第二章 時は流れているか バートミュンスターまで  その1 そもそもは

時は流れているか ーー西暦2015年 古希(70歳)ごろから始めようーー



「実はアタシね、ドイツ人を一人地下室に長年閉じ込めているのよ」

と、これは本当の幻想の友達に秘密を洩らすことがある、そんな私、確かに妄想癖はあるのです。


「ええ」と声は尻上がりに、蝶が翅をふうわりと広げたさまを思わせるその眉を高々と上げてかすみさん、

「な、なんでまたそんな」とどもってみせる。

「なんでってね、アイツ私にハラスメントするんだもの、セクハラ、モラハラ、パワハラ、だヨォ。だから罰に日本という身動き取れない場所に押し込めの刑にしてやったの」

「やったね」


「でもさあ、押し込めたのはいいんだけど、私も共にひき籠もりになったのだあ」

「 そうでしょ。そうだと思っていたわ、何だか変だったもの、あなた。世に言う引きこもり夫婦。何故、何故、出て行かないの。鎖で縛られているの!」

  かすみさんの柳眉が逆立つ。

「だって、あの」

「だっても何も。出て行くのも怖いのね! 弱虫ね、ウジウジしてもう!」

「アイツいつも死にかけてるから、まあ少し待ってみようか、とか」

「ふん、それで? ピンピンするならいいけど、ますます依存してくるんでしょ。その割には偉そうなんでしょ」 


 私、錐子(キリコ)うなづく。

「もうアタシも古希だものね、辛い。特に不眠なのに寝かせてくれないから。もう限度かも」


「信じられない馬鹿ね、錐子さんって。刺し殺したらば!」


 私は言い当てられたような気がした、震えがきた。破滅だ、破滅がくるのだ。



 外では、隣家のお庭で柿の花が愛らしく咲いて、そのうちに役割を終えたらしい雄花がパタパタと落ちていく。(柿の実の描写には別に意味はない、ただ柿が好きなので)

  去年のこの頃、やっと私の原因不明の腰痛が治ってきつつあった。石橋鍼灸院で鍼を打ってもらうようになってからふたつきほど経っていたっけ。

 

 鍼灸に通う前は、整形外科医から別れにもらった痛み止めを服用していた。

 そもそも、この強力な痛み止めを初めて処方された時は、薬剤師が向かいの薬局から出向いてきて、整形医院の待合室でじっと座ったままの私に、わざわざ忠告した。きちんと処方通りに服用するように、強力なので。


 その後、結局原因不明のまま、医師も愛想が尽きた、迷惑だから消えてくれという顔をしているので、大量のそれを貰って治療を終えたのであった。

 そして必要に迫られ、日々服用しているうちに気づいた。

 なるだけ量を抑えるために、我慢できる限りは我慢し、どうしても外出ということになると倍量飲んでいたのだが、時間が空くと、たまらないような焦燥感に襲われた。臓物がかきむしられるような、地面を転げ回りたいような気分になった。 


 そして恐ろしいことに、その粒を飲むと即刻苦しみが消えた。なんとよく効く薬であることか。

 そんなことを数回繰り返した頃、ぞっとして気づいた。これは依存ではないか。中毒ではないか。

 そこから、私は必要に迫られて代替医療に切り替えることになった。


 その前から、実はふたつき鍼灸に通っていたのだがそれは、夫の合気道の先生から再三勧められていたので、ある程度お義理であった。


「俺の親父がね、胃がんで残すところ一年なんてことになってさあ、石橋先生にお願いすることにしたのさ。薬漬けで入院しているより、家で代替医療で生活してもらおうって。お酒は止めないままだよ、三年近く生きてさ、いよいよという時には、みんなにサヨナラを言って、お袋に、ありがとう、涙をほろり、事切れた、そんな理想の逝き方だったのさ」

「そんな絵に描いたような話が本当にあるとは。。。。」


 武藤先生は、袴をいじりながら続けた。

「なあ、すごいんだよ、その石橋先生ってさ。ある時は俺が高熱を出して、朝になっても引かないのに、その日はどうしても大会に出なきゃならないって絶体絶命の時があったんだけどね、電話したら、遠隔治療さ、熱が引いて、普通に出席できた」

「えっ、ほんとですか!」


 そこで、武藤先生は話を切って、弟子たちに次の技を披露し注意事項を話した後、また私の前に戻ってきて、

「それでさあ、息子の嫁さんなんだけど、すごいアトピーでかわいそうなくらいの皮膚になっちゃってね、医者ではどうせ何とかいう、効くけど結局は効かない薬をくれるくらいだからって、鍼灸に連れて行ったんだ。もちろん、有機野菜、水、料理法なぞ、生活も変えてだけどネ、何と、前よりも綺麗な皮膚になっちゃってね!」と嬉しそうにカカ、と笑った。


 そんな話を延々と弟子でもない私に聞かせるのは、実は弟子の一人である私のダンナが心臓病なのと、一途なところがありながら、性格が偏ってネガティブなことを心配してのことであった。しかしドイツ人の彼とは、何しろ意思の疎通がうまくできないので、女房の私に話しておくのであった。

 私は、幸いにもそんな話にも違和感を抱かず、むしろ興味を持つという軽薄なところがあり、武藤先生の意図に反して私の方が影響を受けていたのである。あるいは私のストレス状態がわかっていたのかもしれないが。


 もう一つ、話をさかのぼると、ダンナはそもそも武道好きである。思春期にいじめを受けていたので防御のために始めた。ドイツで合気道を習った。日本で唯一素晴らしいのは合気道のみだというのが彼の持論であった。

 幸いにも、私にも武道好きな面があり(それは単に、娘時代に小説宮本武蔵を愛読したということ、父に剣道を習ったということ、後年、新聞広告でみたある台湾美人の太極拳の姿勢が非人間的なほど美しく心を惹かれたということ、に由来するのであるが)、夫婦の意見が一致する稀な話題であった。

 こういう幾つかの後押しがあったために、鍼灸院に通うことが可能になったのである。さもなければ、原因不明の腰痛であっても、ダンナがそんな「非科学的なこと」を私に許すはずもなかったのに。



 私が軽薄なところを持ってるってのは事実で、それにプラスして人が良いので、うかうかと新教宗教などに取り込まれやすくなる。

 しかし、一見そう見えるし、敵(敵?)もこいつはたやすいと思うだろうが、どっこいそうはいかない。私にはどんな意味でも信念がないのだ。まるで原子核の周囲を回っているらしい(というのも見えないので、小さすぎて速すぎて)電子の作る雲のように、とらえどころがない、捕まえられていない、自由であるのだ、私の本性は。ちょっとすごい比喩を用いてしまったが。


 結局は完全に私をつかまえることのできた教えはない。好奇心はあるが熱狂も熱情もない。ご意見拝聴で一理はあるけど、で済ます、支配欲もない。目立ちたがり屋でもない、人に寄ってこられるのは何か勘違いが起こっている時だ。グループもグルーミングも、ちょっと試してはみたがどこにも属さないのがすぐにわかる。

 そんな七十年間であった。


 ダンナとはいつも程度の低い水掛け論のみをして、というのも元々諍いは私の質ではないのだが、彼の矛先が家族に対するものとしては鋭すぎるので、せいぜい無視という態度を基本にして「相手にしない」のだが、口論にまで発展するとその不毛さに絶望してもっと引っ込む、水掛け論を打破できなくて(討論術、ディベートなど、まああまり賢い頭を持っているわけはないので)距離を取って心が離れていくのみの年月であった。まあこれまでのことは余り重要でなく、価値がない。価値がない、と言い切るのも恐ろしい態度ではあるが。


 そうだ、今から入って行こうと思っている事柄は次のような要素と経緯で起こってきた。


一つ、十五年前に二十代で自殺した息子と三十年前に難病で亡くなった父に会うこと、

二つ、母の行き先(いわゆる終活として)を考えること、引導を渡すこと、

三つ、末の息子が死、すなわり意識の無(無神論による)に慄いていること

四つ、自分の死をたやすくする、堂々と死ぬために

五つ、意外なことだが、私の熱情は一つある、生命への悲しみ、同情、癒しの希求、同時にそれは宇宙の法則、真理への熱い熱い熱望である。


 以上の五点を背景に、七十にして私はやっと本気になった。人事を尽くして天命を待つ、とことわざにあるが、逆である。人間を信じていない私は、人事を後回しにし、天佑をまず待つことにした。心を開いて流れに任せ、天啓をいただくことにした。


 以上の五点以外に守るべき自分の信念がない、ということ、フリーであることの背景には深い疑念があるようだ。

 人間への疑念、つまり彼らの為すこと、社会の規則と規律への態度、つまり特定の時代背景に応じて社会化され、偏向されていることへの違和感がある。


 一方ホルモンによって操作されていること、これも密かに気づかぬうちにだ。これへの反抗心も私の中にあった。反抗しても負けるのだが。それゆえに一層人間の行動への疑念が深くなった。


 すべての操作は脳内でなされる。五感は情報を運ぶが、しかし脳はそれを解釈して像を組み立てるのだ。興味本位で選んだオリバーサックスの「火星人の人類学者」を、へ~とか言いながら楽しく読むうちに、ハッと気付いた。そこで表明されているのは脳の可塑性とか脳の恒常性とか、前頭葉が傷つくと理性が利かなくなるとかではなく、脳の恣意性だ。


 盲人の世界はそれ以外とは非常に異なる。有名な幻肢痛を見ても、脳が現実と唯一的に結びついているのではないことを示唆している。

 現実は現実なのか。本当にあるのか。

 脳の描く幻像という可能性もある。 

 それどころか私の意識の世界にいる人や物は私にのみ見えて感じられているもので、実在ではないかもしれない。

 外界は実在なのか。大きな疑問だ。



 痛みを感じる、人はこれに囚われる、脳内のストレスにより適切なホルモンが減り、痛みの回路が修正されないままぐるぐる巡る。この状態の患者を助ける方途が整形外科にはないようだ。


 石橋鍼灸院で体を(心も)世話されるうちに、私は原因不明の(恐らく最初は何か直接の理由があっただろうが、そして理由についてはテレビの健康番組で聞いたりもする)腰痛から徐々に回復し、施設にいる母を訪ねることができるようになった。


 ただこの間に、母の記憶がだいぶ損なわれていた。施設では眠り病と仮名が付いていたが、脳梗塞などがあったのだろう。


「お母さん、錐子よ」

「きいちゃん、あらあ、来てくれたのねえ」

 私の顔は覚えている。最近、どう? 先月は眠ってばかりいたって聞いたけど。

 え、そうだったかなあ、もう忘れた、とヘラヘラ笑う。

「 白髪が増えたねえ、きいちゃん」

「そうよ、だってもう私も七十だよ」

 九十三歳の母の顔がかわいそうなくらいシワとシミに覆われているのを私はちらと見る。骨と皮だ。


 短期記憶というのか、少し前のことを忘れている。しかし対話には支障がなく、字も読めるし、かなり普通に会話もできる。壁にある父の写真を見上げて、


「お父さん、どうしてるの?」

「さよならっていってしまったよ」間も無く三十年になる。


「恒雄はどうしてるの?」

「さよならっていってしまったよ」恒雄は弟だ、亡くなって四年が過ぎた。


「ふ~ん、それで、あの、きいちゃんは誰と暮らしている?」

「いつものドイツ人のダンナだよ」「何してる?」

「心不全が悪くなって、仕事クビ」 


「で、きいちゃんの子供は誰だった?」

 私は三枚の写真を取り出す。

「ほら、これが長男のヒロくん」

「ヒロくんは何してる?」

「さよならっていっちゃったよ」私の声が抑えきれなくて震えた。


「これはまもるだよ、九州で好きな音楽をしてるでしょ」

「まもるは歌が上手だったよねえ」と記憶に日が差したようだ。


「そしてこれが末っ子のゆきちゃん」

「へえ~」幸雄とは一時期母と三人で家出していたことがある。ダンナが荒れて堪らなかった頃だ。当時と比べて、今は性格や生活が改善した、というわけではまるでないが。


「幸雄には子供がいるでしょ、ほら可愛い祐介」

 私もつい孫可愛さに笑顔を取り戻す。


「まあ、いい子だねえ」と母は父子の姿をじっと見つめている。

 不意に

「お父さん、どうして亡くなったのか全然思い出せない、恒雄のことも」と言った。


「お父さんはほら、アミロイドーシスっていう難病で、どうしようもなかったんだよ。ツンちゃんもまた、よりによって膵臓癌だから、ほら数子おばさんと同じ、これも手遅れだったんだよ」


「そうだったんかねえ。なんにも覚えていないよ。さっぱりわからないよ」

と、母はむしろ無表情で呟くのであった。


 その夜、寝ようとした時、突如、自分の役割がわかった。

 そうだよ、お母さんに引導を渡してあげるんだ。


 過去は覚えていない、消えた、

 未来はあなた任せ、現在も施設で人任せ、

 薄暗い闇の中に生きている、せめてあの世には会いたい人が待っていると、思わせるようにしなきゃ。きっと父もそれを私に望んでいるのだ。

  優しかった父親の笑顔に、そうでしょ、と私は呟いた。


 この時、別に霊的な世界を信じて考えていたわけではない。私はそこまで縛られていないのだが、可能性として、あるいは慰撫の手段として信じたほうが心強い、怖くないはずだとは強く思えたのである。

 いつもぼんやりしている自分の中に、強いものが現れた時私はそれを大事にする。


 そう言えば、過去にも一度強い私が現れた時があった。今を去ること五年前、西暦二千十一年にダンナが失職した、全てが折り重なってきた時だ。


 宿舎を出ねばならず、住む家はなく、千葉にいた弟が癌手術を受け、スープの冷めんない距離に住んでいた母にも今後の行く当てがなく、私の末の息子は東京都大田区に住んでいて、嫁の心理的な問題から孫の面倒を見てくれる人が絶対に必要だった。

 当時住んでいた関西から「房総半島へ引っ越しだ!」

 そう、強く思った。一人で決意した。行動した。


 母には弟宅近くの施設に入ってもらい弟と会えるようにする。

 引っ越しは一人でする、ダンナも母も何もできない。

 メモ帳二冊が様々な書き込みで溢れ、角がささくれだって摺れていった。


 私と夫のJBと家具がやっと新居に入った瞬間、東日本大震災という乱暴な歓迎を受けた。 

 かろうじて艱難を乗り越えた。だからそう重要ではない。


 それからもしかし、まだ許されはしなかった。神は、運命はいつまでも私を攻撃し続ける。しかし考えてみれば、私が善人というわけではない、知らずして泣かした人もあるだろう、恨みを抱いて呪っている人も絶対にいるのは知っている。


 自分が耐えていることは余りのことに思えるけれども、よく考えてみれば妥当かもしれない。あるいは、むしろ自分の苦悩は自分の罪悪感の為す技だ、そうドラマなどで聞くではないか、とすると、私が感じる苦は自分の罪を贖う、贖罪である、ともみなせる。そう思うことによって、そのままで受け入れようと思うこともあった。よく人はありのままが一番とか言う。全くその言う意味はわからないながら、そんなことかなあとも思われる。

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