。彼女が抱えるように握りしめているその封筒には、見覚えがあった。


「それって、ユリーさんの手紙か?」


「……ユリー、を…知ってるの?」


「ああ、会ったことがある」


「いつ?どこで会ったの!」


 詰め寄られた亘は2ヶ月前の事をミシェルに語った。ユリーが訪ねて来た事、食事をしたことなどを詳細に…。


「シンガポール…そこにユリーが…」


 ユリーの居場所を聞き出すと、ミシェルはすぐに部屋へ駆け込んだ。どたばたと部屋の中を物色し、引っ張り出した鞄に詰め込んでいた。


「何してるんだ?」


「シンガポールへ行く!そこにユリーがいるんでしょ!」


「はっ?今からか!ちょっと待て!海外だぞ!パスポートとか、チケットとか、どうすんだよ!」


 焦った亘がミシェルの渡航を止めようとするが、ミシェルは亘の目の前に赤いパスポートを突き出す。


「これが現代の通行証であってる?それと、この『スマホ』があれば物を買えるって言ってたよね?行き方もこれで調べるし、取り合えず空港に行ってみるわ…」


 彼女の適応力と勘の良さに開いた口が塞がらない。この5日で物の在処ありかから通貨の仕組みまで理解している。

 荷物をまとめて出ていこうとするミシェルの手首を亘は掴んだ。


「待ってよ!」


「はなして…!」


 勢いよく腕を振り払われた。

 金切り声を上げられて、亘は困惑する。


「もう嫌なのよ、ここにいるのは!

何もかもが不自然で不快で、気味が悪いの…」


 ミシェルは亘を拒絶した。


 いや、亘だけでなくこの生活、環境、人間関係全てを否定した。本当はずっと、この状況が嫌だったのだ。


 去っていくミシェルの背中を亘は見つめていた。ミシェルに拒絶された事もそうだが、彼女の喪失が怖くなった。


 なんとしても、引き止めなければと…亘は駆け出した。


「だめだ!行くなっ!」


 階段を下りる前に亘はミシェルを後ろから抱きしめる。


「たのむ!行かないでくれ!」


 映画やドラマでよくありそうなベタな方法だった。だが、今は羞恥心など引っ込めて、ミシェルに訴える。彼女はしばらく黙っていたが、急に手で亘の人差し指を掴んだ。


「はなしてよ。じゃなきゃ…


  指の骨、折るよ…」


 亘の人差し指が逆向きに曲げられ、悲鳴を上げる。今のミシェルなら本気でやるだろう。痛みと恐怖で身がすくみ上がったが、ねじ伏せてミシェルを強く抱きしめた。


「ミシェル…お願いだ。どこにも行かないで」


 ミシェルは本気で骨を折ろうとした。だが、出来なかった。何かが行動の邪魔している。

 それが何なのか判らず、尚更気味が悪い。だが、彼を傷つければ、もっと気分が悪くなる気がした。


「……わかった。行くのは、止めるわ。

 だから…放して…」


 亘はゆっくりと腕をほどく。本当に考え直したのか確信が持てず、しばらく手を掴んだままでいると、ミシェルがパスポートを渡してきた。亘はそれを枕の下に隠して就寝した。





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